三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第358回。3月27日、日曜日。
岩手県水沢に来ています。
今日は、龍徳寺27世則昭大和尚の本葬です。
添乗員だった則昭さんは宮城県で出家し、永平寺修行中に私と縁があり、平成5年宿用院で首座を勤めてくれました。
いわば弟子の一人ですが、64歳で逝ってしまいました。
子息二人が僧として成長しているので、まずは一安心しているのではないかと思います。
時は常に流れています。 流れていることこそが時と呼ばれるものですから、留まることはできず、留まった時点で時ではなくなります。
道元禅師は、時間と存在は一体であり、時間がなければ存在はなく、存在がなければ時間もない、と言っています。
ですから、SFのように「時間よ止まれ」と言って自分だけが動いているようなことはあり得ない。時間が止まった時点ですべての存在が消えてしまうというのです。
山を登る「時」にそこに「山」があり、河を渡る「時」にそこに「河」があるのであり、「登る」「渡る」行為のほかに山も河も存在しない。そして、「今」の自分に、登った「時」と「山」が含まれている、という捉え方をします。
要するに、今の自分の生き方以外に時間も存在もないし、世界のすべての存在も過去から未来への時間も、すべて今の自分の行為の中にあるというのが道元禅師の時間の捉え方です。
難しいですね。
過去の自らの行為が過去に置き去りにされているのではなく、今の自分に含まれている、あるいは自分の中に生きている、と言われると忸怩たるものがあります。
忘れ去りたいのに脱ぎ捨てることのできない重さを感じます。
しかし、逆に言うと、その過去の行いが自らの中にあるからこそ、今、仏の生き方に目覚めて今を生きることもできます。
そのように生きなければなりません。 今の生き方が、未来の自分の手枷足枷にならぬよう、慎重に考え行動しなければなりません。
現代社会は、独りで自分を見つめるというようなことがとてもできにくい社会になっていると思います。
暇で退屈な時間を持たせないような仕組みになっているようにも見えます。
ぼんやりと物思いにふけるという時間を奪っているのは、スマホかもしれません。
若い者だけでなく、大人も、退屈な時間を過ごしていないのじゃないでしょうか。
スマホというものは、いわば小さなコンピューターですから、それさえあれば仕事も遊びもどこでもいつでもできるという代物です。
特にそこに待ち構えているゲームは中毒になる可能性があります。
何気なく、手持無沙汰で一度覗いてみれば最後、蟻地獄にはまるように、ズルズルとどこまでも引きずられることになるでしょう。
それはそのはずです。
企業が金をかけて、心理学なども取り入れているのでしょう、抜け出せないようにプログラムされているのですから。
毎日そのゲームに入るとポイントがついたり、特別な道具が手に入ったり、毎日やらないといけないように仕向けられているのです。
さらに、もうちょっとのところでポイントがなくなったりして、課金を誘う仕組みになっています。
少し詳しいのは、自分にも経験があるからです。私の場合、ある程度すると飽きてしまいますが。
いずれにせよ、子どもから大人まで、赤子の手をひねるように簡単にはまってしまうのです。
はまると、常に頭の中にその画面が浮かんで誘われている状態になります。こうなればもう中毒としか言いようがないでしょう。
ゲームにはまることで困るのは、課金もさることながら、もっと重要なのは時間が奪われることです。
時間が奪われるというよりは、生き方の大事を考え行為を見直すチャンスが奪われると言ったらいいでしょうか。
暇で退屈な時間の時間つぶしだったはずが、いつの間にか時間をつくって、あるいはもっと大事な時間を犠牲にしてまでやり続けてしまう。ゲームを中心にして時間を組み立てる。
先ほどの時間の捉え方で言えば、今のゲーム以外に時間も存在もない、というようなことです。
過去の行為の結果、その集大成が今のゲームだというのは空しくないですか。
同じようなことはテレビにも言えます。
その先を観たいという時に限ってコマーシャルが入ります。そのように仕組まれているのです。
続き、続きを観たいように作られています。いつの間にか考える時間が奪われてしまいます。
難しいことかもしれませんが、ほどほどにしておきましょう。
生きるということの大事を見失わないうちに。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
岩手県水沢に来ています。
今日は、龍徳寺27世則昭大和尚の本葬です。
添乗員だった則昭さんは宮城県で出家し、永平寺修行中に私と縁があり、平成5年宿用院で首座を勤めてくれました。
いわば弟子の一人ですが、64歳で逝ってしまいました。
子息二人が僧として成長しているので、まずは一安心しているのではないかと思います。
時は常に流れています。 流れていることこそが時と呼ばれるものですから、留まることはできず、留まった時点で時ではなくなります。
道元禅師は、時間と存在は一体であり、時間がなければ存在はなく、存在がなければ時間もない、と言っています。
ですから、SFのように「時間よ止まれ」と言って自分だけが動いているようなことはあり得ない。時間が止まった時点ですべての存在が消えてしまうというのです。
山を登る「時」にそこに「山」があり、河を渡る「時」にそこに「河」があるのであり、「登る」「渡る」行為のほかに山も河も存在しない。そして、「今」の自分に、登った「時」と「山」が含まれている、という捉え方をします。
要するに、今の自分の生き方以外に時間も存在もないし、世界のすべての存在も過去から未来への時間も、すべて今の自分の行為の中にあるというのが道元禅師の時間の捉え方です。
難しいですね。
過去の自らの行為が過去に置き去りにされているのではなく、今の自分に含まれている、あるいは自分の中に生きている、と言われると忸怩たるものがあります。
忘れ去りたいのに脱ぎ捨てることのできない重さを感じます。
しかし、逆に言うと、その過去の行いが自らの中にあるからこそ、今、仏の生き方に目覚めて今を生きることもできます。
そのように生きなければなりません。 今の生き方が、未来の自分の手枷足枷にならぬよう、慎重に考え行動しなければなりません。
現代社会は、独りで自分を見つめるというようなことがとてもできにくい社会になっていると思います。
暇で退屈な時間を持たせないような仕組みになっているようにも見えます。
ぼんやりと物思いにふけるという時間を奪っているのは、スマホかもしれません。
若い者だけでなく、大人も、退屈な時間を過ごしていないのじゃないでしょうか。
スマホというものは、いわば小さなコンピューターですから、それさえあれば仕事も遊びもどこでもいつでもできるという代物です。
特にそこに待ち構えているゲームは中毒になる可能性があります。
何気なく、手持無沙汰で一度覗いてみれば最後、蟻地獄にはまるように、ズルズルとどこまでも引きずられることになるでしょう。
それはそのはずです。
企業が金をかけて、心理学なども取り入れているのでしょう、抜け出せないようにプログラムされているのですから。
毎日そのゲームに入るとポイントがついたり、特別な道具が手に入ったり、毎日やらないといけないように仕向けられているのです。
さらに、もうちょっとのところでポイントがなくなったりして、課金を誘う仕組みになっています。
少し詳しいのは、自分にも経験があるからです。私の場合、ある程度すると飽きてしまいますが。
いずれにせよ、子どもから大人まで、赤子の手をひねるように簡単にはまってしまうのです。
はまると、常に頭の中にその画面が浮かんで誘われている状態になります。こうなればもう中毒としか言いようがないでしょう。
ゲームにはまることで困るのは、課金もさることながら、もっと重要なのは時間が奪われることです。
時間が奪われるというよりは、生き方の大事を考え行為を見直すチャンスが奪われると言ったらいいでしょうか。
暇で退屈な時間の時間つぶしだったはずが、いつの間にか時間をつくって、あるいはもっと大事な時間を犠牲にしてまでやり続けてしまう。ゲームを中心にして時間を組み立てる。
先ほどの時間の捉え方で言えば、今のゲーム以外に時間も存在もない、というようなことです。
過去の行為の結果、その集大成が今のゲームだというのは空しくないですか。
同じようなことはテレビにも言えます。
その先を観たいという時に限ってコマーシャルが入ります。そのように仕組まれているのです。
続き、続きを観たいように作られています。いつの間にか考える時間が奪われてしまいます。
難しいことかもしれませんが、ほどほどにしておきましょう。
生きるということの大事を見失わないうちに。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。