三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第299回。1月31日、日曜日。
一時期好天気に恵まれて雪もだいぶ沈んだのですが、寒波到来でまた少し積もってしまいました。
明日からはもう2月に入るので、今年の冬もあと1か月というところでしょうか。
もう少し頑張りましょう。
今年事務室に掛けてあるカレンダーは、どこから来たのかイエローハットのもので、ひと月ごとに、創業者で会長の鍵山秀三郎の座右の銘が書かれています。
1月の言葉は『盥(たらい)に一滴の水』というもの。
解説には「盥に一滴の水を垂らしても、見た目に何の変化もありません。しかし、一滴分の水は確実に増えます。たとえ、増えたことを確認できなくても、私は努力することにしております。」とあります。
似たような言葉は禅語にもあったなと思いました。
『擔雪填古井(雪を担いて古井をうずむ)』雪で井戸を埋めようとする行為。
雪は井戸に投げ込まれたとたんに溶けて、埋められようもない。
無駄にも愚かにも見える行為ですが、それを粛々と黙々と行じていく。つまり坐禅修行のことを言っています。
盥の方は、一滴入れれば一滴分増えますが、雪は増えることを例えているのではありません。
「何にもならない」。その何にもならないことを愚直にやり続けることを良しとしているのが違いです。
もう一つ、若干違いますが、
『紅炉上一点雪(紅炉上、一点の雪)』というのがあります。
赤々と熱せられた炉に雪が一片舞い降ります。瞬間、雪は跡形もなく消えてしまいます。
真っ赤な炉と白い雪の光景がきれいですね。
ただこちらは、無駄な行為という意味ではありません。
坐禅している姿を炉に例え、湧いてくる妄想や雑念を雪に例えています。
坐禅になり切った時には、どんな妄想がやって来ても雪のようにたちどころに消えてしまうのだ、という例えです。
臨済禅らしい勇ましい言葉ですが、なかなかねえ、そんなにきれいにはいきません。
ボタ雪のような妄想が塊で降ってきたりして、炉の炭も負けそうな時もあります。
問題は雪ではなく、常に赤々と炉を燃やし続けているか、ということでしょう。
たゆまない行の持続こそ、「紅炉」となるのです。
道元禅師もこう教えています。
『寒苦をおづることなかれ、寒苦、いまだ人をやぶらず、寒苦、いまだ道をやぶらず。
ただ不修をおづべし、不修、それ人をやぶり、道をやぶる。』
寒苦あるいは暑熱によって人がダメになったり修行がダメになったりするのではない。
修行僧をダメにしてしまうのは、ただ、行を怠るからだけだ。
それをすれば何になるのかとか、もっと効率のいい方法があるのではないか、などと色々理屈をこねて、結局やらない理由を探している場合も多い。
それこそ愚直に、やるべきことを淡々と行じること。
もう、理由も目的も忘れて顔を洗うように、ご飯を食べるように、怠りなくあるべきように行じていく。そのことを先達たちは伝えてきたのです。
楽して多くのものを得ようとしたり、未来を運にまかせたりするのは土台から間違いです。
仮想のものは得られるかもしれませんが、リアルな人間として自分が得られるものは、やはりリアルな体験からでしかないでしょう。
お金も所詮仮想物です。お金そのものが幸せではありません。道具に過ぎません。
大金持ちになったとしても一日に6回食事をするわけではないですよね。
腹八分目に食べて穏やかに過ごすことが健康的な生き方です。それ以上に何を求める必要がありますか。
寒い中でもやるべきことは怠らず行じていきましょう。
あなたの炉は赤々と燃えているか。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
一時期好天気に恵まれて雪もだいぶ沈んだのですが、寒波到来でまた少し積もってしまいました。
明日からはもう2月に入るので、今年の冬もあと1か月というところでしょうか。
もう少し頑張りましょう。
今年事務室に掛けてあるカレンダーは、どこから来たのかイエローハットのもので、ひと月ごとに、創業者で会長の鍵山秀三郎の座右の銘が書かれています。
1月の言葉は『盥(たらい)に一滴の水』というもの。
解説には「盥に一滴の水を垂らしても、見た目に何の変化もありません。しかし、一滴分の水は確実に増えます。たとえ、増えたことを確認できなくても、私は努力することにしております。」とあります。
似たような言葉は禅語にもあったなと思いました。
『擔雪填古井(雪を担いて古井をうずむ)』雪で井戸を埋めようとする行為。
雪は井戸に投げ込まれたとたんに溶けて、埋められようもない。
無駄にも愚かにも見える行為ですが、それを粛々と黙々と行じていく。つまり坐禅修行のことを言っています。
盥の方は、一滴入れれば一滴分増えますが、雪は増えることを例えているのではありません。
「何にもならない」。その何にもならないことを愚直にやり続けることを良しとしているのが違いです。
もう一つ、若干違いますが、
『紅炉上一点雪(紅炉上、一点の雪)』というのがあります。
赤々と熱せられた炉に雪が一片舞い降ります。瞬間、雪は跡形もなく消えてしまいます。
真っ赤な炉と白い雪の光景がきれいですね。
ただこちらは、無駄な行為という意味ではありません。
坐禅している姿を炉に例え、湧いてくる妄想や雑念を雪に例えています。
坐禅になり切った時には、どんな妄想がやって来ても雪のようにたちどころに消えてしまうのだ、という例えです。
臨済禅らしい勇ましい言葉ですが、なかなかねえ、そんなにきれいにはいきません。
ボタ雪のような妄想が塊で降ってきたりして、炉の炭も負けそうな時もあります。
問題は雪ではなく、常に赤々と炉を燃やし続けているか、ということでしょう。
たゆまない行の持続こそ、「紅炉」となるのです。
道元禅師もこう教えています。
『寒苦をおづることなかれ、寒苦、いまだ人をやぶらず、寒苦、いまだ道をやぶらず。
ただ不修をおづべし、不修、それ人をやぶり、道をやぶる。』
寒苦あるいは暑熱によって人がダメになったり修行がダメになったりするのではない。
修行僧をダメにしてしまうのは、ただ、行を怠るからだけだ。
それをすれば何になるのかとか、もっと効率のいい方法があるのではないか、などと色々理屈をこねて、結局やらない理由を探している場合も多い。
それこそ愚直に、やるべきことを淡々と行じること。
もう、理由も目的も忘れて顔を洗うように、ご飯を食べるように、怠りなくあるべきように行じていく。そのことを先達たちは伝えてきたのです。
楽して多くのものを得ようとしたり、未来を運にまかせたりするのは土台から間違いです。
仮想のものは得られるかもしれませんが、リアルな人間として自分が得られるものは、やはりリアルな体験からでしかないでしょう。
お金も所詮仮想物です。お金そのものが幸せではありません。道具に過ぎません。
大金持ちになったとしても一日に6回食事をするわけではないですよね。
腹八分目に食べて穏やかに過ごすことが健康的な生き方です。それ以上に何を求める必要がありますか。
寒い中でもやるべきことは怠らず行じていきましょう。
あなたの炉は赤々と燃えているか。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。