なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ118

2017年07月30日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

7月30日日曜日。

今日は一関からお送りしています。
うーん、意味はありません。昨日同級生と遊びに来ました。

今年も日本各地で豪雨による水害が発生しています。
以前は、1時間の降水量が50ミリを超えると「非常に激しい雨」と表現され、危険な状態だと言われました。
ところが最近の雨量はその倍の100ミリを超える「猛烈な雨」が降ることも度々で、これまで想定された対策では間に合わないという状態で大きな被害となっています。
一方関東方面では水不足となっており、この国全体が平均的な天候ではなくなってきています。
異常気象というのは、これまで経験したことのない特別な気象ということでしょうが、それが頻発するようでは、もはや「異常」とは言えない「通常」の気象と言わざるを得なく、今後さらに「異常」が起こる可能性も秘めています。
その原因の一つとされるのが気候変動の地球温暖化です。

温暖化の影響にも色々ありますが、その一つに海面上昇があります。
気温上昇により海水が熱膨張することと、グリーンランドや南極の氷が解けて海水が増えるという理由です。
北極の氷はほとんどが海面に浮いているので、溶けても海水は増えませんが、グリーンランドや南極の氷は陸の上にあるので溶けた分の多くが海水となります。
海面上昇によりいち早く影響を受けるのが、サンゴ礁などの海抜の低い島々です。
その一つにキリバス共和国があります。
この国は、赤道直下、太平洋のど真ん中に位置し、国土は33の島を合わせても佐渡島程の面積しかありません。
そこに約10万人が暮らし、椰子油の原料や、観賞用魚、海草などがわずかな品目を輸出し、食料、燃料など生活のほとんどの物資は輸入に頼っています。
そんなキリバスが今、危機を迎えています。
海面上昇によって、海抜2メートルの国土は、このままいけば2050年には人が住めなくなり、国そのものがなくなると言われています。
「住めなけりゃ住まなきゃいいじゃないか」などと悲しいことを言わないでください。
ひとにとっては取るに足らない場所かもしれませんが、どんなに田舎でも、どんなに雪が降っても、台風が来ても、そこに住む人にとってはかけがえのない故郷であり、故郷を捨てなければならない辛さは誰も同じです。

そんな現地の生の声を聴く、河北町環境を考える会主催の講演会が開催されます。
講師は、仙台出身でキリバス国籍のキリバス名誉領事ケンタロ・オノさん。
8月28日月曜日、午後7時から、会場は河北町のサハトべに花。
参加費は1000円、中学生以下は無料です。
この参加費の中には、キリバスにソーラーランタンを贈る支援金が含まれます。
キリバスは漁業国ですが、インフラ整備が遅れているために、夜海に出て事故に遭うケースが多くあるようです。
そのキリバスに、ソーラー発電するランタンを贈ろうという計画です。
環境を考える会の会員が、その提案をケンタロさんにして、現地の反応を聞いた時のメールを紹介します。

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お送りいただいたソーラーランタンですが、各所に寄贈したところ大変好評でした。特に漁業省から大きな感謝を伝えてくださいとの伝言を承りました。
なぜ漁業省かというと、キリバスの人たちは海の民で、海と生き海に生かされているため、非常に気軽に漁に出ます。
しかし途上国であるためGPSなど安全装置を持たずに(持てずに)漁に出る人が多く、大変残念ながら海難事故が非常に多い国です。
このソーラーランタンを漁に出る人たちに普及できれば、大人たちが安全に漁に出ることができ、その結果父親や親族を亡くしてしまう子供たちを少しでも減らすことができると思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
キリバス共和国名誉領事・大使顧問 ケンタロ・オノ拝
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講演会の参加者が多ければ、その分贈るランタンの数も増やせます。
是非多くの方にご参加いただきたいと思います。
チケットは、当日会場でも購入できます。料金は同じです。
講演会には参加できなくとも、ランタンを贈る活動に参加いただける方も歓迎です。ランタンは1個約3000円です。
どうぞよろしくお願いいたします。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ117

2017年07月23日 04時53分56秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

7月23日日曜日。

突然過去の記憶がよみがえり、そのたびに頭(かぶり)を振って振り払うということが時々あります。
どうして、よみがえる記憶は思い出したくないことばかりなのでしょうか。
こういう状況を、私は「記憶の釣り堀」と呼んでいます。
60年間の出来事が記憶として、深い水の中に沈んでいます。あるいはふらふらと泳いでいるのもあります。
それらの一つが、何らかのきっかけで釣り上げられ浮かんでくるのです。
その記憶のほとんどが醜い自分の顔をした記憶の断片です。
思い出したくもない、また誰からも思い出されたくない記憶。
それが深い深い、暗い暗い水の底の方にたまっています。
そのまま静かに沈んでいてくれればいいのですが、何かの拍子に、あるいは知らぬ間に自ら餌をつけたのか、釣り針に引っかかりふらふらと浮き上がってくるのです。
その顔を見るたび身震いがします。

その記憶の一つ一つは、紛れもなく自分の為した事実です。
あんなことやこんなこと、決してひとには言いたくない事実の数々。
そして、それは他人の顔ではなく、全て自分の顔というところが身の毛のよだつ所以です。
楽しかった、自慢したいような、思い出して喜びを感じるような記憶だってあるはずなのに、そういう魚を釣り上げることはめったにありません。
あるいは、そういう記憶も思い出していながらも、嫌な顔を見たときの身震いするほどに印象が強くないから覚えていないだけなのか。
そんな時の私の対処法は、間髪を入れずに頭を振って記憶をリリースする、決してつかまえない、という方法です。

我々がものを考えるのは言葉を使用しています。
言葉を使わずに考えることはできないはずです。詳しくは分かりませんが。
坐禅では、「調身、調息、調心」、姿勢を調え、呼吸を調え、心を調えることを坐禅の要心としますが、心を調えるというのは、あまり意味がありません。
心だけを調えようとしても、調えようとすること自体「調える」という言葉を使って「思う」のであって、心を働かせています。
なので、曹洞宗の坐禅は「調身」と「調息」の方を大事にします。
姿勢を正し、呼吸を正すことによって、同時に心も正されているという坐禅です。
それでもやはり、坐っていると思いが次々と湧いてきて、ついついそれを追いかけて、物事を深く考えてしまいます。
心が坐禅の外に出てしまうような感じです。
なので私は、坐禅中、「調身・調息」と頭の名で「言葉」を繰り返すようにしています。
もちろん、姿勢と呼吸に意識をするためですが、もう一つ理由があります。
それは、その二つの言葉以外の言葉を奪うためです。
一つの言葉を思いながら他の言葉を頭に浮かばせることは、まずできません。
浮かんだ思いをつかまえようとしている時、「調身・調息」を繰り返し、深追いしないようにしているのです。
しかしこれも、呪文のようになってしまえば意味がないかもしれません。
お経を読みながら、普通にものを考えることができますから。
この場合、お経は頭のメモリーから流れてくるインストルメンタルの音楽のようなもので、言葉としては意識されなくなっています。

記憶の釣り堀から見たくない顔を釣り上げたときにも、頭を振った後「調身・調息」の言葉を繰り返します。
坐禅中でなくとも、運転中でも、横になって眠りにつく前にも、言葉と共に姿勢と呼吸を意識すると、心が鎮まっていくように思います。
まあ、私なりの方法です。

※去る水曜日に、間違って書き途中の記事をUPしてしまいました。
番外編としてそのままにしていますので併せて読んでいただければ幸いです。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ番外編

2017年07月18日 10時03分04秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

先週お話しした『焼け跡から』についてもう少し話させてください。
この舞台の原作は、作家西村滋さんの『それぞれの富士』という作品です。
西村滋さんについての資料を読み、是非ご紹介したいと思いました。
この文章を書かれたのは、兵庫県丹波市浄土宗の和尚さんで「天壺山主人」と名乗られる方です。
次のような文章です。

「原作者のこと」
この劇の原作者・西村滋氏に関し、浄土宗の僧侶・荻野圓戒上人(故人)から伺った話がある。同氏の母にまつわる話である。
氏がまだ5歳になるか成らないかの頃、ある日突然、母が庭に新しく建てられた粗末な離れに移ったのだそうである。
事情を知らされていない滋少年は、母恋しくてその離れの母に会いに行くのだが、あの優しかった母が、あろうことか、彼が近づくとありったけの罵声を浴びせ、コップ・手鏡・枕等々傍にある物を手当たり次第投げつけたのだという。
実はその時、母は結核を病んでいた。自ら不治の病に冒されたことを知った彼女は、家政婦さんに次のように告げたのだそうである。
幼い子が母親に死なれて泣くのは、優しく愛された記憶のなせるもの。もし憎らしい母なら死んでも悲しまないでしょう。
また、夫が再婚したなら、その継母に愛されるためには、実の母に対して憎しみを持っている方が良い…と。
この家政婦さんは、滋少年が幼稚園から帰ってくると、必ず離れのある裏庭で「大きな声で!」と言って、彼に幼稚園で習った歌を歌わせたのだそうである。
言うまでも無い、離れにいる母親に聞かせるためにである。
しかし、滋少年は、母の望み通り?心底母を憎み、葬儀の際、「棺の中のお母さんに花を」と勧められても、家政婦さんに全身で抵抗し、棺の中の顔すら見ようとはしなかった。
少年が9歳の時、父親も結核で病没。そして継母もいずことなく姿を消して、彼は孤児院を転々としながら次第にグレていったのだそうである。
その滋少年の前に、ある日家政婦だったおばさんが現れた。
彼がいっぱしの札付きであった13歳の時である。
そして彼に、母にまつわる出来事の詳細を語って聞かせたのだという。
それは、彼が20歳になるまで伏せておいて欲しいと、母から頼まれていたことでもあったのだが、滋少年がグレているという噂を聞いて堪らず駆けつけてきたのだという。
全ての事情、母の深い深すぎる愛を知り、彼の目からとめどなく涙があふれ出たことは言うまでもない。
そして、この日を境に彼は立ち直ったのだそうである。

涙で回す八十八番
その後、孤児院で小さな子達のまとめ役となった滋少年は、何度も自分がもてあます問題に直面することがあったのだという。
そんな際、彼は電話ボックスに飛び込んで八十八番(=はは)をダイヤルし、受話器に向かって「お母さん!」と大声で呼びそして泣いた。
彼は其れを繰り返すことで心の平静を取り戻したのだという。
その西村氏は、自らの境遇に似た戦災孤児を題材にした多くの著作を世に問うている。
氏は戦災孤児に何を見、如何なる心を通わせ、そして彼らを通じて何を語りかけたのだろうか?
そして又、そこから紡ぎ出された「焼け跡から」で、劇団・希望舞台が我々に問いかけているものは一体何なのか?   (天壺山主人 識)


この舞台が訴えるものは、この原作者の体験がベースになっているということが分かりました。
因みに、西村氏は「戦災孤児」ではなく、「戦争孤児」という言葉にしています。
次のように語っています。

「戦災孤児とは云わない。こだわるようだが、「災」が、自然災害を連想させるので。そして人間達はいつからか、台風でも地震でもない戦争という人工悪を習慣的にまた、不可抗力として自然災害同様のものと思いつつあるみたいなので。」と。

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ116

2017年07月16日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

7月16日日曜日。

希望舞台の演劇『焼け跡から』の最上町上演が決まりました。
この演目、これまでの記録を見ると、2010年から今年6月まで、全国各地で106回上演されています。
山形県内では今年初めて、河北町、川西町、米沢市、鶴岡市で上演され、11月にも庄内町、山形市での上演が決まっています。
そして、最上町での上演が11月14日に決まったのでした。

希望舞台制作部の玉井徳子さんが松林寺を訪ねてきたのは一昨年の2月でした。
数日前電話があり、来ることになっていましたが、あいにくの猛吹雪で、こんな日に来るのだろうかと思っていましたが何とかたどり着けたようでした。
『焼け跡から』の舞台を震災の被災地の方に観てもらい希望をもってもらいたいとの思いで被災地各地を回っている、気仙沼で三部の名前を聞いて相談してみたらと言われたので来ました、ということでした。
一目見た時から、この人とは波長が合う、と感じました。
ちょうどその日は次の日の涅槃会の団子作りでおばあちゃんたちが集まって団子を丸めていた時でした。
玉井さんにも混ざってもらい、舞台の話もしてもらいました。
被災地各地の情報、山形県内の情報なども話しましたが、いつかこの町でも上演したいものだと感じていました。

『焼け跡から』のストーリーは、終戦後の上野駅から始まります。
復員してきた和尚さんと、浮浪児になってしまった4人の戦争孤児との出会い。
和尚さんが持っていた1個のリンゴを分け合って食べる孤児たち。
「君たちは優しい子に違いない、和尚の寺に来るか」と和尚さんは孤児たちを長野の寺に連れていく。
そこから子供たちのドラマが展開されていく、という内容です。
この物語は実話をもとにしていて、和尚さんのモデルは藤本幸邦老師です。
藤本老師は、シャンティ国際ボランティア会の顧問をされていたこともあり、長野の寺に訪ねたり、何度もお会いした老師です。
「はきものをそろえれば心もそろう」という言葉の発信者でもあり、有名な布教師でありました。
3人の孤児から始まった長野円福寺の活動は、児童養護施設「愛育園」となり、これまでたくさんの子どもたちを育てて来られました。
その中から出家者も出て、恐山院代の南直哉師は藤本老師の孫弟子になります。

ということで、この舞台は私にとって少なからずの縁があり、上演しなければならない責務のようなものを感じていました。
なので、「実行委員長を」という委員会での声を受けざるを得ませんでした。

5月30日の河北町での上演を観たとき、客席の少し後ろで号泣する子どもの声が聞こえました。
どうしたのだろうと思っていましたが、後から聞いてみると、それは小学校低学年の男の子で、舞台のあるシーン、孤児の一人が「防空壕で焼け死んだ両親と妹を自分の手で葬った」と言うのを聞いて、自分がそういう目に遭ったらどうしようと思うと耐えきれなくなって大きな声を出してしまった、ということのようでした。
小さな子どもたちにも十分に伝わる、感動と希望の舞台です。
是非多くの皆さんに観てもらいたいと思います。

希望舞台は、地方を転々としながら巡演する手づくりの演劇集団です。
50年間そのスタイルを貫き通し、その姿は山田洋二監督の『同胞(はらから)』のモデルとなりました。
主演倍賞千恵子のモデルとされるのが玉井徳子さんです。
玉井さんの言葉から
「コンクリートの下に窒息した草や大地があるように、人間の本来の伸びやかな心も行き場を失い窒息してしまいそうです。
でも、ひとりの悲しみがしみじみと皆の心に広がり、ひとりの明るい笑い声がみんなの心を明るくする。その大きな温かさのなかにいると、心が浄化される様な気がします。
絶望と希望が生み出す感動!これが希望舞台の制作の仕事なのです。」


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ115

2017年07月09日 09時35分47秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

7月9日日曜日。

最近思うこと。

家族を失ったり、あるいは家族のいろいろな問題を抱えて苦しんでいる人がいます。
そうでありながら、無理に笑顔を作って何事もないように振舞っている人がいます。
そういう人を見て周囲で、
「よく平気でいられるものだ、何も考えていないのだろうか」
「こんな時に笑える神経が分からない、鈍感なのか図太いのか」
などと、勝手なことを言う人がいます。

平気なはずがないじゃありませんか。

悲しんで悲しんで、泣いて泣いて、苦しんで苦しんでいるのです。
でも、「悲しいだろう」「苦しいだろう」という目で見られることでさらに苦しみを増す場合もあるのです。
衆目を集めるような状態に陥った時、その目の心が気になってしまいます。
「かわいそうに」と憐れんでいるんだろうか。
「ざまあみろ」と笑っているんだろうか。
空々しい興味半分の視線と、嘲笑とも思える笑い顔、見て見ぬふりをする無視、ひそひそ話。
その視線の充満する中で息をしていかなければならないのです。
どんなに苦しいことか。
何でもなかったように接して欲しいから、何でもなかったように振舞っているのです。
だから、無理に平気な顔をして笑顔になっているのに、それを人間性を疑われるような目で見られたりするとは。

どういう表情をすればいいんですか。
憐れまれるような、いかにもかわいそうな顔をしていれば許してくれるのですか。
かわいそうな人はどこまでもかわいそうでなければだめですか。

差別の構造はそのあたりにあります。
弱っている人を寄ってたかってたたくのです。
それまでは言葉にしていなかったことも、相手が弱いとなると、何を言っても許されるかの如く、過去の小さなことでも重大なことのように証言するのです。
あることないこと、作り話まで交えて噂を大きくしながら広げていくのです。
いじめも同じ、福島の避難者に対しても同じ。

なぜ強い側につくのか。
なぜ弱いものを集団でたたくのか。
なぜ自分より弱い人を作って安心するのか。
それは自分が弱いからではないのか。

そう、みんな弱い。
たたかれれば痛いし、仲間外れは怖い。
相手も自分も弱い。
強そうな集団に入って強くなったような気分になっても、強くはなれません。
徒党を組みたがるのが弱い証拠です。
みんな弱いことを認めてしまえば強がる必要はありません。

もっと想像力を働かせたらいい。
ひとの噂を鵜吞みにせず、自分で考えてみたらいい。
苦しんでいる人が、話ができる相手なら話を聞いてみたらいい。
傍に寄り添って話をするまで待ってみたらいいでしょう。
自分だって同じ苦しみを味わう場合もあるのですから。
自分が寄り添って欲しいと思う人は、きっとその人もあなたに寄り添って欲しいと思う人に違いありません。

世の中には、笑いながら泣いている人もいるのです。
中島みゆきは歌っています。
「たやすく涙を流せるならば  たやすく痛みもわかるだろう  けれども人には  笑顔のままで泣いてる時もある」。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


©遠藤浩信 エンドーフォト

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ114

2017年07月02日 04時59分42秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

7月2日日曜日。7月になりました。

先日、栃木県宗侶研修会、山形曹洞宗青年会研修会と講演を依頼されてお話させていただきました。
還暦を過ぎて、少し遠慮なく、これまで遠慮していたのかという話は置いといて、話をさせていただきました。
どんな話をしたのかというのを語ってみたいと思います。

我々、自分を証明する書類の職業欄に「僧侶」と書く方が多いと思いますが、僧侶は職業なのかという話から始めました。
僧侶は言わば「出家」で、出家とは「出世間」のこと、つまり、世間世俗から離れて生きる人のことです。
東南アジアなどに伝わった南伝仏教、テラワーダと呼ばれる仏教の和尚さん方は、昼過ぎに固形物を口にしない、女性に触れない、お酒を飲まないなど、227の戒律を守りながら生活しています。
タイのお坊さんには選挙権も被選挙権もありません。
世俗の生活とは違う、別の生き方をするので「出家」と言われる所以です。
一方日本の仏教は、北方伝教、大乗仏教と呼ばれるもので、戒律に縛られていては衆生を救うことができないという理由で、戒律を減らし、大乗菩薩戒の「十重禁戒四十八軽戒」に限定しました。
曹洞宗は「十六条戒」としています。
しかし、それさえも守れているか、はなはだ疑問です。
結婚をし、お酒を飲み、亀虫を殺すこともあります。
在家の身なりをして、生活スタイルは何ら在家と変わりがありません。
これではたして出家と呼べるのか。
しかし我々は、寺に暮らし、頭を丸め、法衣を身にまとってお経を読んだりします。
出家とは言いがたいが「僧職」と言うことはできると思います。
僧職としてプロであるならば、もっとプロ意識を持つ必要があるはずです。

岩手正法寺の住職になられた盛田正孝老師が、ある研修会で次のように話されました。
「書く、読む、話す、がしっかりできていればお坊さんとしてそれほど問題はないでしょう」と。
位牌や塔婆を筆で書くこと。お経の読み方。法話。
この3つのどれか一つではなく、3つが共にできていればということでしょう。
「私は筆が苦手で」とか「お経は大丈夫だけど話はできない」という方がいます。
苦手ならばなぜできるように努力をしないのか。
位牌や塔婆は仏として檀家が拝むものであり、お経の読み声で心が洗われたと感じたりありがたいと感じたりするもので、あだやおろそかにできるものではありません。
法話は、檀家を信者にする大事なツールです。工夫努力が必要です。

プロと呼ばれる人々は、スポーツ選手でも、芸人でも、技術者でも、みんな努力をし続けているでしょう。努力し続けることがプロの証と言ってもいいでしょう。
よもや、少しばかり道場で修行したからといって、それでもう努力はしたんだなどと思っているわけではないですよね。
それだけで一生生きていけるほど社会は甘くありません。
また、寺院伽藍を預かる立場としては、檀家信者を増やす、少なくとも減らさないための、いわば企業努力をしなければならないわけで、檀家があるからと努力もしないで、寺を自宅みたいに私物化してはならないと強く思います。
お寺は生きているうちに来るところ。行きたくなるようなお寺にするのが住職の務めでしょう。

というようなことを話し、後半、法話の実演の話をしました。
先日電話があり、話を聞いてくれた青年僧の一人が、もう少し話を聞きたいと訪ねて来ることになりました。
学びたいと感じてくれたのはうれしいことです。
まあ、最近偉そうに話をすることが多いように自分で感じますが、許してもらいましょう。
だって、還暦だもの。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



遠藤浩信 エンドーフォト