三ちゃんのサンデーサンライズ。第418回。令和5年5月28日、日曜日。
サミットの余韻の残る広島に来ています。
昨日は4年ぶりに呉の神応院様の仏教講話会でした。
もう十数年通っていますが3年休みました。
神応院様の皆様と久しぶりに再会して温かい時間を過ごしました。
集中講座まで1週間となりました。
23日には第2回の実行委員会を開催し、スタッフ40名を依頼しました。
集中講座を始めた理由はいくつかあって、まずは、お寺が死んでからの場所ではなく生きているうちにくる場所だという認識の転換を図りたいというのが第1点。
次に、この町は何もないという悲観的な見方を何とかしたい。少し頑張れば、田舎の町でもとても優れたお話や音楽、話芸を楽しむことができる。「この町もおもしろいじゃないか」と思える。その実験をやってみたい。
そして、若い人たちがお寺に集まり楽しむ、お寺の敷居を下げたい、という思いです。
実際にスタッフとして参加してくれる人の中には、檀家でもないので名前と顔が一致しない若い女性も何人かいて、「お寺ってこうなっているんですか、初めて入りました」というような人が、スタッフとして生き生きとして会場を仕切ったりしてします。
そして終わってからの打ち上げは、大いに語り、笑い、歌い、踊り、本堂が壊れんばかりの大賑わいとなり、楽しい一日を終えるのが常です。
その時に私は、「やって良かったな」としみじみ感慨に浸るのです。
以来、スタートから18年が経過しました。コロナで3年間休止しました。スタッフもそれぞれ歳を重ね、熱意も冷めかけ、今回4年ぶりの開催です。
「来年もやろう」という声が打ち上げで出るかどうか、それによって来年以降を決めたいと思っています。
「嫌な人などいない、嫌だと思う自分がいるだけだ」という言葉があります。
そう、人間に「悪い人」も「善い人」もいません。「その人」がいるだけです。
それを「あの人は悪い人だ」とか「善い人だ」と言うのは、自分の勝手な見方、評価です。
好きな人だとか嫌いな人、苦手な人、合わない人、と色分け、区別しているのは自分の判断であり、その人自身の人格には関係ありません。
何かの映画で観て印象に残っているシーンがあります。
犯罪を犯し、だらしない男が警察に逮捕されていくとき、劣悪な環境で一緒に暮らしていた息子が泣いて父親にすがり、警官を叩いて抵抗するというシーンです。
この親と一緒にいたら息子もダメになり、離れて暮らした方が人間的な生活を送れるだろうと、観る側は思い込んでしまうけど、一緒に暮らす子どもにとって、父親はたった一人の家族であり、愛する人なのでしょう。
この子にとって、父親は「悪い人」ではないのだな、と感傷的に観た記憶があります。
善い人か悪い人か、好きな人か嫌いな人か、それは自分の見方でしかないのです。
この世には善い人も悪い人もいない、それをまず腹に据えましょう。
「犯罪者は悪い人じゃないか」と言うかもしれません。
しかし、生まれながら犯罪者として生を受けた訳ではないでしょう。
犯罪を犯すのは遺伝性もあるというデータもあるようですが、そうだとしてもそれは「命の環境」ということもできるでしょう。
育つ生活環境、貧困や差別、人身売買や強制労働、その環境によって人の将来は大きく変わってきます。
環境や出会いによって犯罪を犯してしまったとしても、その人を「悪い人」と決めつけられるものでしょうか。
その人を愛する人や必要とする人がいるかもしれません。相手によっては優しい人であり、善い人であるかもしれません。
絶対の悪人も絶対の善人もいないと言えます。
至道無難、唯嫌楝択(しどうぶなん、ゆいけんけんじゃく)という禅語があります。
仏の道は難しいことではない。ただ選り好みすることがいけないのだ、という意味です。
ついつい私たちは、相手を先入観や他人の評価で色分け、色付けして見がちです。
更には、相性などで好きや嫌いと二者択一して相手を見る、それが間違いのもとだというのです。
自分の楝択(けんじゃく)選り好みの心が、相手をそのままありのままに見ることを妨げています。
好き嫌いは相手ではなく、自分の中にあるのです。自分の「嫌い」の心を相手に投影しているにすぎません。
そのことを分かって相手を見る必要があります。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
サミットの余韻の残る広島に来ています。
昨日は4年ぶりに呉の神応院様の仏教講話会でした。
もう十数年通っていますが3年休みました。
神応院様の皆様と久しぶりに再会して温かい時間を過ごしました。
集中講座まで1週間となりました。
23日には第2回の実行委員会を開催し、スタッフ40名を依頼しました。
集中講座を始めた理由はいくつかあって、まずは、お寺が死んでからの場所ではなく生きているうちにくる場所だという認識の転換を図りたいというのが第1点。
次に、この町は何もないという悲観的な見方を何とかしたい。少し頑張れば、田舎の町でもとても優れたお話や音楽、話芸を楽しむことができる。「この町もおもしろいじゃないか」と思える。その実験をやってみたい。
そして、若い人たちがお寺に集まり楽しむ、お寺の敷居を下げたい、という思いです。
実際にスタッフとして参加してくれる人の中には、檀家でもないので名前と顔が一致しない若い女性も何人かいて、「お寺ってこうなっているんですか、初めて入りました」というような人が、スタッフとして生き生きとして会場を仕切ったりしてします。
そして終わってからの打ち上げは、大いに語り、笑い、歌い、踊り、本堂が壊れんばかりの大賑わいとなり、楽しい一日を終えるのが常です。
その時に私は、「やって良かったな」としみじみ感慨に浸るのです。
以来、スタートから18年が経過しました。コロナで3年間休止しました。スタッフもそれぞれ歳を重ね、熱意も冷めかけ、今回4年ぶりの開催です。
「来年もやろう」という声が打ち上げで出るかどうか、それによって来年以降を決めたいと思っています。
「嫌な人などいない、嫌だと思う自分がいるだけだ」という言葉があります。
そう、人間に「悪い人」も「善い人」もいません。「その人」がいるだけです。
それを「あの人は悪い人だ」とか「善い人だ」と言うのは、自分の勝手な見方、評価です。
好きな人だとか嫌いな人、苦手な人、合わない人、と色分け、区別しているのは自分の判断であり、その人自身の人格には関係ありません。
何かの映画で観て印象に残っているシーンがあります。
犯罪を犯し、だらしない男が警察に逮捕されていくとき、劣悪な環境で一緒に暮らしていた息子が泣いて父親にすがり、警官を叩いて抵抗するというシーンです。
この親と一緒にいたら息子もダメになり、離れて暮らした方が人間的な生活を送れるだろうと、観る側は思い込んでしまうけど、一緒に暮らす子どもにとって、父親はたった一人の家族であり、愛する人なのでしょう。
この子にとって、父親は「悪い人」ではないのだな、と感傷的に観た記憶があります。
善い人か悪い人か、好きな人か嫌いな人か、それは自分の見方でしかないのです。
この世には善い人も悪い人もいない、それをまず腹に据えましょう。
「犯罪者は悪い人じゃないか」と言うかもしれません。
しかし、生まれながら犯罪者として生を受けた訳ではないでしょう。
犯罪を犯すのは遺伝性もあるというデータもあるようですが、そうだとしてもそれは「命の環境」ということもできるでしょう。
育つ生活環境、貧困や差別、人身売買や強制労働、その環境によって人の将来は大きく変わってきます。
環境や出会いによって犯罪を犯してしまったとしても、その人を「悪い人」と決めつけられるものでしょうか。
その人を愛する人や必要とする人がいるかもしれません。相手によっては優しい人であり、善い人であるかもしれません。
絶対の悪人も絶対の善人もいないと言えます。
至道無難、唯嫌楝択(しどうぶなん、ゆいけんけんじゃく)という禅語があります。
仏の道は難しいことではない。ただ選り好みすることがいけないのだ、という意味です。
ついつい私たちは、相手を先入観や他人の評価で色分け、色付けして見がちです。
更には、相性などで好きや嫌いと二者択一して相手を見る、それが間違いのもとだというのです。
自分の楝択(けんじゃく)選り好みの心が、相手をそのままありのままに見ることを妨げています。
好き嫌いは相手ではなく、自分の中にあるのです。自分の「嫌い」の心を相手に投影しているにすぎません。
そのことを分かって相手を見る必要があります。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。