三ちゃんのサンデーサンライズ。第474回。令和6年6月30日、日曜日。
今年も早や半年が過ぎようとしています。
私の最も業務多端な季節の一山も間もなく終わります。何とか体力ももちそうです。
後は11月までのんびりした日々が送れそうです。
『獺祭』は酒の名前で有名になりましたが、その意味をご存じの方も多いと思います。
獺(カワウソ)は獲った魚を岸に並べる習性があって、それがお供えしているように見えることからその名前が生まれ、詩人や学者が枕元に書物を並べている様子を「獺祭」と呼ぶようになりました。
正岡子規も自らの号の一つとして使っていたようです。
今私の机もしばらく前から獺祭状態で、明日から始まる布教師養成所の準備で参考の書物を積み上げていました。
付け焼刃は否めませんが、少しでも切れ味を良くしようとあれもこれもと渉猟してきました。
それとは関係なく、新聞の書評を見て思わず買ってしまった本もあります。
木村聡著『満腹の惑星 誰が飯にありつけるのか』(弦書房)。
難民キャンプ、内戦の国、ゴミの町、世界各地の問題を抱える場所で、現地の人々と同じ「ご馳走」を食べてきたフードドキュメンタリー。
「空腹と満腹の間を漂い、胃袋で発見する未知の天体の数々」。
「おふくろの味」についてこんな記述がありました。
「生まれたばかりの無垢は100%他人から与えられる食に依存しなければならない。その食の提供者であり、最大の庇護者である”おふくろ”の存在は命を保つ前提であり、”おふくろ”に食べさせられるものからは無条件に安心、安堵していいというメッセージを受け取っている、はずだ。だから無垢たちはその味を心地よい=「美味い」と認識し、成長し、今度はその”おふくろの味”によって刷り込まれた「美味い」を使って、脳と舌は知りうる安全な食にありつこうとする。人は生きるために「美味い」を追い求める。」
なるほど、「美味い」は安全に命を保つためのリトマス試験紙だったのだ。
それだけを知れば、あえて食の冒険をしなくてもいいと知りました。
もう一つ、布教師の先輩から「この本読んだか」と尋ねられ、まだと答えるとすぐに送ってくれました。
南直哉著『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)。
実に面白い。
『正法眼蔵全新講』はなかなか読み進みませんがこういうのであればすぐに読めますね。
「仏教が手を伸ばそうとするのは、苦しくて切なくて悲しい思いをしている人たちで、その人たちのためだけに、仏教はある」。
「ためだけにある」とズバッと言い切られると気持ちがいいですね。
私が今年度布教師養成所で学ぼうとしていることもそれに近く、「この混沌とした社会に仏教は役に立つのか」を学びのテーマにしています。
さっさと読んで片付ければいいのですが途中で次のに手を伸ばすものだから、読み止し読み止しで獺祭の魚はまた一つ積み上がるのでした。
何度か経験していることですが、「そうかこの本を読もうと思ったのは今の自分に必要だからだったんだ」と感じることがあります。
本ばかりではなく、出会う人、出会う言葉、情報、あるいは出来事など、今の自分に足りないもの、それが必要だからこその出会いだったんだという気づきです。
そう考えれば、その時の出会いは必然だったと受け止めることができます。
以前自然農法の本で「土は植物や土の中の生物が死ぬことでできる、その土壌に足りない養分を補うために必要な草が生えて土壌を調える、自然はそのようにできている」というような記述を読んだ記憶があります。
うれしい出会いもうれしくない出会いも、今の自分のために必要だったからとすれば、全ての出会いをありがたく受け止めることができるでしょう。
今その時にはそのように受け止めることができなくとも、やがて振返ってみてそうだったと考えることもできるかもしれません。
あるいは、そう受け止められるような生き方をする以外にないということかもしれません。
ですから、全てを縁に任せて、求めなくてもやって来る出会いに真っすぐ向き合えばいいのだと思います。
それは、あなたに必要なことなのです。
今週の一言。
「それは必要だからだ」
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。