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なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その16(最終回)

2021年04月28日 05時00分00秒 | 義道
忘れ得ぬ人々

誕生からこれまで生きてきた中で出会った人々は数えきれない。その中でも私が強く影響を受けた忘れられない人々も数多い。
家族親族は別として、小学校から教化研修所までの先生方。同級生。僧侶としての羅針盤であり娘の名付け親でもある恩師遠藤長悦師。師には仏教の親近感と温かみを学んだ。
ボランティア会の有馬実成師、松永然道師、両師には生きた仏教を学んだ。野村、八木沢、手束、佐藤各氏。カンボジアのトン・バン家族。永平寺役寮時代の本庄、西田、南の各同志。宿用院檀家の愛すべき人々。和田みさ子さんはじめ河北町環境を考える会のメンバー。まけないタオルのやなせさん、早坂師。兄弟の契りを結んだ清凉院三浦光雄師。そして中島みゆきさん。
鬼籍に入った方も多い。その誰一人がいなくても私はなかった。私という人間はこれらの縁によってできていた。いや、この縁そのものを三部義道と名付けてもいい。
仏教との出会いも大きかった。縁によって寺に生まれ、そのことで悩み、父を恨み反抗もしてきたが、それは仏の掌の上でのことだった。仏の縁の中に生まれたのだった。
和尚でなければ難民キャンプにも行かないし、永平寺にも行くわけがない。和尚でなければ三部義道はない。もし生まれたのがお寺でなければ進みたい道は明確にあった。建築設計士。それがだめなら大工、看板屋、ペンキ屋という順で希望があった。しかし、それはお寺を継がなければならない反発からの希望だったかもしれないし、もしそうなったとしても、そこに義道はいなかっただろう。義道は、和尚への反発によって和尚となった。
仮定やタラレバの話は結局は存在しない。今ここに在る人間だけが私なのだ。これまで出会った縁に感謝などしない。感謝するほど他人事ではない。私自身のことなのだから。

あとがき

自分という存在がいつ消えていくのか自分には全く分からない。徐々に消えていくならその準備もできるかもしれないが、一瞬のうちであることも十分にあり得る。だとするならば、できるうちに自分の生涯を記録しておきたいと思った。父の生涯については『千代亀』に書いた。子孫にその人生を残したいと思った。それなら自分のこともと考えた。
幸か不幸か令和2~3年はコロナ過において時間がたっぷりとれた。ので、つらつらと思い出しながら振り返ってみた。
20代のころから、自分が死ぬのは60歳だろうと想定していた。それ自体若気の至りだったと思うがその誕生日が近づいた頃はそれなりに緊張した。自分の想定に自分が縛られる自己暗示のようなものだった。その日を何ということもなく通過して、次の想定をしようとも考えたがバカらしくなってやめた。
「生死を生死にまかす」と道元禅師も言っている。元々自分にどうすることもできない命をどうにかできるように考えるのは愚かだ。ただ、準備だけはできる。「浜までは海女も蓑着る時雨かな」で、どうせ死ぬからと言って今日のいのちを粗末にするのは更に愚かだ。今日の生き方が明日を生むのだ。今日が最期の日だとすれば自分で納得のできる今日の生き方でなければならない。
ということで、その日の準備のためにこれを書いておいた。その時に、書いておけばよかったと悔恨を残すことのないように。これで終わるかもしれないし、さらに書き足すかもしれない。
振り返って、ここまでは、プラスマイナス比較して楽しい人生だった。人生を楽しいと振り返ることができるのは、社会的な時代背景にもよるだろうし、家族に突然の事故や深刻な病気など大きな悲劇がなかったことにもよるだろう。それはお陰様である。素直にありがたいと思う。
松林寺の内仏壇には過去帳が祀ってあって、毎日繰っては掌を合わせている。父親の先祖の二戸新七家、母親の両親、十和子の両親の他、これまでお世話になった上述した方々の戒名、さらには阪神淡路大震災、東日本大震災の物故者精霊もその日に記入してある。私に生ある限りその諸精霊と共に生きたいと思う。
もう「なぜここに居る」などとは考えない。居るべくして居るのであり、なぜ生まれたのかなどはどうでもいい。元々命は何一つ選べない。生まれる時代も社会環境も、親も親の職業も兄弟も、自分の顔も体も性格さえも選べない。学校も先生も同級生も自分では選べない。老いて髪の毛が白くなるのか抜けるのかも選べない。更には選ばないのに病気や災難はやって来る。そして死ぬことが、生まれることを選べないように選べない。生老病死何一つ選べない。選べない命をどう引き受けるのか、引き受けた命をどう使うのか、その覚悟だけが問われている。
毎朝顔を洗うように、なすべきことをなす。そこに「なぜ」と疑問を差し挟む意味はない。
今を生きる、ここを生きる。(了)

義道 その15

2021年04月21日 05時00分00秒 | 義道
東日本大震災

私が生きた時代の社会的に大きな出来事は、東京オリンピックや大阪万博、阪神淡路大震災などが挙げられる。しかし、その規模と衝撃から言って、平成23年(2011)3月11日発災の東日本大震災が、私にとって最も大きな出来事だったのは間違いない。
津波は画面で映像を見るだけでも魂が凍るような怖さを感じたが、実際にその場にいて、あるいは飲み込まれてしまった人の恐怖は、体験者以外の人間にはとてもとても分かり得ない。さらには原発事故の惨劇はこの国がかつて経験したことのない重大事故だった。
4日後の3月15日に被災地に入り、真っ先に知り合いの気仙沼市清凉院さんに向かった。以来、岩手から福島まで、右往左往しながらできることを考えてきた。その中で大きかったのは、「まけないタオル」プロジェクトと「漁師のハンモック」だ。
避難所を回りながら感じたどんよりとした暗さ。家も家族も仕事も財産も全て持って行かれた人々が暗くなるのは当然だが、暗いままでいるとますます落ち込んで立ち上がれなくなってしまうのではないか、何か元気になる方法はないかと考えていた。被災地から山形へ戻る車を運転しながら、「みなさん負けないで」という思いと、頭に「巻いていたタオル」が結びついて『まけないタオル』というフレーズが頭の中で鳴り響いた。4月3日のことだ。
頭にも首にも巻けない短いタオルで元気づけることはできないか。人はおかしいから笑うだけでなく、笑うことで明るくなり元気になることもあるはずだ。「なんだダジャレか」とクスッとしてくれればいい。その思いつきをブログに書いた。そして誰かタオル業者を知らないかと呼びかけた。すると真っ先に連絡をくれたのが、シンガーソングライターで歌う尼さんのやなせななさんだった。「親戚にタオル業者がいる、紹介しましょうか」。そこからプロジェクトが動き出した。
被災者の数は50万人、全員に配りたいけどとりあえずは1万枚。製作費用はどうするか、タオルを被災地に届ける活動を支援する募金を呼び掛けて、募金してくれた人にもタオルを一枚さしあげる、被災地の中と外で同じタオルを握ってこの震災に立ち向かう、という構想が固まってきた。
タオルを発注した後、宮城県山元町で寺を流された早坂文明さんからメールが来た。「まけないタオルって何をしたいのかはじめ分からなかったけど、ようやく分かってきた。そういうことなら歌で呼びかけた方が分かりやすいと思って歌詞を書いてみた。庭を掃除しながら30分でできた。誰かに曲を付けてもらって」。タオル発想から1か月後の5月3日だった。
作曲といえばシンガーソングライターのやなせさんだろうと、その日の内に依頼した。「私時間がかかるんですよね。長いときは2・3か月」。それなら無理か。他に誰かと思っていた次の日の朝「曲できました。私が書かなければ誰かが書くでしょう。それは嫌だと思って一晩かかって書きました、聴いてください」。電話口で『まけないタオル』が流れた。歌が完成するまで30分と一晩。物語が生まれる時はこういうものかと思った。
それからタオルと歌を持ってやなせさんと被災地を届けて回った。彼女は被災地の外でも歌うたびに「まけないタオル」を呼びかけた。結果として作って配ったタオルの枚数は85,000枚に上り、支援金額は3,700万円に達した。タオルの製作費と経費を除いた資金は、親を失った震災孤児への支援などに使わせてもらった。

気仙沼にボランティアに来ていたアメリカ人の女性が船を流された漁師の仕事として、網を編む技術を使ってハンモックを作って売ったらどうかという発案をした。それはおもしろいと飛びついたが、なかなかアイデアが動きとして展開しなかった。当時まだ気仙沼は電話も不通でFAXが使えなかった。そこで事務局を引き受け松林寺がFAXの受付となり「漁師のハンモック」と銘打って広報した。テレビやラジオで何度も流れた。結果として一枚10,000円で1,000枚売れた。1,000万円の仕事を作ったことになる。どちらも現場において生まれたアイデアだった。

まけないタオルを始めようとしたとき、中央の人から「冗談言ってる場合じゃないでしょ」と批判を受けた。それは現場を見ないでその空気を感じないでの印象に違いない。冗談を言っているつもりは毛頭なかった。何とかして元気になってもらいたいという現場での歯ぎしりするような直感から生まれたものだった。
震災後真っ先に訪れた清凉院さんは以前からの知り合いだったが、それから数えきれないほど訪ね、抱き合って涙を流し、酒を酌み交わし、兄弟とまで呼ぶようになった。震災がもたらした大きな結縁だった。

義道 その14

2021年04月14日 05時00分00秒 | 義道
松林寺時代

平成17年(2005)に松林寺に戻り、すぐに晋山式の準備に取り掛かった。松林寺の住職になるということは、宿用院を離れなければならないということで、それを檀家に納得してもらうためには後継者を決めなければならなかった。檀家からは「住職が松林寺に帰るのははじめから分かっていることなので仕方ないが、息子は置いて行ってくれ」と言われていた。檀家を納得させるにはそれしかないだろうと思っていた。そこで息子の成長を待っていたのだがモタモタして思うように進まなかった。18年(2006)に松林寺晋山式を決め、後は息子に住職を渡せるまで宿用院を兼務する以外になかった。
晋山式と同時に松林寺集中講座の準備も進めた。この寺をどのように使っていくつもりかを実践で意思表示したいと思った。宿用院で地蔵まつりや色んな行事をやってきたことが参考になり、またやれるという自信もあった。本番をシュミレーションして準備を整えるのがとても好きで、1年間は晋山式と集中講座の準備に没頭して楽しい時間を過ごした。
平成18年9月17・18日、松林寺17世住職退董式、18世住職晋山式並びに再会結制を挙行した。寺院総勢115名の大法要となった。父親の退董式も、身体を支えて何とか務めることができた。本堂を引くときには檀家が涙を流して合掌してくれた。体の状態とタイミングがギリギリ何とか間に合ったと安堵した。
晋山式から1か月後の10月16日から22日、1週間の日程で第1回松林寺集中講座を開催した。宿泊参加も受け入れて、朝晩の坐禅と法話、外来講師が6名という膨大な内容だった。2回目からは1泊2日の日程で開催、9回目からは1日だけの日程となった。これも「10年やれば伝統になる」の言葉通り、15回を数えてすっかり定着してきた。集中講座をここまでやって来て一番良かったと思うのは、スタッフの人たちが寺の中を自由自在に楽しそうに動いてくれることだ。寺というところに初めて入ったという若い女性もいて、寺の敷居を下げることができたことは大きな成果だと思う。

平成21年(2009)11月6日、父親が遷化した。満80歳だった。平成8年(1996)頃から体調がおかしいと言っていた。筆で字が書けないと悩んでいて、その後言葉が出にくくなり、足の動きもおぼつかなくなった。言葉は出なかったが意識ははっきりしていて、そのために自分で自分が歯がゆかっただろうと思う。集中講座にも聴衆として着席し笑顔を見せていた。しかし、次第に症状は重くなり、介護、入院、老健施設、寝たきりへと移っていった。
わずかばかりだったが、松林寺で介護した期間があった。母親と交代で父の隣で寝た。布団をはぐ音がしてトイレかなと抱き起し、トイレまで連れて行って下着を下ろして座らせて、頃合いを見て抱き上げてベッドまで連れてきて寝かせてと、それが一晩に5回も6回もとなると次第にイライラしてくる。しかもトイレに座っても少しも音がしないのに立ち上がろうとしたりすると「出たくなけりゃ寝てればいいだろう!」と怒声を浴びせたこともあった。実は疥癬という皮膚病に罹っていて、身体がかゆいので寝ていられなかったのだ。それが言葉で伝えられなかったのだと後から分かった。
それでも、敵と思っていた父親を介護することになって、その体に触れて、風呂で体を洗ったり、お尻を拭いたりした。そんなことができる自分を意外に思った。せざるを得なくてするのだが、その機会を与えてくれたのは父だった。
もし父親が病気にならず、元気なまま突然ポックリ逝ってしまったら、おそらく何年か後にきっと後悔していたことだろう。宿命のように反抗し、口も利かずに別れてしまったら「これでよかったのか」と自分を責めていたに違いない。わずかでも介護のまねごとをして親孝行とまではいかないまでも少しは世話をさせてもらった。そのお陰で後悔の念が軽くなっていることは事実だ。もしかしたら、父は息子のために病気になってくれたのではなかったか、とさえ思う。

亡くなる前の年、9月20日の誕生日に数え80歳の傘寿の祝いとして、孫たちも集まって記念写真を撮った。車椅子で施設からの一時帰宅だったのだが本人はようやく帰って来られたと喜んでいたのだろう。みんなで楽しく過ごした後、車に乗せて施設に戻る時には抗議の声を発した。しかしすぐに諦めたようだった。老人介護は残酷だと感じた。
その後病院と施設の入退院を繰り返し、反応もなく寝ているだけの状態になった。そして、鼻からの栄養補給が喉に詰まり誰もいない病室で息を引き取った。
本葬は初七日に行った。それが父の希望だった。ずいぶん前から自分の葬儀の配役を書き残していたし、頂相の掛軸も準備していた。私もいつかその日は来ると感じていたので、日付だけを空欄にして準備を進めていた。お陰で何とか父の望みを叶えることができたと思う。本葬には多くの参列をいただき、住職54年の慰労と感謝の気持ちで送ることができた。

大学のために上京するとき、都会へのあこがれと父親からの解放と共に、故郷からの解放感も感じていた。田舎特有の相互監視のような閉塞感を息苦しく思っていた。誰も自分を知らない世界はキラキラとした明るい未来を想像させた。監視のない生活は確かに楽しかった。しかし、親につながる故郷は凧の糸を切り離しはしなかった。凧の糸の範囲で遊んでいたにすぎない。しがらみのない解放は解放と言えるのだろうか。糸の切れた凧は解放とも自由とも違うように思う。
30年ぶりに腰を落ち着けた故郷最上。しがらみではあるけれど、それを消極的な決断にはしたくなかった。どんな理由にせよ、ここで生きていくと決めたならば、ここでよかったと思える生き方をしなければ損だと思った。嫌々生きる人生よりも、ここでいいと思える人生を生きたいと思う。つまらない点があれば自らが変えていく、あるいは作っていけばいい。死ぬときに「楽しかった」と言えるために、ここで精いっぱい積極的に生きてみようと思った。
「もがみ地産地消エネルギー」では地域新電力立ち上げに向けて勉強会を行っている。「最上の地酒を創る会」では最上町産の米と水で新しい地酒を創ることになった。「花の鶴楯を創る会」は地元下小路・立小路の起源である鶴楯を花の山として整備しなおすための事業を始めた。
常に、もっといい方法はないか、もっと楽しむ方法はないかと考えている。

義道 その13

2021年04月07日 05時00分00秒 | 義道
シャンティボランティア会時代

「21世紀はNGOの時代だ」と話していたシャンティ国際ボランティア会専務理事有馬実成師は、その直前の平成12年(2000)9月18日に遷化された。前年、待望の団体の法人化を成し遂げたばかりだった。「曹洞宗ボランティア会」は改組して「社団法人シャンティ国際ボランティア会」となった。
師は、法人化の祝賀式典終了後真っすぐ病院に向かわれた。病状は芳しくなく、そのまま帰れないのではないかと思われた。主だったメンバーは祝賀会どころではなく、懇親会の途中で会場を抜け出して対策を考えた。有馬さんの代わりができる人などいるはずがなく、かといって誰かがやらなければせっかく法人化を成し遂げたばかりで団体は崩壊してしまうかもしれない。混沌とした中で一人が「三部、お前がやれ」と言い放った。それにつられて「そうだ、それしかない」とみんなが声をそろえた。「ちょっと待ってくださいよ。できるわけないじゃないですか」と反論するも、「あんたがやると言わなければ、誰かが手を挙げてとんでもない方向に行ってしまう、やるしかない」と責め立てられた。
有馬さんは、当会の指導者であるばかりでなく、もう既に日本のNGO界のリーダーであると衆目が認めていた。その後任を務めるというのは、何も準備していないのにいきなり満場の大舞台に立たせられるようなもので、自分の力不足からいって、とても任に堪えられるものではなかった。しかし、それに対抗できる方策を持ち合わせているわけではなく、結局押し切られて大役を受けることになってしまった。
平成12年(2000)の総会において、正式に専務理事に就任した。専務理事は常勤となるので、永平寺役寮以来の単身赴任となり、特派布教師も退任させていただいた。
永平寺の勤めを終えてから特派布教師を務めていたが、同時にシャンティの東京事務所を手伝ってほしいという要請で時々顔を出していた。有馬さんのサポートという役割だったが、それさえも役に立っていたかどうか疑わしい。それなのに、団体の方針決定、業務の執行責任、人事の掌握、事務局の統括、他団体との交渉等々、専務理事の責任は重く、いくら当て馬だったとしても、振り返ってあまりにお粗末だったと汗顔の至りで慚愧に堪えない。

父親は平成8年(1996)頃から体調に異変を感じ始め、方々の医療機関を渡り歩いていた。手が震えたり、上手く字が書けなかったり、言葉が出なくなったりという症状が出ていた。「疲れたのだろう」「軽い脳梗塞ではないか」などの診断で薬を処方され、ぼんやりした状態が続いていた。後にパーキンソン症候群と診断された。お経も途中で出てこなくなり、葬儀や法事に高校生の私の息子を手伝わせたりしていた。それを知りながらも専務理事の業務は席を空けられなかった。
ある時、寺に帰った私をつかまえて父親が声を振り絞った「もう限界なんだ」。目には涙が浮かんでいた。私の大変さも理解して何とか頑張ってはいるが、これ以上は無理だという訴えだった。その状態は檀家にも知れ渡って心配の声が上がり、平成15年(2003)に開催された役員会で、「どうするつもりだ、いつまでもボランティアではないだろう」と迫られた。平成18年(2006)に住職交代の晋山式を行う予定を示し、何とか切り抜けた。
後任の専務理事候補は目星がついていたが、その人の都合もあって、ギリギリの綱渡りをしているような状態だった。何とか交代できる目途がつき松林寺に帰ったのは平成17年(2005)の5月だった。
この5年間は私にとって最も忙しい時代だったと思う。シャンティの常勤をしながら、宿用院の住職、そして父親に代わって松林寺の務めを果たさなければならなかった。忙しさにあこがれていたが忙し過ぎることも悩みだった。

ボランティア会初代会長であり、永平寺役寮時代にも国際部長として大変お世話になった松永然道師が平成19年(2007)2月24日遷化された。温かい慈悲の衣で包むような父とも慕う存在だった。ボランティア会はどうしても有馬師が表に出るが、松永師がいなかったらここまで続かなかったろう。それは当時のボランティアたちが等しく口を揃えるところだ。静岡とはいえ、2月に寒桜が咲く境内の本堂で本葬の通夜説教をさせていただいた。大きな存在をまた一人失った。
もう一人、五反田事務所の時代に入職した沢田隆史君は、下半身に障害があり主に事務所の総務を担ってくれていたが、平成20年11月20日47歳で亡くなった。団体の財政が厳しいと感じ自分の給料の一部を誰にも言わずに団体に寄付していた。生活を切り詰めていた困難が積み重なり、一人の部屋で倒れていた。そういう状況を見過ごしていたことに愕然とし自分を責めた。痛恨の極みだった。

義道 その12

2021年03月31日 05時00分00秒 | 義道
永平寺役寮時代

平成4年(1992)春のある朝トイレに座っていると、十和子が「電話、永平寺からだって」と受話器を持ってきた。それは永平寺の池田副監院からで、「役寮として永平寺に来てくれないか」という話だった。はじめ何のことか飲み込めなかった。役寮というのは、永平寺に常在して業務を務め、修行僧の指導にもあたるという役職で30名ほどがその任に当たっている。しかし、その任に当たるのは、永平寺で長く修行した人がほとんどで、1年間しか修行していない自分などが務めるような役ではないと思っていた。トイレの中で受けるような要件でもなかった。「よく考えて早めに返事をしてほしい」と言われ電話を切った。
「何の話?」と聞かれ、「いやいや、とんでもない電話があるもんだ。永平寺に来いという話だった」と、その時はまさか妻と1歳になったばかりの娘を含め3人の子供を置いて行けるわけがないと笑っていた。すると彼女は「ふーん、おもしろいじゃない」と簡単に言う。「え、3年間だよ」と言うと「何とかなるんじゃない」とあっけらかんとしている。それから悩んだ。「反対されて、そりゃあそうだと笑い話にすればいいと思ったのに、何とかなるという、本当に行けるんだろうか、自分などが行っていいんだろうか」という思いと反比例して、「もう一度永平寺の中に入れる」という期待の思いが膨らんできた。修行を1年で切り上げて山を下りる時、もう二度と僧堂に入ることはできないだろうという寂しさと恋しさを感じていた。怠惰な生き方を締め直すためにも、もう一度あの場所に身を置いてみたいという思いは日に日に強くなっていった。
腹を決めたころ、「あなた本当に行くの?」と聞かれたが、今更言われてももう引き返せなかった。池田好雄老師は、庄内の寺の住職で、松林寺の授戒会の際には説戒師を務めてくれた。また昭和62年(1987)から通っていた布教師養成所の直近の主任講師でもあった。そんな縁がつながって永平寺の伝道部講師を受けることになった。
平成4年(1992)9月8日に上山した。久しぶりの永平寺は緊張の連続だった。修行1年目のビクビク感がよみがえり、古参和尚が大きな声を出すと自分が怒られているのかと背中に緊張が走った。修行僧の時は周りを眺める余裕もなかったが、役寮に慣れるにしたがって顔を上げて眺めるほどに永平寺は美しいと感嘆した。水の流れる音や樹木の四季の移り変わりは、自然の姿に仏を感じさせてくれるに充分だった。ありがたい経験もたくさんさせていただいた。朝課の導師や夜の点検などは役寮ならではの役目であり、毎晩の法話や坐禅指導も及ばずながら務めさせていただいた。何よりも、道元禅師のお傍に生きることができるという喜びはこの上ないものだった。

上山して3年目の平成7年(1995)1月17日、朝の坐禅の時、僧堂全体がグラグラと揺れた。阪神淡路大震災の発災だった。テレビのない永平寺でも、とてつもない大きな地震であることが新聞等で分かった。神戸には永平寺修行中同寮の和雄さんがいる、大丈夫だろうかと心配になったがなかなか情報は伝わってこない。新聞の死亡者欄を隈なく見てもそれらしい名前がないので安堵していた。ところが同じ兵庫県の修行仲間から「どうもお子さん二人を亡くされたらしい」という情報が入った。それから心がざわついて落ち着いていられなくなった。永平寺だからといってただ坐っていていいのだろうか。難民キャンプに身を置いた経験が、「傍に行って寄り添いたい」という行動を駆り立てたのだと思う。
「現地に行かせてほしい」と監院老師にお願いするも色よい返事はもらえなかった。ならば、永平寺を辞めても行くと腹を決めた時許可が下りた。
震災から5日後の22日、修行僧二人と3人で神戸を目指した。まずは和雄さんの寺に行き亡くなったお子さん二人に手を合わせた。続いて、避難所に行き「安置されている遺体に手を合わさせてほしい」とお願いすると、グランドで焚火を囲んでいた一人が寄ってきて「宗教関係者が避難所をウロウロするのを目障りだと思う人がいるから止めた方がいい」と耳打ちされた。被災地で宗教者は何の役にも立たないどころか目障りな存在なのか、宗教者はこれまで一体何をしてきたのか、何をしてこなかったのか。情けなさと腹立たしさで悲しくなった。
仕方がないので瓦礫の片付けをしていると、ラジオから火葬場で読経のボランティアを求めているという情報が流れた。「葬儀もせずに遺体を荼毘に付す遺族の心情を思うといたたまれない。ボランティアで読経だけでもしていただけるお坊さんがいたらお願いしたい」という火葬場職員の悲痛な叫びだった。永平寺から「すぐに火葬場に行け」と連絡が入り、真っ先に駆け付けた永平寺組と高野山組が一緒になって読経した。その後何班かに分かれて修行僧がボランティアとして現場に派遣された。總持寺からも派遣された。これが修行道場から災害支援にボランティアを派遣した最初のケースとなった。また、日本国内の災害にお坊さんが関わっていくきっかけとなったかもしれない。

永平寺勤務中、月に2度は宿用院に帰って来ていたが、3人の子どもを抱えて3年間、十和子はよく寺の留守を守りやりくりしてくれたと思う。
平成7年(1995)10月31日、3年間の勤めを終えて永平寺から帰ってくると、布教師養成所でお世話になった主任講師の辻淳彦老師から電話があった。「永平寺から帰るのを待っていたので特派布教師を務めてくれ」とのこと。畏れ多いことではあるが、せっかく推薦いただいたので受けさせていただき、平成8年(1996)4月から特派布教師を務めることとなった。


義道 その11

2021年03月24日 05時00分00秒 | 義道
宿用院時代

当初、英照院に住みながら宿用院の住職を務めるという計画だったが、住職と監寺の責任の重さと愛着を測ればどうしても住職地に重心がかかってしまい、英照院の方は1年余りで辞任させていただくことになった。
河北町谷地の宿用院は600年の歴史がある寺で、4年前に亡くなった先住市川清矩大和尚は、28年間河北町長だった人であり、また曹洞宗宗議会議長も務めた有徳の住職だった。その分、一般の檀家からすれば近寄り難い部分があったかもしれない。そこに、20代の住職家族が生後間もない子供を抱いて寺にやってきたので、みんな興味津々で様子を見に来た。何も知らない土地で住職の経験もない状態だったので、こちらも関心をもって檀家と接してきた。お陰で、120軒ほどの檀家の家族構成、顔名前、親戚関係までほとんど頭に入っていた。
新しいことを何か始めても喜んで協力してくれ、応援してくれた。
手始めに寺報月刊「なあむ」を発行した。これは松林寺で先行した寺報「いちょう」を追いかける形でスタートさせた。宿用院の役員さんが毎月檀家に配布してくれた。また門前の掲示板に毎月仏教の言葉を書いて張り出す掲示伝道を始めた。次いで月例の坐禅会、写経会を開始した。
教化研修所の時代、中野先生に、「寺に人を寄せるには何がいいですかね」と聞いたことがあった。先生は「それは祭りがいいよ、10年やれば伝統になるよ」と教えてくれた。その教えを実行したのが「宿用院地蔵まつり」だった。野ざらしの石地蔵に覆い堂を作りたいと発願し寄付を募って完成させた。その落慶式を盛大に挙行しイベントも行った。終わって「楽しいね」という声を待ってましたとばかりに「来年もやろう」と例祭にこぎつけた。それから毎年5月最終日曜日を定例として25回まで続いた。
おじいさんやおばあさんお母さんは寺に来るが最も来ないのはお父さん方だ、そのお父さんたちを集めるために結成したのが「宿用院羅漢クラブ」だ。その羅漢クラブが地蔵まつりを主催し、その流れで、新年会、花見、芋煮会、バーベキュー、旅行と、次々と企画してはとにかく飲んで楽しく過ごした。
研修所時代に少し法話の勉強をしていて、必修として布教師養成所にも出席していた。住職となり、大般若会・施食会などのお寺の行事で話すようになった。老人会や公民館行事などにも講話として呼ばれていた。しかし、浅い勉強と薄い知識の中で話をするのは穴あきダムのようなもので、すぐに底をついてしまう。もう一度勉強しなおさないと話ができないと思い、昭和62年(1987)から布教師養成に通い始めた。年3回で当初は1週間の日程だったが次の年から5日間になった。少し話せると思って高くなっていた鼻の根元から見事に刈られた。行くたびに落ち込み自己嫌悪に陥ったが、お陰で勉強させてもらった。
平成4年(1992)、本堂の柱が白蟻に喰われていることが分かり、土台を全て取り換える改修工事を行った。併せて平成5年に宿用院開創600年を迎え、その法要と初会結制を挙行し、記念誌『宿用院縁起』を作った。

河北町長の選挙にもかかわった。総代の一人が立候補し、当時の町政の事情もあり頼まれて掲示責任者を引き受けた。無事当選し二期目を迎えた時、事前の予想では無投票ということで、断り切れず現職の後援会長を引き受けた。その直後に立候補したのが、何ともう一人の宿用院総代だった。総代同士の一騎打ちでは、住職がどちらかの後援会長など務められないと退任を申し入れたが、選挙は既に走り出してしまっていて、辞めるに辞められない状況になってしまっていた。この事が宿用院時代で最も苦しい出来事だった。ありがたいことに、その後現職が当選してからは、ほとんどしこりも残らずどちらの総代も寺の運営を積極的に担ってくれた。

平成11年(1999)高木善之環境講演会「美しい地球を子どもたちに」が開催された。主催したのは環境NGO「ネットワーク地球村」の山形県会員が中心となった実行委員会だった。宿用院が事務所となり会員の一人だった私が実行委員長になった。河北町で一番大きな「サハトべに花」の大ホール定員800名に1100名が集まった。通路に立ち階段に座りステージ上にもパイプ椅子を並べたがそれでも入りきれずに帰った人がいて、ステージから眺めて思わず鳥肌が立った。その実行委員会の熱を次につなげていこうと結成したのが「河北町環境を考える会」だった。私が代表となり、毎年「100万人のキャンドルナイトin河北」を開催、講演会や研修会、宿用院を会場に毎月例会を行ってきた。会として東日本大震災の炊き出しにも何度か行った。お寺が環境問題の発信地になるべきと考え平成21年(2009)庫裡の屋根にソーラーパネルを設置した。

宿用院住職になる時、父親から「10年勤めてこい」と送り出されたが、なってしまえばそう簡単に辞めるわけにもいかず、結局27年住職を勤めた。
新米住職を暖かく向かい入れ、かわいがり、交流を深めた宿用院檀家衆の顔が次から次へと浮かんでくる。私にとっては家族同様のつき合いだった。

義道 その10

2021年03月17日 05時00分00秒 | 義道
結婚前後

9年半ぶりに松林寺に帰ったのを手ぐすね引いて待っていたかのように、結婚しろの大合唱とともに見合い話が次々と舞い込んできた。本人がしたいかどうかではなく、結婚することがここに住む条件のように責め立てられて、言うままに何度か見合いをした。したいわけではないので相手に対しても誰が良いとか悪いとかあまり考えなかった。
それまでにおつきあいしていた人は学生時代からいた。ただ、永平寺に行き、山形の寺に帰る気持ちがだんだん固まってくると、田舎の寺の奥さんになる人かどうかという見方をしてしまい、難しいだろうと思ってしまった。
昭和59年(1984)の12月2日、叔父が持ってきた何度目かの見合いは松林寺でだった。仲人と叔父夫婦、それに相手とその母親と出稼ぎに行っている父親の代わりに従兄弟が同席した。顔を合わせた相手に別段の感情は湧かなかった。帰ってから母親は「どうだ」と言う。どうもこうも初めて会ったばかりでどうでもないと言うと、「男の方から仲人に返事をするのが礼儀だ。悪くなければいいということだ」と言う。すぐに仲人に電話で「本人が大変気にいっているのでどうか進めてください」と言っている。「見合いというのはそういうものだ」と押し切られてしまった。
「向こうの父親も帰ってくるというので、次は8日に相手宅で会うことにましょう」と、仲人により段取りが決められた。それで6日後の2回目の見合いというか顔合わせとなった。誰もが「本人同士の気持ちが大事」と言葉では言いながら、ここで決めようという空気が充満していて、「どうだ」と迫られる。この時点で、自分の気持ちより親や親戚や仲人の気持ちを汲もうというように心は動いてしまう。「分からない」というのは「悪くないということだ」と、親同士が「それじゃあ」と言って「旨い酒ということで」と結婚することが決まってしまった。
その場でカレンダーをめくり式場に問い合わせ、結婚式の日取りと会場、結納の日まで決められた。本人同士の意思などさほど問題ではなく、親同士と親戚、仲人でどんどん進められていくのだった。そして、60年(1985)4月13日に結婚した相手が十和子だ。
彼女は当時銀行勤めで、年末商戦で忙しくなかなか会う時間もなかった。結婚が決まってから改めて「これでいいのか」と迷いが膨らんだのだろう、忙しいということを理由に正月が明けてからも会うことを避けていた。
それでも結婚当日はやって来て、松林寺仏前で挙式した。その後も半年ほどはギクシャクしたブルーな時代があったが、以来36年夫婦として何とかやってこれた。1男2女もそれぞれ結婚し幸せそうに暮らしている。結果としてこれでよかったのだと思う。いや、そう思う以外ない。
自分の意思で結婚したりしなかったりするが、自分の意思だから幸せになれるとは限らない。本人の意思など無視されるような形で、周囲に促されそれに任せてしまうことで幸せになる場合もある。どんな形で一緒になったとしても、結婚というのは夫婦になるというゴールではなく、夫婦になっていくスタートなのだと振り返って思う。幸不幸はスタートで決定されるのではなく、幸せを感じるような生き方をするということなのだろう。

結婚も慌ただしかったが結婚後もなかなか忙しかった。2か月後の6月には松林寺の授戒会だった。その準備には事務仕事がたくさんあり、また毎日のように人が集まり日常が忙殺されていた。それがかえって結婚後のギクシャクを薄めてくれたかもしれない。授戒会とはキリスト教の洗礼式のようなもので、3日間にわたり僧侶60名戒弟360名が本堂を埋め尽くして、正式な仏教徒になる修行を行った。感動で涙を流す人も大勢いた。
また結婚と前後して、新庄英照院の留守番役を頼まれていた。授戒会が終わるとすぐに英照院勤務となった。さらには河北町宿用院の住職という依頼の話も来ていた。結果として、松林寺の副住職でありながら英照院の留守居役である監寺を務めさらに宿用院住職となるという、3カ寺の掛け持ちをするようなことになってしまった。
この間のことを時系列で整理すると、59年(1984)12月2日お見合い、8日2回目の顔合わせで旨い酒、20日結納、60年(1985)4月13日結婚、6月松林寺授戒会、終わって英照院の留守番、61年(1986)1月長男誕生、4月宿用院住職兼英照院監寺という目まぐるしい日程だった。



義道 その9

2021年03月10日 05時00分00秒 | 義道
曹洞宗ボランティア会時代

「曹洞宗東南アジア難民救済会議」の活動を正式に引き継いだ「曹洞宗ボランティア会」は徐々に活動を開始していた。しかし、事務所に顔を出すのは難民キャンプボランティアあがりの学生と会計担当の若尾さんというおじいちゃんだけで、常在のスタッフはいなかった。そこで永平寺に「早く戻って来い」という連絡が入ることになったのだった。

昭和58年(1983)5月、松林寺には1か月もいないで東京事務所勤務となった。しかし、団体に職員を雇う金銭的な余裕はなかった。理事の駒込泰宗寺さんが「離れが空いているからそこに住んで時々寺を手伝って」という条件で、団体からは月に3万円の給与をもらうことになった。朝に本堂を開けて朝課に出てということでスタートしたのだが、五反田から駒込に帰るのは毎日終電ギリギリの時間だった。というのは、タイとは2時間の時差があるため、現地事務所との連絡はいつも夜になり、また当時事務局長の有馬実成さんは山口の寺に居て、そこから指示が来るのは夜の9時過ぎが多かった。
また、終電近くになりそろそろ帰ろうかと思っているところに現れるのが佐藤滋君だった。大学に行っているのかいないのか、それまで何をしているのか不明だが、夜中にバイクで事務所にやって来てはぼんやりタバコを吸って「三部さん帰ろう」と言う。バイクに二人乗りして寒い中を駒込まで帰った。それから泰宗寺の離れで酒を飲んで泊っていくのだった。そんなこともあり、次第に朝のお勤めは怠けてしまい、お寺の用事もおろそかにしてしまった。
貸し切りバスで静岡までミカン狩りの一泊旅行「カンボジア緑陰の集い」を行ったこともあった。日本に来てからほとんど顔を合わすことがなかったカンボジア人たちが思いっきり母国語で話ができることで、バスの中は大変な盛り上がりだった。富士の裾野で宿を提供してくれたお寺では、在日のカンボジア婦人がカンボジア料理を振舞ってとても喜んでくれた。
ワンフロア11.5畳の五反田の事務所は2年で手狭になり引越すことになった。次に借りた巣鴨の事務所もマンションの1室で、和室二つとダイニングキッチンだけでここもすぐに手狭になった。すると同じフロアの向かいの事務所が空いてそこに移り、さらに手狭になった頃に階下の会社が倒産してそこに移った。わらしべ長者のような事務所移転だった。私は巣鴨に引越しを済ませて間もなく、59年(1984)のお盆に山形に帰ることになった。大学、研修所、永平寺、そして東京のボランティア会事務所と、合わせて9年半山形を離れていた。父親の我慢も限界だった。次の年昭和60年(1985)6月に、松林寺では授戒会の大法要を控えていて、その準備で気をもんでいたのだった。

義道 その8

2021年03月03日 05時00分00秒 | 義道
永平寺修行時代

永平寺の修行を目指す者は、春と秋の指定された期間に上山することになっている。春は2月中旬から4月初めまでの期間に希望日を申請して許可を待つ。昭和57年(1982)、私に来た許可は「3月12日上山」だった。決められた持ち物を準備し、蒲団と着替えなどを詰めた行李は先に永平寺に送っておく。前日の夕方までに門前の地蔵院に到着しなければならないので、10日に松林寺を発ち、父親と義兄も行ってみたいということで3人で芦原温泉に一泊した。次の朝、風呂場で父親が頭を剃ってくれた。父はそのつもりでいたらしい。それを受け入れることが修行に入る儀式としてふさわしいと思えた。この時に、親子の関係より師弟の関係が強く意識され、父子の確執も薄れていったように思う。
翌11日、地蔵院に一泊して荷物の点検と心構えが叩き込まれ、12日朝、永平寺山門の前に立ち木版を三打した。「どんなに厳しいといっても殺されることはないだろう」ぐらいの覚悟だった。

足が太くて短くて固い自分にとって、坐禅は苦痛の何ものでもなかった。しかも永平寺では「結跏趺坐(けっかふざ)」と言って両足を組むのでなければ坐禅とは認めない。「組めなければ足を縛れ」と言われ、腰ひもを右足首に結んで腿の下を通して左足を縛り上げた。足ばかりでなく頭の全体までキリキリと痛んだ。
朝の3時から夜9時まで坐禅三昧で、それが10日間続いた。その間何度も「帰れ!」と怒鳴られ引きずられ階段から転げ落された。帰るということは逃げるということだった。寺を出る時送り出してくれた家族や親戚、檀家の顔を思うと逃げることはできなかった。柱にしがみついて何とか耐えた。
その後の1年間については『やる気があるのか』に詳しく書いた。
今思えば慚愧の事柄もいくつかあるが、結果として和尚として生きていく自信はついたと思う。

その後の行脚は上山前からあこがれていたことだった。教化研修所の2年後輩になる渡辺さんは、年齢も大学も同期(らしい)なのだが、永平寺の修行を終えてから入所したので先輩後輩ということになった。その渡辺さんが、研修所内で福島の寺の寺報を書いていた。覗くと、永平寺から福島まで歩いて帰った記録だった。「そんなことがあるんだ」と驚いた。同時に自分も「やってみたい」と思った。行脚僧の姿にカッコイイとあこがれたのだった。
昭和58年(1983)3月17日永平寺を発ち、4月11日に松林寺に着いた。この時の経験は、永平寺1年間の修行と同等、あるいはそれ以上に大きかったかもしれない。

下りると決めた期日が近づくにつれ、「ここで下りていいんだろうか、ここで下りたら二度とここに入ることはできないだろう、もう1年居てもいいのではないか」と思うようになった。悩みながら行脚の準備を進めていた時、ボランティア会の仲間から、「歩いて帰るなどと悠長なことを言っていないで山門に車を横付けするから真っすぐ東京に来い」と連絡があった。東京の事務所を後にするとき、「1年したら戻ってくる」と約束していたのだ。東京の事務所の大変さも理解できた。でも「これだけはやらせて欲しい」と言って歩いたのだった。
そして、これも渡辺さんのマネをきっかけとして行脚の記録を寺報に書くこととなった。昭和58年(1983)から松林寺で『いちょう』を、昭和61年(1986)から宿用院で『なあむ』を月刊で出してきた。それをもとにして『やる気があるのか』『いちごいちご』『なあむ』を上梓できた。さらにそれが布教師の道へと進むきっかけとなり、また永平寺役寮へとつながっていった。

義道 その7

2021年02月24日 05時00分00秒 | 義道
難民キャンプ時代

昭和55年(1980)8月4日、初めての海外としてタイに着いた。カンボジア国境近くのサケオ難民キャンプに入り、初めて難民と呼ばれる人々と出会った。というよりも、当初、その人たちを見ていいのだろうかと躊躇した。もちろん見物に来たわけではないが、「見世物じゃない」と思われないだろうか。ここに来る資格が自分にあるのだろうかと自問しながら恐る恐る近づいて行った。当時、このキャンプの他にもいくつかの難民キャンプがあり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統治の下約20~30万人のカンボジア人が難民として収容されていた。住居は仮設の竹とニッパヤシでできたものと木材とスレートでできたものがあった。住民にとっては竹とニッパヤシの方が涼しく好まれていた。
JSRCの活動は移動図書館だった。そんなものが難民支援になるのかと思った。カンボジアのポル・ポト政権の3年8か月は徹底した教育破壊を行い、教育を受けた知識人は見つけ次第殺され、「焚書政策」で全ての印刷物が焼き払われた。眼鏡をかけているのは教育を受けた証拠だということで殺され、眼鏡をはずしても耳の弦の跡だけで殺された。時計をしているのはブルジョアだと殺され、時計を捨てても日焼けの跡だけで殺された。
難民キャンプに仮設の学校ができ、読み書きの勉強も始まっていた。しかし、教科書も本も何もない環境で、子どもたちが文字を覚えてもそれが何の役に立つのか、読む本がなければ学ぶ意味が見いだせない。そんな学校へ日本の絵本にカンボジアの言葉クメール語の訳文を張り付けた図書を持ち込み子どもたちに見せた。子どもたちの目が輝いた。初めて見るきれいな絵、扉を開くとそこに書いてある文字が読める。夢中で読む声は「まるで蚕が桑の葉を食べるようだ」と、その時視察に訪れた無著成恭先生が感嘆の声を漏らした。人は食糧のみを食べて生きるのではなかった。文字を食べ、教育を糧として生きていくのが人間だった。移動図書館が難民支援になるのかという私の疑問は実に浅はかな思慮だった。
こんなことがあった。絵本を読む時間の後にお楽しみもあったらいいということでゲームやマジックを行った。山口から参加した老僧はマジックが得意だった。初めて見るマジックショーに子どもたちは驚きと戸惑いをもってながめていた。おもちゃのピストルを撃つと風船が破れトランプが飛び出すというマジックを行ったとき、子供も大人も蜘蛛の子を散らすように逃げた。彼らは、本物のピストルしか見たことがなかったのだ。
ただ生きているだけの難民にとって、子どもたちが笑顔で歓声をあげることは、それを見る大人にとっても生きる希望をもたらすものだった。それが移動図書館のねらいだった。

しばらくして、クリスチャンの日本人女性が難民の住居に住み込んでいることを知り、その縁でトン・バン一家と知り合いになった。
トン・バンお父さんニャン・サンお母さん、ハッチ、ホッチ、モッチ、マーチの兄弟姉妹、里子のブン・ラーという7人が狭い仮設の家で生きていた。毎日のように顔を出し、友達のようになっていた。
2か月が経つ頃、「今晩夕食を食べに来ないか」と誘われた。「え、難民の家で食事?」「お断りするのも失礼なのかな」ということで出かけた。正直おいしいとは思えなかったが何とか食べた。食事が終わってお母さんが「この子たちの上に兄と姉がいたが殺されてしまった。だから今日からお前は私の子どもだよ」と言ってくれた。以来、「お父さん」「お母さん」と呼んで家族としてつき合ってきた。やがて家族は難民として日本にやって来たが、お父さんもお母さんも日本で亡くなりお骨の一部は松林寺に安置してある。ホッチ、モッチ、マーチは今も日本に住んで「お兄さん」と慕ってくれる。

難民キャンプに来て、和尚の仕事が死んでからの役目ではないとはっきり気がついた。今現実の世界で苦しむ人々の傍に寄り添い、共に悩み共に考え共に問題解決の道を探す、それも和尚の仕事だったんだ。そういう仕事ならばやってみたいと、初めて自覚的に和尚になろうと思った。私が本当に出家したのは難民キャンプだった、と今思う。
難民キャンプから帰ってからも、ボランティア仲間が集まり日本でできる支援活動を始めていた。それは日本にやってきたカンボジア難民のためのカンボジア語の図書館活動だった。図書カードを作りそれを翻訳して郵送で貸し出すというシステムだった。その図書館を置いたのは、原宿のアパートの一室で、そこは、団体の会長である松永然道師のお弟子さんアン・サージェント慈芳さんが借りている部屋だった。アメリカ女性の慈芳さんは、航空機ボーイング社の元部長で、現在全ての飛行機に搭載されているブラックボックスを開発したというすごい人だった。松永師が開教師でアメリカにいた時に坐禅に来て、そのまま出家し師僧について日本までやってきた。その空き部屋のドアに、手書きの看板「曹洞宗ボランティア会」を張り付けて事務所としていた。
曹洞宗教団が立ち上げた難民支援団体は2年を待たずに活動の停止を決めた。ボランティアの仲間たちは、そこに難民が居るのにやめるわけにはいかない。教団がやめるならば自分たちだけで活動を引き継げないだろうかと上馬の私のアパートで相談した。有馬実成師とボランティアOB・OGたちが集まって話し合った結果、昭和56(1981)年12月正式に「曹洞宗ボランティア会」の設立を見た。57年(1982)2月、その事務所を五反田に探し、私のアパートにあった電話、机、スタンド、本棚、冷蔵庫など家財道具のほとんどをそこに運んで永平寺に行った。研修所での3年が過ぎ、いよいよ修行に行かなければならないこととなった。それを拒む理由はもうなかった。どうせ行くなら、一番厳しいと言われる永平寺しかないと思っていた。