なあむ

やどかり和尚の考えたこと

浪曲とアフガニスタン

2013年02月23日 18時32分17秒 | ふと、考えた

実は浪曲が好きです。

わけても、初代春日井梅鶯が贔屓です。

中でも秀逸は「天野屋利兵衛」、絶品です。「南部坂雪の別れ」もいいです。

何度聞いても惚れ惚れします。

あとは、二代目春野百合子「梶川大力の粗忽」。

車の運転で眠いときは、大音量で聞いて涙を流しながら興奮します。

題材はいずれも「忠臣蔵」から。

しかし、日本人は「忠臣蔵」が好きだなとつくづく思います。

主君の仇を討つ、仇討ち話。

仇討ちといえば・・・アフガニスタン。

イスラム社会のことを語るときによく引き合いに出されるのが、「目には目を、歯には歯を」という言葉。これは、人は、他から攻撃されて仕返しをするとき、された以上にしてしまうものだから、そうではなく、された部分だけに止めなさいという制止の戒めだということは、以前どこかに書きました。

アフガニスタンに行ったとき、「自分のところへ訪ねてきた客人は神の使いと思って手厚く接待する。客人に恨みを持つ敵が命を狙っていれば、家にいる間、自分の命をかけても守る。しかし、一旦家から出てしまえば、仇敵に討たれることは仕方がないことと、止めだてはしない」という話を聞きました。

イスラム社会は、必ず仕返しすることを教える恐ろしい社会だと、眉をひそめる向きもあるでしょう。

しかし、では日本はどうなのか、仇討ちとはまさに仕返しのことであり、それを容認する、時には賛美する風習がこの国にもあったではないか。

今ではもちろん、許される行為ではなくとも、我々の心の中に、それを良しとする血統がなければ、忠臣蔵がこれほど愛されることもないのではないか。

吉良上野介が大石内蔵助に殺される場面を、憑き物が落ちたみたいにスッキリとして見聞きしてはいなかったでしょうか。

忠臣蔵を揶揄しているのではありません。むしろ、イスラム社会の考え方を、浪曲を通して受け入れることもできると、考えたところです。


腹の中を見る

2013年02月20日 18時07分04秒 | ふと、考えた

一昨日が胃カメラを呑んで、一日おいて今日は大腸検査を受けました。

特に具合が悪いわけではありませんが、胃腸がくたびれたという感じと、以前に大腸検査でポリープを切除した時に、時々診てもらいなさいと言われていたので、暇なうちにと思ったことです。

入口から出口まで、食べ物の旅を疑似体験するような不思議な気持ちでした。

胃カメラにはそのような余裕はありませんでしたが、今日はモニターを見ながらの検査で、自らの腹の中を確認しました。特に黒いわけでもありませんでした。

結果は、胃炎の少しひどいの、いわゆる胃潰瘍ということかな、というのと、S字結腸のあたりに小さなポリープ発見というぐらいで、特に問題はありませんでした。

血液検査の結果は、脂肪肝だから体重を減らしなさいという、いつもの状態です。

残念ながら、カメラの写真あげる、と言われましたが、断りました。自分の腹の内は隠しておきたいと思います。

時折検査をしておくと、おいしくお酒をいただけます。


東日本大震災136 最後の避難所

2013年02月15日 22時37分52秒 | 東日本大震災

東日本大震災の避難所がまだ残っていたということを知りませんでした。

双葉町の住民が避難している埼玉県加須市の避難所がそれ。

今日縁あって、伺ってきました。

間もなく2年が経とうとしている現在、ここが唯一最後に残った避難所です。

原発事故後、双葉町民7000人は町を追われ、川俣町、さいたまアリーナを経て、加須市の旧騎西高校校舎に落ち着いたのが3月31日。その時の人数は約1400名。

足の踏み場もなく、人をまたがないとトイレにも行けないような状態でした。

その後、多くの人は福島県内の仮設住宅や加須市周辺の見なし仮設に転居して、現在も避難所に身を置いている人の数は約130名。

やはり、高齢者や生活の厳しい、いわゆる社会的弱者の方々だという。

「平均年齢70歳ぐらいかなあ」とのこと。

昨年9月には、それまで日に3度配給されていた弁当が有料となりました。

仮設に移った人たちは自分で生活しているんだから、避難所だけいつまでも特別扱いできない、というのが理由。

避難所では電気は使えるがガスが使えないので、結局自炊することができず、弁当に頼るほかない。

そんな人たちを見かねて、加須ふれあいセンターが「寄り添いセンター、こらっせ、くわっせ双葉」を立ち上げ、昼食の営業を始めました。

はじめてここで食べた人が、温かいみそ汁と茶碗でごはんを食べることに、その当たり前のことにいたく感激されていた、という話を聞いて、あまりにも長い避難所生活、弁当の生活のつらさを知らされたことでした。

センターでは、1食300円というギリギリの値段設定で運営していますが、ひと月に60㌔使う米の支援だけでも何とかならないかという情報を耳にして視察に伺ったことでした。

避難所には、役場も一緒に避難しています。

町長が不信任決議され辞職、議会は解散という混乱の中、今後町がどうなっていくのか、全く不透明であることに町民は不安の只中にあります。

避難所の部屋をのぞかせていただきました。

他の避難所と同じです。畳を敷いた教室を、段ボール箱などで間仕切りし、一部屋に3~4世帯が暮らしていました。

もう2年です。

町役場はいわき市に移転の準備を進めていますが、それがいつになるのか二転三転しているようです。

「役場が福島に戻っても、おれたちはもう戻らない」という声が聞こえました。

89歳の女性は、「2年近くもここにいると、住めば都ということだな。もう戻るつもりはありません。息子夫婦も、私に最後に自分の家に住まわせたいとここに家を買う相談をしている」と話してくれました。

「忘れ去られた避難所」だと思いました。

でも、知らされないことは、自ら知らなければならないのです。

今後さらに忘れ去られてしまわないように、時々顔を出したいと思いました。

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森林は油田

2013年02月13日 22時07分17秒 | 地球環境

今日、新庄市で環境関係の講演会がありました。

講師は、岩手県紫波町長藤原孝氏。

紫波町は、「循環型のまちづくり」を目指して、多角的な事業を展開しています。

盛岡と花巻の中間に位置し、東北新幹線、東北自動車道、北上川が町を貫く紫波町。

豊富な森林を活かした木質バイオマス(地エネ)によるエネルギーの地産地消を目指しています。

また、象徴的な建造物として、小学校や幼稚園、駅待合室、産直施設など、数多くの建物を町産材で建設。町の産業と経済にも配慮されています。

太陽光発電、薪、ペレットストーブの導入促進、廃食用油のBDF化など、そして現在、いわゆるスマートタウン、「オガール プロジェクト」を推進中。

それらの事業推進が、町長という人間一人の決断と信念に発しているという点に感じ入りました。

町長曰く、「首長の仕事は、これだと決めたものを、ブレずに何度も何度も繰り返し繰り返し語り続けることだ、そのうちに、そういうものかと納得してくれるようになる」。けだし名言かと受け止めました。

実は紫波町、ご縁あって、その木造建築物群を設計した佐川旭氏とともに、学校や幼稚園を訪ねたことがあります。

素晴らしい建物に感激したことを思い出しながら、改めていい町長がいるいい町だとうらやましくなりました。

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お母さんの百ヶ日

2013年02月10日 22時53分56秒 | ふと、考えた

昨日はカンボジアのお母さんの百ヶ日で埼玉県小川町へ。

お母さんの親戚や知人30人ほどが集まって、カンボジアの手料理を持ち寄り盛大な供養となりました。

33年前難民キャンプで出会ったお母さん。以来親戚としてお付き合いしてきました。

今はお父さんのお骨と一緒に宿用院に預かっています。

日本の戒名をつけ、位牌を作り、日本式の法要で100日を勤めました。

異国の地で暮らしているだけに、同じ国出身の意識が強いのだと思います。親戚から知り合いへとつながり、遠くからみんな集まってくれました。

カンボジアの言葉でしゃべり、民族の料理を食べ、国の血をつないでいきます。

国は大地だけでなく、それぞれの誇りの中に生き続けていくのだと思います。

本当はカンボジアのお坊さんに供養してもらいたのかもしれませんが、ここの家族は特別です。

そして、日本には正式なカンボジアのお坊さんがいません。

朝の托鉢のないこの国では、お坊さんがお坊さんとして生きていくのが難しいのです。

でも考えてみれば、33年という年数は、人生の半分以上にも及ぶわけで、自分の血肉にも少なからず影響を及ぼしているでしょう。

お父さんとお母さんは亡くなってしまいましたが、弟と妹が二人日本にいます。これからも家族親戚としてつきあっていきます。

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東日本大震災135 山田の記録

2013年02月07日 09時44分42秒 | 東日本大震災

冬篭りのような状態でしたが、節分も過ぎたことですし、そろそろ活動を開始しなければなりません。

このブログの記事もいつの間にか700本を越していました。これが702本目です。

さて、岩手県山田町から要請がありました。

山田町では、大津波を風化させないため、今後の防災教育のため、震災当時の山田町の様子をまとめた写真集「あの日から明日に向かって~東日本大震災・山田の記録」を刊行されることになりました。

多くの方から協賛金をいただいての刊行とのこと。

一口3000円で、3月11日の発刊を目指しています。

要請を受けまして、まけない!タオルプロジェクトから100口分、30万円の協賛をさせていただくことにしました。

関心と協賛の方は、以下のSVA岩手事務所まで。

●岩手事務所

 〒028-0541 岩手県遠野市松崎町白岩20-23-5

 TEL /FAX0198-60-1286 携帯:080-6849-9687<o:p></o:p>