なあむ

やどかり和尚の考えたこと

いろいろありました

2010年11月30日 19時45分27秒 | 今日のありがとう

大相撲やアジア大会で夜をつぶしていた間にいろいろありました。

葬式が1件と結婚式が1件、影法師の35周年記念コンサートがあり、その間に福井に行ったり東京に行ったり。

影法師のコンサートは結婚式を途中で抜け出し駆けつけたのですが、佐高信、辻本清美の講演は間に合わず、猿回し猿舞座と高石ともやだけ聴くことができました。

高石ともや良かったですね。日本のフォークソングの草分け的存在ですから、そのスタイルはまさに草モウ(漢字がでない)のそれでした。

猿舞座は、来年の宿用院地蔵まつりに来ていただくことをお願いしていましたが、既にスケジュールの中にバッチリ組み込まれているようでした。

そうそう、今朝は里でも初雪が降り、山や木々に日が差して、この世で一番きれいだと思う景色が見られました。雪もここまでならいいのですがね。


兵士の命

2010年11月26日 12時21分53秒 | ふと、考えた

北が南の島を砲撃するという暴挙に出ました。それに対して南も砲撃を加えたとというニュースです。

報道では、「兵士二名が死亡」、「民間人も二名が犠牲」という文字が躍っていました。

その時に、「兵士ならば仕方ないか」「え、民間人まで」という感じ方がなかったでしょうか。

そういう報道は、これまでもたくさんありました。アフガンにおいてもイラクにおいても。

言うまでもありませんが、兵士は機械ではありません。赤い血が流れ、家族がいて、温かいご飯をおいしく食べる人間です。

一定期間を「任務」に就いているだけで、命として民間人と区別されるいわれはありません。死んでいい人間などいません。

それなのに、「兵士ならば仕方がない」と感じさせられてしまう、その仕組みが異常なのだと気づかなければなりません。

死亡した兵士の家族は民間人で、息子や夫や父や恋人を亡くして泣いているに違いない。そのことに思いを馳せなければ、戦争や紛争を肯定してしまう危険性を感じます。

やなせななさんの「最後の子守歌」という歌は、ご自身の祖父の目を通してそのことを語りかけています。

「兵士の一人ひとりが誰をも傷つけずにすむように」


てっぱん

2010年11月20日 09時11分10秒 | ふと、考えた

NHK朝の連続テレビ小説をみています。

「ゲゲゲの女房」もおもしろかったけど、今の「てっぱん」もおもしろいですね。

最近のこの番組には明確な「制作意図」があるとみています。

現代の社会の問題に対し、何かを気づいてほしい、という意図でつくられている内容だと感じます。

「ゲゲゲ」の意図は、「見えないものの存在を信じる」という日本人古来からの感性を取り戻そうというものではなかったでしょうか。

この世の中が、見えるのもだけで処理され判断されるならば、悪いことをしても「自分が悪いんではない、見つかったのは運が悪いんだ」というようなとらえ方になってしまう危険があります。

見えなくても存在する、不思議な存在、それを神とか妖怪だとかと呼び、畏敬の念を持って崇め畏れてきた日本人。当然、木々や風や山や川などの自然そのものを、命と感じてきたはずです。

その感性が薄れてきたことが、現代の社会問題の根底にあるのではないか、そこを今一度見直すべきではないか、というのがこの物語の意図であったと思いました。

「てっぱん」の意図は、ズバリ「家族」ですね。家族、社会の絆が弱くなってしまった現代。やはりそこからいろいろな信じがたい事件も多発してきた。

「もういっぺん真剣に考えようよ、家族って何」というのが意図でしょう。

その一つのアプローチとして、食卓を囲むことを提案している。血のつながりがあってもなくても、食卓を囲めば家族になれるのではないか。大きなてっぱんであれば、もっともっと大きな家族になれる。

食卓もてっぱんも、囲むことでみんなの顔が見える。そうやって一人ひとりと顔を向き合って、絆をむすんでいこうよ。

それがこの物語の意図であるとみています。


小学生からの手紙

2010年11月19日 20時44分41秒 | 布教活動

先日お話しさせていただいた東法田小学校の生徒8名から、話を聴いた感想文のお手紙をいただきました。

「わたしは、今日三部さんの話を聞いて、まどから見える森や木も、外国から見てすごいことなんだと分かりました。学校があることも、あたり前じゃなくて、めぐまれているんだと分かりました」

カンボジアやアフガニスタンなどとくらべれば、ここで生きて学校に行けることがどれほど恵まれていることか、という話をしました。

「東京スカイツリーがどうしてたおれないかを聞いて、五重のとうが参考になっているんだと始めて知りました。五重のとうには心柱があって、それでささえていると分かって、心柱をもちたいと思いました」

東京スカイツリーが、今までどんな地震にも倒れたことのない五重の塔の「心柱制震構造」を参考に設計されていることを話しました。人間も「心柱」を持たなければならない。心柱は、宗教教育によってつくられる、宗教教育といっても難しいことではなく、古くからの文化や伝統や習慣を学んでいくこと、そして、朝起きたら顔を洗うこと、ご飯の前にいただきますをすること、などを話しました。

「ぼくは、まだ顔をあらっていないので、朝起きたら、必ず顔をあらいたいと思いました」

ご飯の前に顔を洗う人と、ご飯食べてから顔を洗う人、と質問したら、ご飯の前が3人、ご飯の後が4人でした。もう一人はというと、「朝、顔を洗わない」と答えてくれました。子どもは本当に正直でいいと思いました。上はその子の手紙です。

そして、8人目の手紙、

「ぼくは、おしょうさんのこと、いちばん大好きです。紙に名前を書いているのでわすれないでください」

こんな手紙をもらったら本当にうれしくなります。絶対忘れてはいけないと思いました。

1時間めいっぱい話したことを、子どもたちはしっかりと聴いてくれました。

小さな子どもたちに話することの、意義の大きさを感じさせられました。今後も機会あれば是非と思います。


テレホン法話案内

2010年11月15日 10時07分26秒 | 布教活動

忘れていました。
曹洞宗本庁のテレホン法話に、現在私のものが流れています。
1週間の期限が今日までなのです。
忘れていました。
題は「アフガニスタンのこどもたち」です。
「平和」というテーマの中で、8年前にアフガニスタンを訪れた時のことを書きました。
今日中に間に合いましたらお聴きください。
フリーダイヤルなので無料です。
電話番号 0120-508-740


東法田小学校

2010年11月14日 16時51分15秒 | 布教活動

先日11日、最上町立東法田小学校4~6年生対象のお話を頼まれ行ってきました。

3学年合わせて8名、全校生徒で14名の小さな学校です。

事前にブログを読んでくれたようで、ありがとうございます。

縁あって、ここに生まれ、ここで育ち、ここに生きていく子どもたちへ、ここがどんなに恵まれたすばらしいところかを気づいてほしいと思いました。

今生きているところが「いいところだ」と思って生きられないのは、とてもつまらないことなので、そのことに気づいてもらうために、アフガニスタンやペルーやカンボジアの話をしました。

生まれることは選べなかった、という話もしました。

その時に、話をしようと思って忘れてしまった大事な話を、ここで伝えたいと思います。

人は、生まれる場所や、家族や、男や女や、生まれる日も、何も選べないで生まれてきます。

だけど、どんな人も、人間以外の全ての命も、生まれる必要があって生まれてきたのです。

自分が生まれたのには、その意味があった。それはどんな意味か。それをたずねて生きていくのが人間なのです。

でもそれは、頭で考えて分かることではありません。

色んな行動を通して、「あ、これかな」と気づくことなのです。

でも、考えていないと気づきもしないのです。

是非考えてください。考えながら、行動してください。

君たちが、いつかきっと、自分の生まれた意味に気づいて、幸せを感じてくれることを祈っています。

 求めていないと 見つからない

 求めていないと 出会えない

 求めていないと 出会っても分からない


カテゴリー分類

2010年11月10日 22時28分41秒 | 今日のありがとう

これまでのブログ記事を見直し、カテゴリーの分類を増やしました。
「今日のありがとう」というカテゴリーは、「何でも、とりあえず」という分類になっていましたが、整理をし、「ふと、考えた」「家族模様」「布教活動」「本を読んで」に分類してみました。
さらに、「○月○日今日のありがとう」としていたタイトルを内容に合わせて書き直し、分類しました。
こうすると、過去に書いたものも探しやすくなりました。
特に暇でもないのですが、思い立つと最後までしないと気が済まない性格なので、2年分ほど見直しました。
さて、この文章はどのカテゴリーに分類すべきでしょうか。


アイヌ語と地名 15 赤倉

2010年11月08日 20時15分17秒 | アイヌ語と地名

「赤倉」の地名は、新潟県、富山県、栃木県、三重県にも見えます。

もちろん、今回考えたいのは最上町赤倉です。

「赤倉」の文字から言えば「赤い倉があるところ」のようですが、この地名がついたはるか昔に、ここに「赤い倉」があったとは想像がつきません。

アイヌ語で「ワッカ」は飲み水のことで、「若水」の語源だとも言われています。

「ワッカ」は「アカ」になりやすく、庄内の「赤川」なども、「飲み水として使える良い川」という意味だったと思われます。同じく北海道の「稚内」も「ワッカ・ナイ(川)」で、飲み水の川という直訳になります。

「クラ」ですが、「削り取られたところ」という意味があるらしく、赤倉温泉の岩風呂などを見ると、いかにも削られた岩壁という感じです。

だとすれば、「アカクラ」は、「削り取られた岩から流れる飲み水のあるところ」というように読めます。

そのような伝説があればいいなと思っていますが、果たしてどうでしょうか。


アイヌ語と地名 14 野頭

2010年11月08日 18時13分00秒 | アイヌ語と地名

ずっと前から気になっていた地名を二つ。まずはこれ。

日本古語として山を指す言葉に「頭(カッシャ)」があります。

アイヌ語でも、地名を体の部位になぞらえて呼ぶことが多く、山は体の一番高いところとして「頭」にあてたことは容易に連想できます。

立小路でも、山の方を「カッシャ」と古い言葉で呼ぶ人は多くいます。

「野頭」の頭も、おそらくは同じ意味からのものと思われます。

「野」ですが、「ノッ」はアイヌ語で「あご」を意味する言葉で、その形から突き出たところというような意味で使われるようです。

それを組み合わせると、「突き出た山」あるいは「山の突き出たところ」で「ノッ・カッシャ」ということになります。

「カッシャ」がアイヌ語かどうかは不明ですが、日本の古語であることには間違いなく、この地に住んでいた古代の人々が、呼び習わした地名であろうと思われます。

ということは、2000年以上前に住んでいた人々がここにもいたということの証明になります。


師匠の1周忌と写真集

2010年11月01日 21時59分55秒 | 師匠の遷化

昨日、師匠の1周忌法要も無事に終わり、怒濤の10月を何とか過ごしました。
永平寺から他出してきた息子をはじめ、娘や甥姪たちも全員顔をそろえ、師父に対する申し開きもできたと思います。こういう時でないと家族全員が集まることも困難になってきました。改めて法事の意義、効用のようなものを感じています。
家族のつながりの希薄化、無縁社会が叫ばれる昨今、だからこそ、もっと法事を利用すべきではないかと思います。
住職の法事は大変です。寺のつきあいもありますから、寺院僧侶が20名、総代や親戚を合わせると総勢60名あまり、方方の支払いも済ませ一段落です。

そうそう、法事の前日荷物が届きました。

見覚えのない送り主からの段ボール箱を開けてみると、それは、2年前にアフガニスタンで亡くなったペシャワール会の現地スタッフ伊藤和也さんのご両親からのものでした。

無事に3回忌を済ませましたというお手紙と、和也さんが撮ったアフガニスタンの子どもたちの写真集と著書でした。

その写真集の写真がとてもきれいなのです。こんな暖かい笑顔を見せるのは、子どもたちが和也さんを心から信頼していた証拠でしょう。心が和みます。機会があれば是非ご覧下さい。

こんな子どもたちの上に爆弾を落としてはなりません。飢えさせてはなりません。

和也さんのご冥福を祈ります。