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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
今日は2月26日、2月最後の日曜日です。
金曜日、訃報が入りました。
シャンティ国際ボランティア会の名誉会長、松永然道老師の遷化です。
老師と初めてお会いしたのは1980年、タイのバンコクでした。
私が、曹洞宗教団が設立した団体のボランティアとしてカンボジア難民支援に現地にいた時、バンコク事務所長として着任されたのが老師でした。
長年海外開教師として南米、ハワイ、北米に赴任されていた老師が、ようやく帰国されたのを待っていたかのように、事務所長に要請されたのでした。
老師を説得したのは、先に遷化された有馬実成老師で、その誘いの言葉が有名です。
「ボランティアなどというものは社会の底辺でうごめくウジ虫みたいな存在ですよ。松永さん、私と一緒にウジ虫になりませんか」。
その誘いを意気に感じてバンコクに行くことにしたと、松永老師は語っていました。
背の高い、見栄えのいい和尚さんという第一印象でした。どこか洋行帰りの臭いがしました。
穏やかで優しいお人柄が、若いボランティアたちを温かく包んでくれました。
その後、曹洞宗ボランティア会、後のシャンティ国際ボランティア会の初代会長となり、多くのスタッフや会員の心の支えとして先頭に立ってくださいました。ずっとその背中を見てきました。
老師はよく「我々は、この会がなくなるためにやっているんだ」と語られました。
つまり、この世界にボランティアなどの存在が必要ないような社会を造るために活動しているという、けだし名言でした。
一緒に難民キャンプ、カンボジア、ラオスにも行きました。
側にいるだけで心が解けていくような安心感を感じました。
一方、指で鼻の頭を掻きながら少し上目遣いで相手を見つめるときは、本性を見透かされているような怖さも感じました。
また、私が講師として永平寺に上山した時には、既に国際部長としてお勤めでしたので、こちらでも大変お世話になりました。
毎日のように国際部を訪ねては、慈悲の衣の袖にすがっていました。
永平寺を下りてからも、気の合う役寮仲間で集まって、毎年楽しい時間を過ごしたりもしました。
そんなご縁が重なって、父親のように慕い、敬愛してやまない、私の人生にとってとても大きな存在でした。
病気をされてから、記憶が不確かになり、晩年は施設で生活をされていました。
最後にお会いしたのは、一昨年、施設にお邪魔したときでした。
「記憶があいまいですよ」と伺っていましたが、私の顔は覚えてくれていて、うれしそうにニコニコしてくださいました。
年末に肺炎に罹って入退院を繰り返し、一昨日2月24日、静かに息を引き取られたそうです。
昨年秋には奥様に先立たれ、老師も追いかけるように旅立たれました。寂しい限りです。
昨日は、静岡の寺に駆け付けてきました。
痩せておられましたが、穏やかな表情はそのままに、美しい尊顔でした。
山形は雪かきをしてから出かけたのですが、静岡は春のように暖かく、何という品種か知りませんが、2月というのに桜の花びらが散りかけていました。
散るを定めの花なれば はらはら散りてすべもなし
60歳はいい年だと思ってましたが、お世話になった人たちとの別れの年代であると言えなくもありません。
これからも寂しい思いが続くのでしょうか。耐えていくしかありませんね。
みんなお元気で。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
今日は2月26日、2月最後の日曜日です。
金曜日、訃報が入りました。
シャンティ国際ボランティア会の名誉会長、松永然道老師の遷化です。
老師と初めてお会いしたのは1980年、タイのバンコクでした。
私が、曹洞宗教団が設立した団体のボランティアとしてカンボジア難民支援に現地にいた時、バンコク事務所長として着任されたのが老師でした。
長年海外開教師として南米、ハワイ、北米に赴任されていた老師が、ようやく帰国されたのを待っていたかのように、事務所長に要請されたのでした。
老師を説得したのは、先に遷化された有馬実成老師で、その誘いの言葉が有名です。
「ボランティアなどというものは社会の底辺でうごめくウジ虫みたいな存在ですよ。松永さん、私と一緒にウジ虫になりませんか」。
その誘いを意気に感じてバンコクに行くことにしたと、松永老師は語っていました。
背の高い、見栄えのいい和尚さんという第一印象でした。どこか洋行帰りの臭いがしました。
穏やかで優しいお人柄が、若いボランティアたちを温かく包んでくれました。
その後、曹洞宗ボランティア会、後のシャンティ国際ボランティア会の初代会長となり、多くのスタッフや会員の心の支えとして先頭に立ってくださいました。ずっとその背中を見てきました。
老師はよく「我々は、この会がなくなるためにやっているんだ」と語られました。
つまり、この世界にボランティアなどの存在が必要ないような社会を造るために活動しているという、けだし名言でした。
一緒に難民キャンプ、カンボジア、ラオスにも行きました。
側にいるだけで心が解けていくような安心感を感じました。
一方、指で鼻の頭を掻きながら少し上目遣いで相手を見つめるときは、本性を見透かされているような怖さも感じました。
また、私が講師として永平寺に上山した時には、既に国際部長としてお勤めでしたので、こちらでも大変お世話になりました。
毎日のように国際部を訪ねては、慈悲の衣の袖にすがっていました。
永平寺を下りてからも、気の合う役寮仲間で集まって、毎年楽しい時間を過ごしたりもしました。
そんなご縁が重なって、父親のように慕い、敬愛してやまない、私の人生にとってとても大きな存在でした。
病気をされてから、記憶が不確かになり、晩年は施設で生活をされていました。
最後にお会いしたのは、一昨年、施設にお邪魔したときでした。
「記憶があいまいですよ」と伺っていましたが、私の顔は覚えてくれていて、うれしそうにニコニコしてくださいました。
年末に肺炎に罹って入退院を繰り返し、一昨日2月24日、静かに息を引き取られたそうです。
昨年秋には奥様に先立たれ、老師も追いかけるように旅立たれました。寂しい限りです。
昨日は、静岡の寺に駆け付けてきました。
痩せておられましたが、穏やかな表情はそのままに、美しい尊顔でした。
山形は雪かきをしてから出かけたのですが、静岡は春のように暖かく、何という品種か知りませんが、2月というのに桜の花びらが散りかけていました。
散るを定めの花なれば はらはら散りてすべもなし
60歳はいい年だと思ってましたが、お世話になった人たちとの別れの年代であると言えなくもありません。
これからも寂しい思いが続くのでしょうか。耐えていくしかありませんね。
みんなお元気で。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。