なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ79

2016年10月30日 04時59分35秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
今日は10月30日です。

松林寺の雪囲いが始まっています。
今季どれほどの雪が降るか分かりませんが、万全の備えをしておくのが雪囲いです。
特に裏庭の伽羅木の備えは、恐竜の背骨のようにガッシリとしています。
これから約半年、樹木も人も囲いの中で暮らすのです。
雪の降らないところの人には必要のない苦労ですが、悪いことばかりではありません。
体を伸ばす喜びは、屈まないと分からないでしょう。
ジッと耐える季節は、強い心を育てることにもなります。
他との比較でプラスマイナスを測るのではなく、今ある状況を自分がどう受け止めるのかということに尽きると思います。
体を休め、じっくりと自己を見つめるタームとします。

昨日今日は、教区のお寺の晋山式が行われています。
前晩の昨日は、決められた儀式が粛々と務められ、当地恒例の万燈供養も厳修されました。
結制修行のリーダーとなる「首座(しゅそ)」を務めるのは何とブラジル人です。
庄内の和尚さんが開教師としてブラジルに赴任していた時に弟子になり、現在大本山總持寺で修行中というご縁で首座に任命されたようです。
私の息子陽堂がその指導お世話役に任命され、3日前から泊まり込みで仕込んでいました。
耳で聞いた言葉をポルトガルの文字に書きながらなので教えるのも覚えるのも大変そうでした。
努力した甲斐はあるはず。きっと今日の法戦式を立派に努めてくれることでしょう。

最近思うことは、ルーティーンがあることのありがたさです。
毎朝、朝のお勤めをしながら、すること、しなければならないことがあることの意義を感じています。
決められた流れの中で体が自然に動く日常のプログラム。禅寺では「差定(さじょう)」と言いますが。
それがあることで、それに身を任せていればいいという安心感があります。
職人さんが目をつぶってもできるような、身についた動きがあることは安堵感なのだと思います。

先日新幹線で、さくらんぼ東根駅から隣に乗り合わせた若者二人。
会話の様子から、何日間の仕事関係の研修に向かうもようです。
今日は宿に着くだけなのか、座ると同時にビールを飲み始め、バリバリの村山弁で哄笑しながら会話が続いていました。
空けたビール缶も4~5本になったと思しき頃、もう間もなく東京に着こうというとき、片方の若者が発した言葉に耳がそばだちました。
「やべえ、オレ今日、仏様さおまいりしてくんな忘ったけや」。
エライ!君は毎朝仏壇に手を合わせてお参りしているんだね。
親から言われたのか、おじいちゃんから教わったのか、おそらくは小さな頃から毎日の習慣として、身についていることなのでしょう。
それをしなかったことの罪悪感と不安感。
裏を返せば、毎日決まったことに身を任せることの安心感ということですね。
君のような若者がいることを知っただけで、私は嬉しくなりました。
ということで、ルーティーンを持っていることの意義を感じています。
始めることに遅いということはありません。あなたもルーティーンを作ってみたらどうでしょう。
いわばそれが「我が家の宗教」になります。
そして、その中で育つ子どもたちのルーティーンとなり、安心感になります。



三ちゃんのサンデーサンサンラジオ78

2016年10月23日 05時49分59秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
10月23日です。

東京オリンピック・パラリンピックの会場選びで大変のようですね。
見直しやら、見直しの見直しやら色々あるようです。
ここに来て「復興五輪」というような言葉も出てきました。
そういえば、4年前に手を上げたとき、それをアピール材料にしていたような記憶があります。
いつの間にか忘れ去られていましたが。
「アンダー・ザ・コントロール」などという言葉も聞いたような気がします。
「復興五輪はずっと構想にあったんだ」ということのようですが、それならもっと前に会場選びの要素に強く押せばよかったのに、と思います。
船長だか、お父さんだか、兄弟だかが来て、急に「それがあった」みたいに思い出したような気がしないでもありません。
取ってつけたように「復興五輪」などと言われても、五輪開催が決まってから、資材費も人件費も高騰して、被災地の復興住宅や個人の住宅の建設が遅くなったり、高額になったり、五輪の煽りを食っただけで、五輪開催が逆に被災地復興の邪魔をしているといえるような状態です。

東京で五輪を開催するために、「復興五輪」などとぶち上げて被災地をダシにして、結局は東京中心。
一つの会場が宮城県に来るような期待をもたせて興奮させておいて、結局来なかったとなれば、もっと深い絶望へ突き落とされたようなものです。
それを取り繕うために、色々なことを考えてダマすような素振りもみえます。今更です。
本当に東北はバカにされたものです。

アンダー・ザ・コントロールのはずの事故原発周辺では、今でも毎日200トンの汚染水が増え続け、タンクの置き場にも限界があります。
最終的にその水をどうするのかは決まっておらず、薄めて海に流す、みたいな話が出ているようです。
きっとオリンピックまでは流さないでしょうけどね。終わったらどうでしょうか。
ある意味コントロール。笑えないジョークです。
飯舘村では、除染した汚染土を入れた1トン入るフレコンバッグが、村の集積場に積んであり、間もなく240万個に達するだろうと言われています。
事故前、飯舘村の人口は約6000人、240万個の汚染土は一人あたり400袋400トンになります。
「人より牛が多い村」は聞いたことはありますが、人の400倍もある汚染袋の村へ帰れというのも酷な話です。
この袋を最終的にどこへ持っていくのか決まっていません。
アンダー・ザ・コントロール。
復興した日本の被災地を見てほしいというなら、五輪までに、フレコンバックと汚水タンクを全て消し去った姿を見せて欲しいものです。10万人の避難者がふる里に帰って安心して生活している姿をこそ見せて欲しいと思います。
五輪の競技を2つ3つやったからといって、聖火が走り回ったからといって、それで「復興五輪」とされてはなりません。

昨日の新聞に、小泉元首相が共同通信社のインタビューに答えた記事が載っていました。
小泉氏が議員を辞めたあと「原発ゼロ」の提言をしていることは有名ですが、その中で、加藤紘一氏の葬儀の際に、安倍首相に「何で原発ゼロにしないのか。原発ゼロの方が安上がりだ。こんな簡単なのに、なぜ分からないのか」と詰め寄ったとありました。
安倍首相は苦笑して何も言わなかったとのことでしたが。
小泉氏にどれほどの力があるのか知りませんが、原発問題に関しては頑張ってもらいたいものだと思います。
でもおそらくは、「ロートルは引っ込んでろ」みたいな扱いなのでしょうね。きっと。

とにかく、五輪に踊らされず、誤魔化されず、ダマされず、被災地の問題、特に原発の問題はちゃんと見ていきたいと思います。
新潟県知事選挙の結果は、ある意味驚きでしたね。目先ではなく、将来を見据えた選択でした。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


「土人」発言

2016年10月21日 07時17分42秒 | ふと、考えた

随分久しぶりに「土人」という言葉を耳にしました。
そんな言葉今でも使う人がいるんですね。
しかも20代の人というじゃありませんか。
逆に、よく知っていたねと驚きましたね。

私の子供の頃は耳にしていました。
「南洋」の原住の人々を指す蔑視、差別語だと記憶しています。
「ちびくろサンボ」や「ダッコちゃん」が差別的だとされて規制された頃までは使っていたかもしれません。
ですからおそらくは30年ほど前までの言葉なのではないかと思われます。
それなのになぜ、20代の若者がそんな言葉を使って沖縄の人を侮辱したのか。
それは明らかです。
周りの先輩方、年配者がそう呼んでいたのをマネたのでしょう。
つまりは、大阪府警の同僚、あるいは彼の生活環境の周囲の人々が発していた言葉を、それが差別的な言葉であることを知りながら、だからこそ使った確信的蔑視の感情表現だったでしょう。
まさか、大阪では若い者にも普通に使われている言葉だという訳ではないですよね。

機動隊として派遣される人々の間ではおそらく、その任務に対する嫌悪感があるのではないでしょうか。
反対運動をする沖縄の人々の厳しい発言にイライラする気持ちも分からないではありません。
沖縄の人にとっては、次から次へと、本土から理不尽な扱いをされているので、沖縄を守るために必死に抵抗しているわけで、言葉も厳しくなるでしょう。
機動隊員は上からの指示で、任務としてやっているだけで、「俺たちに言われても困る、上に言ってくれ」と言いたい気持ちもわかります。
しかし、イライラするのと蔑視は全く別物です。
任務が終わって、宿舎までの帰りの移動の車中で、あるいは宿舎の中で、どのような会話がなされているのでしょうか。
想像できるだけに嫌気が差します。

「土人」のような蔑視の言葉は、沖縄の人々に対する他民族意識がなければ出てこない感情です。
そして、それは彼だけの問題ではなく、表に出ない数多くの人々の意識の問題だと感じます。
彼に、そのような言葉を使わせた周囲の問題です。
そのようにして、差別意識は若者にも伝えられ広められていくのです。
きっと、「よく言った」と彼に拍手を送っている人も、残念ながらいるに違いないと思います。
しかも、そのような人々がこの時代増えているとも感じます。

差別意識の矛先は沖縄県人だけに向けられているのでしょうか。おそらくは違います。
中国人、韓国人、「黒人」、自分と違うそして自分より下だと思っている人々にも、蔑視の感情は向けられているのだろうと想像されます。どのような言葉で呼んでいるのでしょうか。
白人に対してはきっと違う感情なのでしょう。白人は日本人より上だと思っているのでしょうね。その時点で負けていると思いますが。

坂上田村麿に始まる「征夷大将軍」は、その名の通り、「夷狄(いてき)」を「征服」する責任者の官位でした。
当時の朝廷にとって、白河以北の「蝦夷(えみし)」は、未開の人々であり、野蛮人であり、征服されるべき存在でした。
おそらくは現在も、関東以西の人々の中に、東北の人々に対する感情にその残渣があるように思います。
東北人の見えないところで、「東北は遅れているから」というような、蔑んだ会話がなされているのではないかと思っています。
大阪の彼と同じような感情です。「土人」と同じです。
そうでなければ、東京の原発が福島につくられなかったはずだし、現在までも、見て見ぬふりをするようなことはなかったと思います。
それでは、東京や大阪人は高貴な日本人か、土人とは違う上の人間なのかといえばそんなことはないでしょう。
どちらも地方から人が集まって大都市になっているだけなので、蝦夷と土人と異国人の寄せ集め、と言ったら言い過ぎでしょうね。

自分より下の人を作って見下げて笑う人は、結局上の人から見下げられて笑われることを自認しているのです。
とても残念な人です。
この問題、結局は彼一人が悪者になり、あとは口をつぐんで感情を陰に隠して過ごすのでしょう。
外国人に対する感情も、障害者に対する感情も、老人や子どもに対する感情も、沖縄・福島の問題と根源は同じなのに、何も改善されずに暗闇を残してしまうのでしょうね。そうやって、次の彼を生み出していくのでしょう。
残念な日本人、残念なこの国。どんどん劣化してしまっているようで口惜しい限りです。

日本人の特徴は、他を受け入れる度量の広さだと私は思ってきました。
他民族も、他文化も、他言語も取り入れて自分のものにしてしまう、寛容の心が日本人の特徴だと。
川の水を拒まない海の姿。
「故によく水あつまりて海となるなり」
そんな日本人が失われようとしています。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ77

2016年10月16日 05時03分18秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
10月16日、今日は糸魚川からお送りします。
11日月曜日に新潟県上越地方に入り、上越市内4ヶ寺と柏崎市を回り、今日、糸魚川のお寺で最後のお勤めを終えて最上に帰ります。
今回の巡回は見所の多い地でした。
山荘京ヶ岳は山の頂にある宿で、上越平野から日本海まで見渡せました。
金谷山は、日本スキー発祥の地で、スキーを広めたレルヒ少佐の立派な銅像が立っていました。ちょうど日の出の時間で、きれいな朝焼けを見ることができました。
また、その麓には、戊辰戦争で戦死した長州の人々の墓地がありました。
一帯の地図には会津藩墓地もあったので、そちらもお参りしなければと探しましたがなかなか見つからず、だいぶ歩いてようやくたどり着きました。
戊辰戦争で負けた会津軍兵士が、高田藩の預かりとなり、寺院に監禁されている間に亡くなった30数名の墓でした。
幕末から明治の動乱の中で、長州から、あるいは会津から、ここまでやって来て、故郷を思いながら死んでいった若者たち。
戦さとはそういうものだと言えばそれまでですが、「戦」というひとくくりの中に、一人一人の人生があり、その人の家族の人生がありました。
誰とも比べることのできない、かけがえのない人生です。無名であるから価値が低い訳ではありません。
勝った官軍の兵士が英霊で、負けた賊軍の兵士の霊が粗末に扱われるのは悲しい。そう思います。
ここ、旧高田藩では、長州藩ばかりでなく、会津藩の兵士の墓を祀って供養していました。どちらの墓にも手を合わせました。

句が浮かんできました。

虫すだく 会津長州 戊辰塚

似合わず、俳句など浮かんできたのは、金谷山に芭蕉の句碑があったのと、今回のお伴に持参したのが、俳人黛まどかの「ふくしま賛歌」だったせいです。
ついでに、宿に泳いでいた錦鯉を聞くと小千谷の鯉だとのことで、そこから一句浮かびました。

赤もみぢ 千々に乱れて 小千谷鯉

立派な鯉ばかりで、赤い斑点がもみぢが散っているように見えました。小千谷縮と恋心にもかけてみました。
さらに、昨日の教場に、永平寺でお世話になった老師が訪ねて来てくれました。お土産にいただいたのが何と句集でした!そう、老師は句を詠まれる方でした。

昨日の夜は十五夜でもありましたね。
ということで、秋の文芸に浸りながら上越を巡回させていただきました。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ76

2016年10月09日 04時37分17秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
今日は10月9日です。
好天に恵まれませんでしたが、稲刈りもほとんど終わったようです。
今年は米の数量が少ないと農家は口にしています。
夏に暑過ぎて、肥料を早く食いすぎたんだとか。農業は難しいですね。
にもかかわらず、新米いただきました。おいしいですね。

さて、先日河北町から宿用院の檀家、二夫婦が訪ねてきて一緒に瀬見温泉に一泊しました。
宿用院時代に仲の良かった夫婦です。
去年も川渡温泉に一泊したのですが、いつの間にか「なあむの会」という名前が付きました。
「次はどこにく」と来年の計画も決まりました。
気のおけない人との時間は楽しいです。

悲しい報せも入りました。
シャンティ国際ボランティア会の名誉会長である、松永然道老師の奥様が亡くなられたという報せです。
然道老師は長く海外開教師を務められ、帰国後すぐに当会の現地事務所長、そして会長を務められました。
その奥様とは、私がボランティアとして難民キャンプに赴任した当時からお世話になりました。
特にまだ携帯電話のない時代、東京の事務所から何度となく静岡の寺に電話をして老師を呼び出してもらいました。
ある時電話をすると、「今ここにいないから、いるところに電話して」と電話番号を聞いている途中で、
「ろく、ろく、ろく!」とおっしゃるものだから、「6、6、6ですか?」と聞き返すと、
「ごめんなさい、うちの犬が『ロク』というものだから」と。
何ともタイミングの良い、紛らわしい犬の名前だったことを思い出します。
老師が体調を崩されてから、奥様同行で、仲の良いグループの会合でご一緒したり、カンボジアの式典に出かけたり、私の晋山式にも来ていただきました。
とても明るくパワフルな奥様でした。老師に先立っての旅立ちにご無念もあったろうと思いますが、心からご冥福をお祈りいたします。

で、もう一つ、明日から特派布教で一週間新潟に出かけます。
今回は上越方面です。
糸魚川、直江津、柏崎方面で、ここは、私が永平寺の修行を終えて最上まで帰るときに歩いた思い出深いところです。
特に、親知らず子知らず越えは、その当時も難所で、苦労した記憶が鮮明です。
当時を振り返りながら回らせていただこうと思っています。

ということで、今回は近況報告のようになってしまいました。
天候不順ではありますが、どうぞ体調を崩されませんように、実りの秋を楽しんでください。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ75

2016年10月02日 07時15分41秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
朝晩はめっきり肌寒くなってきました。
昨日今日は稲刈りの最盛期です。

さて、昨日は池田弦さん、弦ちゃんでいいか、弦ちゃんの偲ぶ会でした。
200席準備した中央公民館の椅子が足りなくなり追加するほどでした。
殊更に感情を引き出すような演出もなく淡々と進めながら、一人一人の一つ一つの言葉に、皆共感し、涙のあふれるいい会となりました。

第1部は、弦ちゃんの最上町での活動を中心とした映像の上映。いい出来でした。
次いで、代表者3名による追悼の言葉。
特に3番目に立った弦ちゃんに合唱指導を受けた少年、今は青年の言葉には皆涙しました。
思いのこもったとてもいい言葉でした。
そしてビデオメッセージ。上條恒彦さんからもありました。
休憩をはさんで第2部は演奏と合唱。
母親である池田敏美さんのヴァイオリン演奏とピアノ。
敏美さんは、弦ちゃんとの思い出の曲を涙を流しながら弾かれました。そうでしょうね。
そして、やなせななさんの歌。『手向け花』と『青空ピアノ』の2曲。
『手向け花』は、最新アルバムに収録されている1曲ですが、新潟小千谷の片貝花火で上げられる供養花火を題材にした歌です。まさに弦ちゃんに捧げる供養の歌でした。

ななさんと弦ちゃんのつながりはまけない!タオルでした。
震災の年の4月にまけないタオルを思いつき、私と彼女で作り始めました。
同じスピードでテーマソング『まけないタオル』が出来、6月に彼女と二人で被災地にタオル配布ツアーを行いました。
その最後に松林寺に寄ってもらい、大般若会で歌ってもらったのが、最上町での最初のまけないタオルでした。
その時寺に来ていた門前の亘くんが、ななさんの控室まで来て、「今の歌を子どもたちにも歌わせたいんだけどだめですか」とお願いしました。
彼女は即答「いいですよ」。
そして相談された弦ちゃんのが知り合いに依頼して出来上がったのが合唱曲『まけないタオル』でした。
その後弦ちゃんの指導で、最上町の全部の小学校でこの歌が歌われるようになりました。
弦ちゃんがプロデュースした震災復興支援演奏会「音の風」の最上公演、東京公演、最上中学校での音楽祭、埼玉県加須市の双葉町避難所でのコンサートにもななさんが出演しています。
そんな縁で、今回ななさんも奈良から来てくれることになったのでした。

最上町男女混成年代混成合唱団「絆」の合唱では、もちろん「まけないタオル」も歌われました。
最後は会場全員で『千の風になって』を歌って弦ちゃんを偲びました。

こんなにも幅広い人から慕われた弦ちゃんという人はどんな人なんだろうと思います。
48歳という若さでこの世に別れを告げてしまった弦ちゃん。
多くの人たちの心を揺さぶり、心に刻み、笑顔と多くの教えを遺していった弦ちゃん。
でも、もしかしたら、それが弦ちゃんの生きた意味であり、48歳でこの世を去った理由なのかもしれません。
弦ちゃんが実らせた種は、たんぽぽの綿毛のように、音の風に乗って、遠く近く幅広く広がり、多くの人々の心に根付かせていきました。
お疲れさま、弦ちゃん、ありがとう。
「弦風唱導信士」 合掌。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。