なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ273 産卵ブーム

2020年07月26日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第273回。7月26日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
23日木曜日、鶴楯調査
というような1週間でした。

先週も数件の法事以外は何もありませんでした。
何もすることがないことに苦痛を感じない人がうらやましいです。
もうこれだけ巣ごもりしていると、出かけること自体おっくうになってしまいますね。

巣ごもりで始めたことがあります。
メダカの飼育です。
4月、まずネットで種から育てる水草を購入しました。
古い金魚鉢があったので、それに土代わりのソイルを入れ種を蒔きました。説明書きには1週間ほどで芽が出るとあったので、毎日穴が開くほどながめましたが2週間経っても3週間経っても全く気配がありません。
種が悪いのか環境が悪いのか、販売店に問い合わせますがよくわかりません。気温が低かったのだと思います。
心機一転、はじめからやり直そうと再度種を注文すると、サービスで送りますとのこと。
そのころからようやく気温も上がってきて、はじめの一芽が出てから次々と芽を出し、6月中旬にはびっしりと生え揃いました。
待ちに待った光景です。鉢に水を張り、青メダカを放しました。緑の水草がきれいです。
気をよくして、外では昔火鉢だった2つの鉢にスイレンを植えました。こちらもメダカを放したいとの思いからです。
ホームセンターから楊貴妃という種類と普通のメダカを買って放しましたが、間もなくほとんど死んでしまいました。
水が悪かったのかもしれません。水質改善剤を入れて、今度は別の処から元気なメダカを買って放したらとても元気に泳いでいます。
ネットでメダカの育て方を見ると、元気なものを買うこととありました。はじめから弱っているのは育たないのでしょう。
次には産卵のために水草を入れました。毎日裏を見てみると葉や根に産卵しています。その卵を別の入れ物に移ししばらくすると、何と稚メダカがたくさん孵りました。目にも見えないような小さいのがウジャウジャ泳いでいます。
暇なので毎日餌をやっては4つの鉢をながめていますが、メダカは小さいのでかわいいです。
さらにさらに、数日前は池の鯉が騒ぐのでこれも産卵かなと竹の葉を丸めて投入すると、正解、すぐに産み付けました。
こちらも卵の入れ物に移しました。育つかどうか楽しみです。メダカ屋と鯉屋を始めなければならないかもしれません。どうしましょ。
でも、せっかく生まれた命ですから、なるべく育ってもらいたいと思います。
そんなこと言いながら、タラコやカズノコは無造作に食べるのにね。

そういえば、子どもが小さい頃にも谷地の寺でいろんなものを飼って育てていました。
犬も猫もいましたが、熱帯魚、金魚、パンダマウスなども飼っていました。
パンダマウスは、長男が学校の友達からもらってきて育てたもので、はじめ数匹でしたが子どもを産み始めるとまさに鼠算。あれよあれよという間に増えて、すぐに容器がいっぱいになり、飽和状態を超えると共食いを始めるのでした。ついには一気に絶滅してしまいました。恐ろしいことです。
カマキリの襲来もありました。
その頃私は廊下のような変な場所で寝ていたのですが、枕元に長男がとってきたカマキリの巣が飾ってありました。
ある朝、顔のあたりがモゾモゾする気配で目が覚め、怖気立ちました。
何と、巣から孵ったカマキリの子どもの大群が枕元をびっちり動き回っているではありませんか。ガリバーになった気分です。
さらに巣からモゾモゾと次から次へとこぼれ落ちてきます。怖いですよ。
どうやって処分したのか覚えていませんが、そのゾワゾワ感は記憶にあります。
そういえばもっと昔、高校生の頃、かわいがっていた猫が私の布団の中で子どもを産んだことがありました。
まるで「あなたの子どもでしょ」と言っているかのようでした。かなりなついていましたね。
そう考えてみると、基本的に生き物が好きなのかもしれません。
色んな出産に立ち会いました。育てることは楽しいことです。

6月には娘の子も産まれましたし、世の中出産ブームのようです。メダカと一緒にするなと怒られそうですが。


はじめに放した金魚鉢メダカ


スイレン鉢と楊貴妃


目にも見えない稚メダカ


鯉の卵孵化用

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンサンラジオ272 淘汰されないもの

2020年07月19日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第272回。7月19日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
14日火曜日、人間ドッグ
17日金曜日、もっちい例会
というような1週間でした。

なかなか陽が射しません。ここまで夏の暑さのない7月でした。
過ごしやすいといえば人間にとっての良いことですが、農作物はどうなのでしょうか。サンマが1匹6000円というのはその影響はないのでしょうか。
ましてや豪雨は。
もう異常とも呼べない気候変動は人間生活がもたらした結果ですが、もしかしたらコロナもそれに近い現象なのかと思ったりします。地球の免疫作用によって害を及ぼす人間という存在を排除しようとしているかのごとくです。地球にとって人間はやはりがん細胞なのでしょうか。
コロナはこれまで経験のない出来事ですから、政府の対応が右往左往するのも少しはわかりますが、それにしてもチグハグです。経済活動を優先すれば命の危険が増すというのは、原発事故のことでもかつてのいわゆる公害問題でも経験しているはずです。
命より優先されるものなどないのに、経済が先と錯覚してしてしまうことが、人間が地球から排除される理由ではないかと思うことです。
お金は人間が発明した便利な道具です。しかし、道具はあくまで道具にすぎません。道具と命を天秤にかけるというロジックそもそもが間違いなのです。
生きるためにはお金が必要だ、と当たり前のように言われますが、動物にお金は必要ありません。お金の発明前は他の動物と同じように人間も生きていました。
人間は動物と違う、どこが違うのでしょうか。もちろん違いはたくさんありますが「お金がないと生きられない」と思い込んでしまったところが大きな違いでしょう。
原始に帰れと言いたいわけではありません、命のために「生きること」が必要なのであって「お金そのもの」が必要なのではないということはしっかりと腹落ちしておくべきだと思います。

先日芸工大の三浦先生が、「コロナ以前からテレビ電話いわゆるリモートを活用しようという提案はあったが、あまり普及しなかった。それが、そうせざるを得なくなって利用してみると意外に活用できることに気づいた。そればかりか、これまで積極的な学生と消極的な学生に対応するのに差を感じていたが、リモートだとそれが平等にできることも分かった。リモートの授業はなんと出席率が100%だ。大学は校舎や場所を指すのではなく学びの提供だから、今後キャンパスの存在意義すら問われることになるだろう」という話をされました。
そのような気づきは他の色々な分野に及んでいると思われ、それが定着すれば生活形態も大きく変わってくると考えられます。
実際私の場合も、東京の団体の会議がリモートになって何の不自由も感じられません。移動時間や交通費、宿泊費、飲み代を考えれば、むしろこの方が望ましいとも言えます。
それを進めていけば、都会に住む必要もない職種もたくさんあるだろうと思われます。
コロナによってもたらされるものは、場所の意味の問い直しと職業の淘汰かもしれません。
なぜそこでなければならないのか、なぜそれが必要なのか、の問いが突き付けられているといえるのではないでしょうか。
で、淘汰されて最後に残る職業は何かと考えると、それは究極的に生老病死にかかわるものではないのか。
誕生から衣食住など生にかかわるもの、老人や病人にかかわるもの、そして死にかかわるもの、それらの関連業種は最後まで残るように思います。それにプラスするとすれば「楽」でしょうか。
体も心も楽になるための職業、そして楽しみのための職業。それは人間が生み出した生老病死以外の重要な要素だと思われます。
「楽しみの分野」といっても多種多様に及びます。ホストもキャバクラも楽しみといえばそう言えるのでしょう。
そんなことを言ったら全てが含まれるじゃないかといわれるかもしれません。
しかしその中でも「生きるためにそれは本当に必要なのか」という優先順位で見れば脱落していく職業はあるでしょう。
「それで生きている人もいる」という意見もあるでしょうが、目先のことではなく、それで食えなくなれば職業を替えるだけのことです。淘汰されるのは人ではなく職業です。戦争がなくなれば武器を作る人が転職するのと同じことです。
ということで、コロナがもたらしたものは、意外と早くその影響が現れるかもしれません。もしかしたら、温暖化防止の効果も含んでいるかもしれません。
コロナで亡くなられた方にはまことに申し訳なく、また生活が立ちいかなくなってしまった方にも酷な言い分であることは重々承知の上で申し上げると、地球規模の視点から言えば、人間にとって自分にとって、必要なものは何かの優先順位を考える、またとない機会ではないかと思うのです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ271 花の布施行

2020年07月12日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第271回。7月12日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
6日月曜日、鶴楯調査
9日木曜日、シャンティ、オンライン会議
10日金曜日、最上で地酒を造ろう会
11日土曜日、河北町環境を考える会、三浦秀一先生セミナー懇親会
というような1週間でした。

九州方面の水害は広範囲にわたり、なかなか実態が見えてきません。
家を失った人、再建をあきらめた人、泥を洗って何とか住めるようにしようとしている人、不安を抱えて避難している人、家族を失った人、仕事を失った人、様々な苦しみを想像します。
シャンティも支援の方法を探っていますが、コロナの影響もありこれまで同様には事が運べません。
関東方面から感染の不安を持ち込まないために、事前にPCR検査を受けることを検討しましたが、症状がない状態で国内移動の場合は完全自己負担のようで、その金額が一人4~5万円かかるということも判明しました。
何ができるのかは現場で見て感じることなので何とかスタッフを派遣したいと検討しています。

大切な人が亡くなりました。
しばらく放心状態です。
河北町環境を考える会の代表、副代表の間柄で20年。
毎月の例会、年に一度の総会、講演会、キャンドルナイトの開催、忘年会などなど、当たり前に顔を合わせてきました。
会おうと思えばいつでも会える人でした。
永平寺、恐山、京都、福島など何度か旅行にも一緒に行きました。
中越地震、東日本など被災地の炊き出しも行きました、
共に考え、共に行動し、共に笑い、共に泣き、共に夢を語ってきました。
人の苦しみを放っておけない人でした。
できることを考えすぐ行動する人でした。
ミャンマー難民キャンプのスタディツアーにも参加しました。タイの空港閉鎖で何日か帰国できませんでした。
いち早く病院の屋根にソーラーパネルを設置し、電気自動車に切り替えました。
病院の患者さんたちの名義で定期的にシャンティに募金を送ってくれました。
子どもの食事の現状を知るといてもたってもいられず子ども食堂開設に向けて走り出しました。
あなたに誘われ引っ張られて行動を起こした人がどれほどいたでしょうか。
人をその気にさせ動かす魅力がありました。

1か月前にいつもの薬をもらいに病院に行くと先生が「顔を見ていく?」と声をかけてくれました。
病気が見つかって治療が始まってからはじめての面会でした。
「手を握りたいけどコロナだからダメだね」と言うと「そんなこと言わないで~」と手を握って語りました。
ようやく治療方法が見つかって快方に向かうものだと信じていました。
まさかこんなに早くお別れするとは。
あなたの太陽のような笑顔は周りの人を暖かく明るくしてくれました。
子どものように純粋で嘘のない心は周りの人を爽やかにしてくれました。
私の人生においてとても大きな存在でした。
もう少し一緒に歩いていきたかった。
もう少しあなたの笑顔が見たかった。

まさかあなたが死ぬなんて。


昨日は予定していた通り講演会を開催し、開会前に読経焼香をしました。
終わって懇親会では思い出を語り合いました。
あなたは本当に多くの人から慕われていましたよ。
あなたの写真を探しましたがどうしても見つかりませんでした。改めて撮る必要のない人でした。

あなたが病院の庭に育てた薔薇は雨にたわんで滴をこぼしています。
明日葬儀です。


お寺の周りでアジサイが盛りを迎え、蓮も咲き始めました。
アジサイは隣の齋藤さんがお寺の境に植えてくれたもの、蓮は立小路のおやじたちが墓の隣の田んぼに植えたもの。いずれも誰かのために咲かせてくれたものです。
花はもともと、自らが生きるためよりも、誰かを喜ばせる布施行で咲いているのかもしれません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。






サンサンラジオ270 外から見る

2020年07月05日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第270回。7月5日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
3日金曜日、葬儀
というような1週間でした。

熊本の皆さんには度重なる災害でお声のかけようもありません。
亡くなられた方々に心より哀悼の真を奉げます。
密接を避ける中でどのような支援ができるのか心配です。

昨日はこちらも雨でお休みですが、朝散歩をしているといろんなことを考えます。
たとえば自分を客観的に見ること。
たいがい人は、内から外を見ます。
自分というものがここに確実に存在して、そのことを少しも疑わずに外を見てあれこれと考えます。
逆に言うとそれは、自分の存在を意識していないということでもあります。
ここに在って当たり前を前提としているということです。
自分の存在を外から見てみようとすると、変わります。
砂利道を、三部義道と名付けられた1個の人間が歩いています。
自分の顔は見えませんが、前後する腕が見えます。少し出た腹とその下に交互に右足左足が見えます。
砂利を踏む足音が聞こえます。頬をこすっていく風を感じます。
耳を過ぎる風の音が聞こえます。息をする音が聞こえます。
ここに自分という個体が存在し生きて動いています。それが実感されます。
いつまで自分はいるんだろう。
この手やこの足、この息の音もいつかは消えてしまうのに、今ここにある。
そう思うと、自然に深呼吸をしてしまいます。
そういう目で周りを見ると、急に眼の幕が剥がれたような、すっきりさわやかに見えてきます。
青い空、白い雲、緑の草に黄色い花。残雪の残る峰々。
水の音。鳥の声。線路の音。
同じ景色なのに、さっき見ていたとは違う見え方。
空気に色がついて動いているような、空気に質感を感じるような気がします。
鳥や草と同じようにここに存在して動いている物体。それが自分。
わずかな時間ここに存在し、こちゃこちゃと動いて消えていく存在。
そんな取るに足らないものがここにあり、砂利を踏んで歩いている。
実に不思議です。
それでも鳥は鳴き風は動いている。その中を歩く。

心にかかるあれこれも、外から見ればたわいもないことです。
小さいことにとらわれている人間が一人歩いているだけです。些細なことです、なんということもありません。
歩くのはいいですね。考えるリズムが歩調にあっているのだと思います。
何かの手段ではなく、歩くために歩くのがいいと思います。
そして、少し外からながめてみようとするだけで、深呼吸が生まれ、内で考えていたことがどうでもいいことに思えてきます。
人間は小さい。
内から内を見ると小さいことも大きく見えたりしますが、小さい人間の悩みなど小さいに決まっています。
小さい人間がここに存在していることは大きなことです。実に不思議なことです。
空気や水や太陽の光や砂利や草を集めて丸めてこねて形にしたものが自分という存在のようなものです。
縁が終わればまたバラバラになり元に戻るだけです。質量保存の法則です。過不足ありません。
私が消えれば私にとっての世界が消えます。全ての世界は私と同体です。
all in 1,1 in all.
だからこそ。
今ここに動いている間に、やるべきことをやったらいいのです。どうせ大したことはできません、砂利を1個動かすぐらいでしょう。
それでも、1個動かせば1個分変わるのですから、それは存在した意味があったということでしょう。
『ナイルの一滴』(志賀直哉)のように、大河の中で過去にも未来にも存在しないたった一滴のような私という存在が、それでも私の手足で何かを一つ動かせば一滴分大河を動かすことができる。

人間とはこういうものだとか、それは哲学だとか、それを何と呼ぶとか、何に分類されるだとか、そんなことは学者や専門家が考えることであり、彼らはそれが仕事ですから勝手に分析すればいいことで、自分には関係ありません。
そうではなく、自分は自分の感じたこと、気づいたこと、思ったことを自分なりの言葉で自分なりに納得すればいいだけのことです。
誰に承認してもらう必要もなく、誰に批判される必要もない。だって、気づきは自分のものなのですから。
自分という人間がここに存在し、何だか右往左往していつの間にかいなくなった、ただそれだけのこと。外から見ればかわいいものじゃないですか。時折頑張ったりして。けなげなものです。
自分もそんなものですから、誰かを批判している余裕はありません。
人様のことをとやかく言っている暇がないのです。自分のやるべきことで精いっぱい。
右足と左足を交互に前に出し、手なんか振ったりして、歩けば前から風が吹いてきます。それを肌で感じながら、大地の上でもぞもぞ動いている自分をながめて見てください。きっと何か気づくことがあると思いますよ。
生きるって、実に不思議で楽しいですね。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。