なあむ

やどかり和尚の考えたこと

共感力

2008年11月27日 13時30分10秒 | 今日のありがとう

「相手の気持ちになって」とか「ひとの痛みがわかるような人間になれ」というようなことが言われるが、本当に他の人の気持ちが分かるのはその人と同じ経験をした人だけだろう。いくら努力しても、分かろうとしても、本当に分かるとは思えない。

しかし、分からないことは分かっていても、分かりたいと思う、何とか分かろうとすることはすごく大きな力で、その力を私は「共感力」と呼んでいる。

この共感力が低下してきていることが、現代日本に現れている危機的な社会現象の原因の一つではないだろうか。

「人は生まれながらにして共感する能力をもっている」というレポートを読んだことがある。たとえば、小さな子どもたちが集まっているときに、一人の子どもが泣き出すとつられて他の子どもも泣き出すことがある。それは「一人だけで悲しませない」という共感する能力を持って生まれてきた表れだというレポートだった。

そういう場面は他にもたくさんあるように思う。ここでは詳しく述べないが。

しかし、持って生まれた共感力も、育つ環境によって損なわれてしまうこともある。

寂しくて愛する人(ほとんどが親)に側にいて欲しいとき放って置かれると、悲しみを共有してもらったという実感がないことから共感力は次第に衰えていく。

また、共感力は想像力の欠如によっても損なわれるように思う。

近代社会の情報の映像化によって、人間の想像力はどんどんと低下してきているのではないだろうか。

私は子供のころ祖母と寝ていたのだが、寝物語に聞いた昔話は今でも鮮明に頭に残っている。「三枚のお札」という怖い話は、頭の中にちゃんと映像として記憶されている。

絵本でもない、テレビでもない映像がなぜ頭の中に残るのか、それが想像力というものなのだろう。

ラジオドラマで育った人々は、「君の名は」のシーンがありありと頭に焼き付いているのではないだろうか。

手紙を出してから返事が返ってくるまでの、相手を慮って想像する時間は、電話やメールによって失われてしまった。

かように現代は、想像力を育てるどころか、どんどんと喪失してしまうような環境にあると言っても過言ではないだろう。

そんな中で、「相手の痛みが分かる」という共感を期待するのは難しいのではないだろうか。

他人をナイフで刺しても実際に自分が痛いわけではない、しかし、刺された相手は痛いだろうなあと想像できるのが人間というものだろう。そしてその想像力によって犯罪を抑止してきたのが人間社会であったろう。他人の痛みが想像できない人間は、自分の痛みすらも想像できない。

先日、中山町中山中学校の舟山義弘先生の講義を聴く機会があった。

先生は、その想像力を養う方法として、「一人の人の物語を作る」という授業を行っているという。たとえば、雑誌に載っている写真の一人の人を指して、この人の人生を物語にするというような設定だそうだ。名前は誰で、年齢は何歳、家族構成は・・・とそれぞれが勝手に作っていく。そうすることによって、見ず知らずのすれ違っただけの人にも、ちゃんと人生があるのだという当たり前のことに、気づくきっかけとなる。

現代の情報過多の社会でどのように想像力を育てていくるのか。本来持って生まれた共感力をいかにして維持していけるのか。人間の智慧が試されているように思う。


訂正とお詫び

2008年11月18日 11時21分02秒 | 地球環境

9月の「プリウスとエコ・ドライブ」の記事で、タイヤの空気圧について触れた。

「空気圧を2.8気圧にすると燃費がいい」という記事だ。

確かにそれまでの2.2気圧よりは燃費の向上がみられた。しかし、安全性に問題があることが分かったので訂正したい。

昨日、近々雪が降るらしいというニュースから、タイヤを交換してもらった。その際、前輪のタイヤが横にふくらんでタイヤの肩が異常に減っていたことが指摘された。このまま走行しているとバーストの可能性もあるとのこと。

それが空気圧のせいだということが分かり、注意された。

極端に空気圧を上げることは、音がうるさいばかりでなく、タイヤが異常な減り方をするという危険も伴うことが分かって、ここに以前の記事を訂正し、お詫びを申し上げたい。

もし以前の記事を読まれて空気圧を変えた方がいらっしゃれば、是非元の気圧に戻していただくようお願いしたい。


アイヌ語と地名 5 猿羽根

2008年11月11日 21時20分20秒 | アイヌ語と地名

最上地方の地蔵尊霊場として信仰を集めているのが「猿羽根山地蔵尊」だ。

「さばね」という言葉、「猿・羽・根」という当て字からも意味が読み取れない。

「猿が一跳ねで越せるような山峡の迫った場所」という説もあるようだが地形には合わない。

似たような地名は東北に散在し、岩手県の佐羽根、青森県の佐羽内、秋田県のサルハナイ(漢字が出ない)などだ。

これをアイヌ語で読めば「サル・パ・ナイ」で、「サル」や「サラ」は谷地と同じように、葦原の湿地の意味。「パ」は上手、「ナイ」は川、沢となる。「ナイ」は「ネ」に変化しやすい。直訳すれば「湿地の上手の沢」となる。

最上の猿羽根という地名は、元は今の地蔵尊がある山ではなく、麓の富田のあたりを指していたらしい。私の父などは富田の林昌院さんを「猿羽根のお寺」と呼んでいて、不思議だと思っていた。地元の人も富田を猿羽根と呼ぶらしい。

元々の湿地帯であった場所は、稲作が入ってきてからほとんど田に変わっていった。田に変わるとともに地名にも変化がおこることがあった。「富田」という地名は文政年間に改名したものという。

猿羽根山は、元猿羽根村の山ということから呼ばれたものであって、地名の原点ではないということだろう。

羽根の生えた猿がいたわけでもなさそうだ。


アイヌ語と地名 4 岩木

2008年11月03日 21時30分14秒 | アイヌ語と地名

河北町の字名に「岩木」がある。

「岩」と「木」なので地名としても違和感はなく、「木のある岩のところ」や「岩のような木」などからの地名としてもおかしくないのだが、これもアイヌ語だという一説がある。

「いわき」をアイヌ語で読むと「エ・ワク・イ」で、意味は「神々の・住む・ところ」となる。

高い山や大きな岩のある、神々しい場所をそう呼んできたのだろうか。

「岩木」も「岩城」も「磐城」も「いわき」も東北に多く分布する地名で、岩木山のように山間に多いことも確かなようだ。

アイヌの人々も、また縄文の人々も、自然のあらゆるものに神の存在を感じ、畏敬の念を以て接してきた。

特に山は獲物を与えてくれると同時に、災害を及ぼしたり災害から守ってくれたりする存在であったろう。そこに神をみたのは当然のことと思われる。

そこに特徴的な岩や木があれば尚のこと「神が住まいするところ」と感じたのではなかったろうか。だから「岩木」の当て字もまんざら外れてもいないということになろう。

「イワキ」と呼ばれる地区に神社や古い寺院があるとすれば、それはやはり、古来よりその地を神聖な場所ととらえてきたからではないだろうか。

古代より神聖な場所としてきた地に今住んでいる人々は、その地名の由来を知ることによって、自分の住んでいるところを「いいところだ」と自覚することができるのではないだろうか。