なあむ

やどかり和尚の考えたこと

体温の不思議

2015年01月28日 06時50分41秒 | ふと、考えた
この世の中の物質は、4つの要素が縁によってくっついたり離れたりして成り立っている、というのが仏教の考え方だ。
4つとは「地」「水」「火」「風」で、これを「四大」と呼ぶ。それが「仮和合(けわごう)」つまり、因縁という接着剤で、仮に集まったものが形となっている、と。
人間の体も仮和合の形で、骨格(地―堅さ)、体液(水―湿り気)、体温(火―熱)、呼吸(風―動き)が集まったもの。
そのバランスがくずれた様子を「四大不調」といい、病気であることを指す。因みに因縁がほどけて和合が解消されたことを「四大遠離」といって死亡を表す。
元々、4つの要素にはそれぞれに主体はなく―「空」、それが集まってくっついているのは全て因縁による。その姿を表しているのが四大に「空」を加えた「五大」で、それを形で現したのが「五輪塔」、それがお釈迦様の遺骨を納めた舎利塔―ストゥーパで、それが卒塔婆になり塔婆となった。
それはどうでもいいのだがついつい書いてしまった。
で、不思議だなと思ったのは、熱―体温のこと。
人間の体温は、ほとんど35~37度の3度内にあるだろう。その外は病気と判断されるだろう。
しかし、人間の生活する外気は、それこそマイナス40度~プラス40度ぐらいの100度差の中にある。
たとえば、冬に雪国から東南アジアなどの熱帯地域に旅行した場合、マイナス10度の世界からプラス40度の世界へと、一気に50度差を体験することもある。もちろん途中で暖房や冷房を駆使するわけだが。しかし、その移動の間にも、体温は3度内に維持されているというのはすごいことではないだろうか。どのようにして体温を維持させているのだろうか、ということ。
まず高温に関しては、体温よりわずかに高いだけなので(50度にも達する国や地域もあるが)大概は汗によって水冷?あるいは空冷していることが分かる。犬は舌を出して放熱しているらしい。
問題は寒い中で体温を上げる方法だ。
体全体の体温を上げているのは血液であろう。体の隅々まで行きわたって体温を維持していることは分かる。
凍えていた指先が温まってくるのは血が通っているからだろう。
では、指先を温めて温度が下がった血液をまた温め直すのはどこだろう。
心臓か。では心臓を温めているのは何か。血液。血液を温めるものは。加熱器はどこにある。
筋肉を運動させると熱を発する。体を動かせば温かくなるのは実感できる。
ということは、心臓自体が運動して熱を作っているのか、あるいは、体全体の細胞が動いて静脈を温めているのか。
そしてそれを管理する温度センサー。生命というDNAのシステムなのだろう。
熱―体温というのは実に不思議だと思うのだが。
それらは全て因縁のなせる業。「自分」などという主体はどこにもない、というのだが。

ここまで休場の松林山について

2015年01月26日 09時05分40秒 | ふと、考えた
大相撲初場所は白鵬の全勝で史上最多優勝という華々しい結果で終わりました。あまりおもしろみはありませんが。
一方、ご当地赤倉場所では…

今日の解説は、元横綱雪ノ舞の北風親方にお願いしています。
北風さん、今場所ここまで休場の松林山についてお伺いしますが、先場所痛めた足の状態が思わしくないようですね。
北:先場所、4日目にころんだ時に痛めたふくらはぎ断裂の影響があるみたいですよ。
三:治療とリハビリも続けてはいるようなのですが、何だか膝に痛みがあるようで大事をとっているということでしょうか。
北:無理をして悪化したらいかんということかもしれませんがね。稽古して治すような気構えがないとだめでしょう。まあ、とにかく普段の稽古が足りませんからね松林山は。普段からしっかりと稽古をつんでいれば、たとえ怪我をしたとしても治りも早いんですよ。それが、足腰を鍛えずに上半身だけで何とかしようとするからね、こういうことになるんですよ。
三:以前はよく土俵に上がり、荒削りながらなかなかいい形にもなってきたように見えたのですが。
北:そうですね。誰から教わったわけではないのに、努力して自分なりの形をね、作り上げてきたかと期待をしていたんですが。やはり基本をキチンと指導してもらわないといけないですかね。
三:先場所は本当に久しぶりに本場所復帰を果たして、これからもう一花咲かせようかと楽しみにしていたのですが。残念な結果となってしまいました。先場所は少し体も絞って引き締まって見えたのですが、体重もまた元に戻ったようです。
北:肌にツヤがないし、精気が感じられませんね。内臓の方も良くないんでしょ。
三:ええ、持病の痛風と高血圧がありますからね。本人も「若いころの不摂生がたたっている」と認めています。
北:若いころはね、先のことなど考えずに無茶することもありますがね。それが度を過ぎると後から痛い目にあうのは自分なんですから、若い人にはその辺も考えて、ほどほどにして稽古に励んでもらいたいと思いますね。私らもね、若いころはずいぶん無茶をしたもんですよ。だけどね、その次の日などもいつも通りに朝起きて、知らん顔して前の晩の無茶を帳消しにするぐらいにね、なお一層稽古したもんですよ。
三:そうですか。耳の痛い若い人もいるかもしれませんが、松林山もまだまだこれからですから頑張ってもらいたいと思います。
北:まだ引退という年ではないでしょ、また来場所しっかりと体を治して土俵に上がってもらいたいですね。
三:期待しましょう。ここまでの実況は三瓶でした。それでは赤倉温泉スキー場から失礼します。

味覚の変化

2015年01月25日 20時55分57秒 | ふと、考えた
味覚というものは年齢と共に変化するものらしい。以前にも書いたような気もするが。
永平寺に修行に行く前までは、甘いものなど見るのも嫌だった。
饅頭だとか羊羹だとか。およそ人間の食べ物とは考えられなかった。
それが何と不思議なことに、あの精神的な極限状態におかれると、なぜか無性にというよりも、命の底から必要とするように食べたくなることを自分でも信じられなかった。
饅頭によだれが出て、羊羹に涙するような経験だった。
もっとも、それ以外の食べ物全部に食べたい欲求はあったので、その一部とも言えるが、それまで眼中になかった甘いものまで食べたくなることに驚いたのかもしれない。
その後、永平寺にも慣れてくると次第に甘いものの欲求は薄れて、娑婆に戻った頃には元通り見向きもしなくなった。
ビールだとか、レバ刺しだとか、痛風の直接的な原因をひたすら求めていた。
それなのに、不思議でしかたない。
いつから甘いものがおいしいと思えるようになったのだろう。
年齢的には五十を過ぎてから、体よりも頭の労働が多くなってからのような気もする。
お茶菓子にロールケーキやどら焼きなどが添えられれば、心から食べたいと思う。時には口中に唾液が泌み出す。もちろん食べる。
高校生の頃、叔母が「ご飯食べた後甘いものを食べると胸がスーッとするのよね」という言葉を気味が悪いような思いで聞いていたが、今なら分かるような気がする。
年をとるとなぜ甘いものが欲しくなるのか。私には分からない。
肉の摂取量も減ったことは確かだ。体の欲求?
甘いものは何に必要?
今日も退屈なので、屋根から落ちた雪の片付けをしていたが、途中から低血糖の症状となり、糖分が必要となった。イチゴのお菓子を食べ、バナナを1本頬張ってようやく落ち着いた。なのに、予備として堅くなった饅頭をレンジで温めてポケットに押し込んで雪かきに戻った。少し動いてから雪の上で食べる饅頭は何とおいしかったことか。
お陰様で糖尿の心配はないので気兼ねなく食べている。
糖尿も高血圧も体質の問題らしく、痛風も血統だからしょうがない、自分のせいではないと、責任をDNAに押しつけて何の反省もない。
食べたいものを食べないで少し長生きするのが幸せなのか、食べたいものを好きなだけ食べて少し短く生きるのが幸せなのか、私には、分からない。

どうしてだろう

2015年01月24日 22時01分51秒 | ふと、考えた
どうしてだろう。
暇な時は何もできない。
寺の用事もなく、このところ雪も降らず、出かける用事もない。
雪でも降れば何だかんだ言っても「すること」があって達成感もある。
スポーツもおもしろい期待はどれも早々に敗れてしまって見るテレビもない。
予定表が真っ白な日は、それこそまとまってすべきことができそうなのに、これということもなく、ボンヤリと、ネット麻雀などに時間を費やし、眼が疲れたの、肩がこったの言いながら、何にもならない時を潰している。
予定が詰まっている時は、あれもしなければこれもしなければとわずかな時間を見つけてやるべきこと、したいことができるのに。
そういえば、中学生の頃から、テスト前になると部屋を片付けたり、プラモデルを作ったり暇な時はやらないことをしていた。
それは、自分だけの傾向ではなく、多くの人が経験のある事柄なのだろうか。
なぜなのだろう。
学生の頃、自己嫌悪に陥るのは暇だからだと気づき、自分の予定表がビッシリと埋まるように何でもかんでも予定を入れて、真っ黒になった手帳を見てそれだけで安心していた。
これでまだ仕事も現役だからいいものの、次々仕事が減ってきたら、どうやって時間を過ごすのだろう。のんきにゆったり過ごせばいい。などというのは自分にはできないように思える。
結局、何にもならない時間を無為に過ごし、体を壊し、自己嫌悪に陥り、周囲に毒をまき散らし、嫌な老人になってしまうのではないか。
そうか、それでそうゆう男性老人が多いのか。男は時間の使い方が下手なのか。仕事と暇な時では違うのか。
仕事をこなすためには必要な能力が、暇な時にはマイナスに作用するのか。
退職した男性が家にいても何もすることがないので、外出する奥さんに自分を連れて行けという症状を「連れてけ症候群」と呼ぶと聞いた。
男は仕事をするためだけに生きているのか。
何と寂しいではないか。悲しいではないか。
世の女性陣よ、男を使い捨てしないでいただきたい。
世の男どもよ、何もすることがないことに慣れていこう。何もしなくても迎えが来るまで生きればいいのだ。結果を出そうなどと思うな。その場を無為にやり過ごせばそれでいいのだ。
男らしくない?結構じゃないか。男のままでは生きづらいのだから。
せめて雪でも降ってくれれば。

ナンかなあ

2015年01月10日 21時23分55秒 | 家族模様
数えてみると、今年は結婚30周年を迎えるらしい。
へーそんなになるのかーという感じ。
いろいろありましたが、今さら別れるとか出て行くとかという感じではないし。
これまでのように、何とか折り合いをつけて添っていくしかないでしょう。
「あんた、結婚式の日にち覚えていないだろう」というと、「それが何か必要なわけ?逆に」と斬り返される始末。
確かに、これまで結婚式の期日の記入を求められたことはない。
そうか、社会的には必要のないことなんだ。
しかし、ナンかなあ。
25周年のときも、記念の旅行でもといいながら、結局は何ということはなかった。
今年はどこかへという話になった時、「あなたも30周年記念旅行に参加したい?」とのこと。
そういうのって、夫婦二人で出かけるものではないのか?
娘とでも出かけるつもりなのか。
ナンかなあ。
「あんたはブログのネタを提供してくれるね」というと、「書くことがないからって絶対書かないで」とのことなので、フェイスブックには連動させません。
これを読んだ人は、他言無用にて。どうしても書きたかったもので。

何を以て好きなのか

2015年01月08日 21時27分36秒 | ふと、考えた
好きな人と嫌いな人がいる。
何を以て人は人を好きになり、嫌いになるのだろう。
顔が嫌い、声が嫌い、話し方が嫌い、態度が嫌い、匂いが嫌い。
嫌いな要素はいくらでもありそうだ。
何を以て好きなのか。
顔か、声か、匂いか。
人は、特に子どもは母親が好きだろう。父親も少し好きかもしれない。
では、なぜ母親が好きなのか。
顔か?母親の顔がきれいだから好きなのか?そうではないだろう。
世の中、きれいな顔の母親ばかりではない。半分はきたない、いやいや普通の顔だろう。
どんな顔であれ、子どもにとって母親は世界で一番きれいに見えるかもしれない。
それは美醜ではない。
声か、これも子どもにとって母親の声が最もいい声に聞こえるに違いない。
人間にとって、いやいや全ての命にとって、自分以外の存在を心から好きになるのは、美醜やアイテムによってではないだろう。
自分の最も必要とする、自分にとって最も安全な存在を、心から愛し、全てが美しく見えるようにできているに違いない。
ということは、嫌いな人というのは、自分にとって必要ではない、安全を脅かす存在なのか。
しかし、我々には、当初嫌いと感じていた人が、あるきっかけで好きになる、ということもある。
それは、危険だと警戒していた人間が、よく知ってみると危険ではなかったというようなことかもしれない。
だとすれば、それは単によく知らなかっただけ、とも言えるだろう。意外とこれが多いのかもしれない。
悲しいのは、あれほど大事な存在だった母親が、自らの成長とともに、うっとうしくなったり、嫌いなところが次々増えてくることだろう。
必要な存在ではなくなったということか。
全ての人を好きになれればいい、などと考えたこともあったが、それは難しいことであるし、ある程度の年齢に達すると、その必要もないのかと思う。
好きな人を増やさないで、嫌いの人も増やさない方がいいのではないか。
今嫌いだと思っている人も、自分がその人のことを知らないだけかもしれない。
かといって、無理に知ろうと近づく必要もないように思う。
嫌いを増やさないために、近づかないこともあっていいのではないか。
元々友だちが少ないが、増やそうとも思わない。
その一方で、気の合う存在は、友だちを通り越して親戚、兄弟にまで近づく傾向にある。
広く浅くではなく、深く濃くというつながりを求めているようだ。
その存在は、顔がどうの声がどうの、話し方も態度も、匂いも、全く気にならなくなる。
ああ、自分にはこの人が必要なんだ。