「相手の気持ちになって」とか「ひとの痛みがわかるような人間になれ」というようなことが言われるが、本当に他の人の気持ちが分かるのはその人と同じ経験をした人だけだろう。いくら努力しても、分かろうとしても、本当に分かるとは思えない。
しかし、分からないことは分かっていても、分かりたいと思う、何とか分かろうとすることはすごく大きな力で、その力を私は「共感力」と呼んでいる。
この共感力が低下してきていることが、現代日本に現れている危機的な社会現象の原因の一つではないだろうか。
「人は生まれながらにして共感する能力をもっている」というレポートを読んだことがある。たとえば、小さな子どもたちが集まっているときに、一人の子どもが泣き出すとつられて他の子どもも泣き出すことがある。それは「一人だけで悲しませない」という共感する能力を持って生まれてきた表れだというレポートだった。
そういう場面は他にもたくさんあるように思う。ここでは詳しく述べないが。
しかし、持って生まれた共感力も、育つ環境によって損なわれてしまうこともある。
寂しくて愛する人(ほとんどが親)に側にいて欲しいとき放って置かれると、悲しみを共有してもらったという実感がないことから共感力は次第に衰えていく。
また、共感力は想像力の欠如によっても損なわれるように思う。
近代社会の情報の映像化によって、人間の想像力はどんどんと低下してきているのではないだろうか。
私は子供のころ祖母と寝ていたのだが、寝物語に聞いた昔話は今でも鮮明に頭に残っている。「三枚のお札」という怖い話は、頭の中にちゃんと映像として記憶されている。
絵本でもない、テレビでもない映像がなぜ頭の中に残るのか、それが想像力というものなのだろう。
ラジオドラマで育った人々は、「君の名は」のシーンがありありと頭に焼き付いているのではないだろうか。
手紙を出してから返事が返ってくるまでの、相手を慮って想像する時間は、電話やメールによって失われてしまった。
かように現代は、想像力を育てるどころか、どんどんと喪失してしまうような環境にあると言っても過言ではないだろう。
そんな中で、「相手の痛みが分かる」という共感を期待するのは難しいのではないだろうか。
他人をナイフで刺しても実際に自分が痛いわけではない、しかし、刺された相手は痛いだろうなあと想像できるのが人間というものだろう。そしてその想像力によって犯罪を抑止してきたのが人間社会であったろう。他人の痛みが想像できない人間は、自分の痛みすらも想像できない。
先日、中山町中山中学校の舟山義弘先生の講義を聴く機会があった。
先生は、その想像力を養う方法として、「一人の人の物語を作る」という授業を行っているという。たとえば、雑誌に載っている写真の一人の人を指して、この人の人生を物語にするというような設定だそうだ。名前は誰で、年齢は何歳、家族構成は・・・とそれぞれが勝手に作っていく。そうすることによって、見ず知らずのすれ違っただけの人にも、ちゃんと人生があるのだという当たり前のことに、気づくきっかけとなる。
現代の情報過多の社会でどのように想像力を育てていくるのか。本来持って生まれた共感力をいかにして維持していけるのか。人間の智慧が試されているように思う。