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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
おはようございます。
今日は10月30日です。
松林寺の雪囲いが始まっています。
今季どれほどの雪が降るか分かりませんが、万全の備えをしておくのが雪囲いです。
特に裏庭の伽羅木の備えは、恐竜の背骨のようにガッシリとしています。
これから約半年、樹木も人も囲いの中で暮らすのです。
雪の降らないところの人には必要のない苦労ですが、悪いことばかりではありません。
体を伸ばす喜びは、屈まないと分からないでしょう。
ジッと耐える季節は、強い心を育てることにもなります。
他との比較でプラスマイナスを測るのではなく、今ある状況を自分がどう受け止めるのかということに尽きると思います。
体を休め、じっくりと自己を見つめるタームとします。
昨日今日は、教区のお寺の晋山式が行われています。
前晩の昨日は、決められた儀式が粛々と務められ、当地恒例の万燈供養も厳修されました。
結制修行のリーダーとなる「首座(しゅそ)」を務めるのは何とブラジル人です。
庄内の和尚さんが開教師としてブラジルに赴任していた時に弟子になり、現在大本山總持寺で修行中というご縁で首座に任命されたようです。
私の息子陽堂がその指導お世話役に任命され、3日前から泊まり込みで仕込んでいました。
耳で聞いた言葉をポルトガルの文字に書きながらなので教えるのも覚えるのも大変そうでした。
努力した甲斐はあるはず。きっと今日の法戦式を立派に努めてくれることでしょう。
最近思うことは、ルーティーンがあることのありがたさです。
毎朝、朝のお勤めをしながら、すること、しなければならないことがあることの意義を感じています。
決められた流れの中で体が自然に動く日常のプログラム。禅寺では「差定(さじょう)」と言いますが。
それがあることで、それに身を任せていればいいという安心感があります。
職人さんが目をつぶってもできるような、身についた動きがあることは安堵感なのだと思います。
先日新幹線で、さくらんぼ東根駅から隣に乗り合わせた若者二人。
会話の様子から、何日間の仕事関係の研修に向かうもようです。
今日は宿に着くだけなのか、座ると同時にビールを飲み始め、バリバリの村山弁で哄笑しながら会話が続いていました。
空けたビール缶も4~5本になったと思しき頃、もう間もなく東京に着こうというとき、片方の若者が発した言葉に耳がそばだちました。
「やべえ、オレ今日、仏様さおまいりしてくんな忘ったけや」。
エライ!君は毎朝仏壇に手を合わせてお参りしているんだね。
親から言われたのか、おじいちゃんから教わったのか、おそらくは小さな頃から毎日の習慣として、身についていることなのでしょう。
それをしなかったことの罪悪感と不安感。
裏を返せば、毎日決まったことに身を任せることの安心感ということですね。
君のような若者がいることを知っただけで、私は嬉しくなりました。
ということで、ルーティーンを持っていることの意義を感じています。
始めることに遅いということはありません。あなたもルーティーンを作ってみたらどうでしょう。
いわばそれが「我が家の宗教」になります。
そして、その中で育つ子どもたちのルーティーンとなり、安心感になります。
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
おはようございます。
今日は10月30日です。
松林寺の雪囲いが始まっています。
今季どれほどの雪が降るか分かりませんが、万全の備えをしておくのが雪囲いです。
特に裏庭の伽羅木の備えは、恐竜の背骨のようにガッシリとしています。
これから約半年、樹木も人も囲いの中で暮らすのです。
雪の降らないところの人には必要のない苦労ですが、悪いことばかりではありません。
体を伸ばす喜びは、屈まないと分からないでしょう。
ジッと耐える季節は、強い心を育てることにもなります。
他との比較でプラスマイナスを測るのではなく、今ある状況を自分がどう受け止めるのかということに尽きると思います。
体を休め、じっくりと自己を見つめるタームとします。
昨日今日は、教区のお寺の晋山式が行われています。
前晩の昨日は、決められた儀式が粛々と務められ、当地恒例の万燈供養も厳修されました。
結制修行のリーダーとなる「首座(しゅそ)」を務めるのは何とブラジル人です。
庄内の和尚さんが開教師としてブラジルに赴任していた時に弟子になり、現在大本山總持寺で修行中というご縁で首座に任命されたようです。
私の息子陽堂がその指導お世話役に任命され、3日前から泊まり込みで仕込んでいました。
耳で聞いた言葉をポルトガルの文字に書きながらなので教えるのも覚えるのも大変そうでした。
努力した甲斐はあるはず。きっと今日の法戦式を立派に努めてくれることでしょう。
最近思うことは、ルーティーンがあることのありがたさです。
毎朝、朝のお勤めをしながら、すること、しなければならないことがあることの意義を感じています。
決められた流れの中で体が自然に動く日常のプログラム。禅寺では「差定(さじょう)」と言いますが。
それがあることで、それに身を任せていればいいという安心感があります。
職人さんが目をつぶってもできるような、身についた動きがあることは安堵感なのだと思います。
先日新幹線で、さくらんぼ東根駅から隣に乗り合わせた若者二人。
会話の様子から、何日間の仕事関係の研修に向かうもようです。
今日は宿に着くだけなのか、座ると同時にビールを飲み始め、バリバリの村山弁で哄笑しながら会話が続いていました。
空けたビール缶も4~5本になったと思しき頃、もう間もなく東京に着こうというとき、片方の若者が発した言葉に耳がそばだちました。
「やべえ、オレ今日、仏様さおまいりしてくんな忘ったけや」。
エライ!君は毎朝仏壇に手を合わせてお参りしているんだね。
親から言われたのか、おじいちゃんから教わったのか、おそらくは小さな頃から毎日の習慣として、身についていることなのでしょう。
それをしなかったことの罪悪感と不安感。
裏を返せば、毎日決まったことに身を任せることの安心感ということですね。
君のような若者がいることを知っただけで、私は嬉しくなりました。
ということで、ルーティーンを持っていることの意義を感じています。
始めることに遅いということはありません。あなたもルーティーンを作ってみたらどうでしょう。
いわばそれが「我が家の宗教」になります。
そして、その中で育つ子どもたちのルーティーンとなり、安心感になります。