なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ217 供養とやさしさの関係調査

2019年06月30日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第217回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

6月30日、日曜日。

お線香のトップメーカー日本香道が実施した興味ある調査結果を眼にしました。
教育評論家尾木ママこと尾木直樹さんは、長年いじめ問題を研究する中から「供養行為とやさしさ」には関係性があるはずという仮説を持っていました。
それを実証するため、日本香道が尾木さんの指導監修の下、調査を実施したものです。
全国の中学生と高校生1236人を対象にして2015年8月に実施されました。
その内容は次のようなものです。
まず、中高生の墓参りと仏壇参りについて
少なくとも年に1回は墓参りをするという割合は65%だった。
次に仏壇参りについて
家に仏壇があるのは25%。その中で毎日仏壇に手を合わせる割合と家に仏壇はないけれど祖父母の家に行ったときに毎回仏壇に手を合わせるという割合の合計は41%で、時々するの37%、しないの21%よりも多かった。
一方、心の問題
他人に対するやさしさの尺度としてコンパッションという概念があるようですが、日本語では「やさしさ」や「おもいやり」にあたる言葉のようです。
それを測る方法として、以下のような質問をします。
「誰かがその人の悩みについて話すとき、『そんなの知らないよ』と感じる」か。
それに対して、「そうではない」「どちらかといえばそうではない」「どちらでもない」「どちらかというとそうである」「そうである」から選んでもらうという方法です。
それらの質問が16項目あります。
そして、墓、仏壇参りの集計とコンパッションの集計をクロスすると次のような結果となりました。
「誰かがその人の悩みについて話すとき、『そんなの知らないよ』と感じる」という質問で、お墓参りを年1回以上する子どもの54.1%が「そうではない」「どちらかといえばそうではない」と回答。お墓参りを年1回もしない子どもは44.6%で9.5ポイントの差だった。
同じ質問について、仏壇に「毎回手を合わせる」子どもが56.6%で「手を合わせない」子どもが43.9%、その差は12.7ポイントだった。
「誰かが困っている時、私はその人のためにそばにいたい」という質問では、毎回仏壇に手を合わせる子どもの45.6%が「そうである」「どちらかといえばそうである」と回答したのに対して、仏壇に手を合わせない子どもは33.2%で12.4ポイントの差がついた。

この結果について尾木直樹さんは、
「統計学的にみて、お墓参りや仏壇に手を合わせる行為の頻度と、コンパッションの高低には有意差があることが確認できた」
「仏壇に手を合わせるという行為を通じて、他者への理解・共感が内面化されている可能性が高い」
「教科書や『徳目』的な道徳教育よりも、具体的に祈る行為の力の方が、確実に子どもたちのなかにコンパッションを醸成し高めることを暗示しているのではないか」
と述べています。
この調査は、いじめの心の問題とお墓や仏壇への供養の行為との関係性という視点から調査された結果ですが、罪を犯した人とその家庭の仏壇の有無の関係性もこれと類似しているのではないかと想像されました。
「やさしさ」や「おもいやり」の心は、お墓や仏壇に手を合わせ「祈る」という行為と密接に関係しているようです。
祖父母との非同居や集合住宅、戸建ての場合の間取りの関係から、日本の家庭から仏壇が減り続けている状況があり、それが子どものいじめ問題や反社会的行動、犯罪に影響を及ぼしているのだとしたら、今まさにその流れの中枢にいる世代の我々が、真剣に考えなければならない問題だと思います。
住宅を便利さやデザインだけで選択するのではなく、家庭教育の場、命の教育の場として捉えなおさなければならないことだと言えます。
日本には、住環境も含めて日本人の精神構造を培ってきた文化や習慣があるのですから、変革するにもその意味を理解したうえで行うべきだと考えます。
この話題の関連で、脳科学者中野信子の『脳科学からみた「祈り」』を読みました。こちらも非常に興味深い内容でした。こちらについては次回にでもご紹介します。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンサンラジオ216 地震と霊感

2019年06月23日 04時57分46秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第216回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

6月23日、日曜日。

「山形沖地震」という名前のために、各地の方からご心配いただきましたが、震度は新潟県村上市の方が大きかったようで、最上町は震度4で町全体でも被害はなかったようです。
その時茨城にいて何が起こっているのかも分からず、LINEで「大丈夫ですか?」と尋ねられても「何が?」という状態でした。
いわゆるSNSの特長でしょうか、気軽に安否確認ができるようです。
あの時間、夜の10時半頃、電話であれば「こんな時間だから迷惑かな」などと考えたりもするでしょうが、SNSの場合はそのハードルは低いようです。夜中までもピンポンピンポンと鳴っていました。
鳴れば見ますし、心配いただけば返事もします。
現場の状態が分からないまま返事をするので隔靴掻痒の心持ちでした。
実はその晩はさんざんな夜だったのです。

地震が起きる前のこと。
その晩は茨城県内のとある旅館に泊めていただきました。
その夜はご接待も何もなかったので、こんな日は早く寝るに限ると7時には布団に入りました。
すぐに眠りにつけるのは特技です。
自分で「枕知らず」と名づけていますが、頭が枕に着いたのも知らぬ間に眠るような感じです。
ところが、寝入ってから嫌な感じがあって、部屋の中で人の気配がするのです。
他に誰もいない1人部屋の畳を歩く音がして、頭の上の方でもぞもぞと動く気配がします。
目を覚まそうとしても体が動きません。
そのうちに寝ている隣で布団をかぶってうずくまる気配がして、足で蹴ろうかと思いましたが足がうまく動きません。
これは何か変だと目を覚ますと背筋が寒くなってきました。
霊感のようなものとは全く無縁で来ましたから、こんな経験はこれまでありませんでした。
でも目を覚ましてみると、このままでは眠れないと思いフロントに電話しました「部屋に誰かいるんです」。
フロントでは思いの外すんなりと理解してくれて、別の部屋を準備してくれました。
そんなに簡単に理解してくれたのは前例があるからなのか、だから和尚をその部屋に充てたのかと勘繰って聞いてみましたが、どうもはっきりしませんでした。
その後、別件でやなせななさんとメールでやりとりしていて、その話をすると、「私も経験ありますよ」とのこと。
幽霊の団体さんが出たこともあるという話で、「その時は袈裟を掛けて寝た」と聞いて、あーその手があったかとうなづいてしまいました。
ただ、明日のためには寝ておかなければなりませんし、部屋をかえていただいた後だったので、その後もそんな感じになったらそうしようと。でもその場合は、部屋の問題ではなく自分自身に何か起こっているのだろうと思いながらうとうと始めました。
その直後に地震の心配メールが来たのでした。

ということで、その晩は早く寝るつもりが遅くまで眠られず。結局寝不足を引きずってしまいました。
あれが何だったのか、霊感のようなものが働いたのか、私には分かりません。
地震との関係もないでしょう。
でも、背筋が寒くなるという感じはあまりいいものではありませんでした。
その部屋はそのままでよかったのか、除霊しなくてもよかったのか。など言われても、霊感もない人が除霊できるはずもなく、私の役割ではありませんからどうにもなりません。
霊感などなくても結構です。要りません。夜はたっぷり寝たいです。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ215 会津 茨城 蓮

2019年06月16日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第215回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

6月16日、日曜日。

先月に続き、また風邪をひいてしまいました。
風邪などバカがひくものではないと、ほとんど縁がなかったのですが、寒暖の差が激しく、また、やはり体が疲れていて免疫力が低下しているのでしょうか、人並みにひいてしまいました。
熱があるわけでもなく、鼻水やくしゃみ程度なのですが、頭がボーっとして回転しません。文章を考えたりするのに非常に時間がかかります。
やらなけりゃならないことも色々あるのですが、ついつい眠ってしまいます。

12・13日と会津に行ってきました。
「おだやかな革命」最上町上映の実行委員会が最上町エネルギー研究会として活動を始めました。
そのメンバー6名で、会津電力を立ちあげた喜多方の佐藤彌右衛門さんと会津電力さんの話を聞きに訪ねたのでした。
彌右衛門さんには上映会後の懇親会で「最上電力をつくれ」と発破をかけられていました。
それに触発されたメンバーも多く、更に強い刺激をいただくために出向いたという形です。
とてもいい勉強になりました。具体的な示唆が色々ありました。
何から始めようかと、第一歩を模索しています。

さて、今日はこれから葬儀があり、その後茨城に向かいます。
6日間の予定で特派布教巡回です。
昨日納棺の際に隣人の方にその話をすると、「また説教か、どっちが本業なんだ」と言われました。寺の役員で、元々ズバズバ言う人ですからそれほど気にしていませんが、いざという時に寺にいない住職は責められます。もちろん「どっちも本業です」と答えました。
布教ばかりでなく、ボランティア団体の用事も、集中講座も、私にとっては和尚としての私の務めであり、どちらが本業でどちらが副業ということはありません。
ただ、檀家からみれば「檀家の務めを果たさず外にばかり行っている、どっちが大事なんだ」という意味でのお叱りであることは承知しています。
まあね、それはその通りなのですけど、かといって、毎日寺にじっとして不幸の連絡が来るのを待っているというのはいかがなものか。少なくとも私にはできません。
なるべく留守中に用事がないことを祈るばかりです。

昨日の朝、「蓮植えっから来い」と電話がありました。
地元のおやじたちが、線路のわきの田んぼを稲をやめて蓮畑にするという計画を練っていることは聞いていました。
農水省の農地・水保全管理交付金を使っての事業です。
寺のすぐそばの田んぼなので「お前も協力しろ」と声をかけられていました。要するに終わってからの酒を提供しろという意味の協力依頼です。
で、いよいよ始めるので来て見ろ、との連絡です。
残念ながら風邪で寝込んでいたのでお断りしました。
それでも気になって昼近くに出かけてみると、作業は既に終了しており、泥の中に蓮の葉が揺れていました。
蓮の華は、澄んだ水の中ではなく、泥の中から出て清らかな華を咲かせるところから、娑婆の苦しみの世界から生まれ出る仏になぞらえて、古くから仏の華として珍重されてきました。
お寺のすぐ近く、お墓のそばであればまさにおあつらえ向きです。
お盆のお墓参りに咲いていれば、ご先祖も檀家も喜ぶことでしょう。
おやじたちもなかなか粋なことを考えるものです。
ゆくゆくはさらに拡張して、もっとお寺のそばまで広げる計画だとか。
酒ぐらい惜しみなく協力しようじゃないですか。
うまく行ったら蓮見酒でも飲みたいものです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。





サンサンラジオ214 命を燃やし、命を輝かせ 

2019年06月09日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第214回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

6月9日、日曜日。

先週の興奮がまだ冷めやらず続いています。
あの後、3日月曜日には瀬見温泉で山形県商工会女性部の研修会で講演があり、次の4日は東京でシャンティの理事会、引き続きシャンティ各国事務所のスタッフ研修会で静岡御殿場へ。昨日は松林寺の大般若会と用事が続き、疲れが取れない1週間でした。

しかし、14回目の集中講座はこれまで以上に充実した内容となりました。
入場者数が245名、出演者、音響、スタッフと家族も加えると297名が一堂に会したことになります。
集中講座史上最大の数となりました。
前売り券の売れ行きが良く、電話予約も次々と入ってくるので、本堂に何人入るのか座布団を並べ椅子を並べて数を計算したり、心配したりして準備を進めました。
最終的には風呂場で使っていた介護椅子も使ったりして何とかなりましたね。
内容的にも素晴らしかった。
丸ごとやなせななという内容で、オープニングのステージ衣装、法話の際の法衣、そしてラストのステージではドレスで中島みゆきをカバーするという、いろんなやなせななを見られた、ファンにとってはたまらないライブとになりました。
映画の上映も、光量やスクリーンのサイズなど心配しましたが何とかなったようです。
縁ある最上町の方々とのヴァイオリンと合唱の共演もあり楽しめたと思います。

そして落語家六華亭遊花師匠の口演。まくらのおばあちゃんネタがツボにはまり、爆笑の渦となったのでなかなか抜け出せず、落語は短めの一席になってしまいましたが、思いっきり笑わせてもらったので皆さん満足したと思います。
方言言葉が近いというのは大きいですね。普通の会話だけでも笑いになります。ましてや自分にも経験のある話題であればツボにはまるのも必然です。
遊花師匠にはまた是非においでいただきたいと思います。

間に落語を挟んだので、コンサートがよけいに締まったというか盛り上がったと思います。
いろいろな要素があり変化があって、4時間という長丁場もあっという間に過ぎました。
準備の狙い以上の成果となりました。
それはスタッフの思いも同じで、いつも以上に気を遣った駐車場係、会場の人数確保と場面転換に苦労した会場係、1席も無駄なく客席を案内した会場誘導係、その他、受付会計、楽屋対応、門前市、司会、FM担当、記録係等々、それぞれの役割分担に責任をもって的確に応えてくれました。
ですから、打ち上げが盛り上がらないはずがありません。
自分が頑張った分、成功の喜びを共有したくなるものです。
美味しいお酒も海の幸も集まってきて、興奮した体に染みわたり、脳みそをすぐにマヒさせてくれました。
旨い酒と肴は幸せにしてくれます。さらに歌があれば完璧です。
最新のカラオケセットをレンタルしてプロジェクターも用意しました。
賑やかだったと思います。途中からどうなったのか覚えていません。
ここでは言えないことも出来したようです。

毎回言うことですが、集中講座はスタッフがいなければできません。住職や家族、数人の手伝い人ではとてもとてもできることではないのです。
今年も40名のスタッフが動いてくれました。
このスタッフに喜んでもらい、また来年来たいと思ってもらうのが住職の役割だと思っています。だから一生懸命準備もします。お金も使います。
できることはできる限りやりたいのです。
命を燃やし、命を輝かせ、この命を精いっぱい使っていきたいのです。使い切りたいのです。
人生の時間をすべて自分の時間として向き合うことで充実した人生となるでしょう。
そう、ある意味命を懸けていますね。それが楽しくてしかたない。
ただ、時間の短縮と経費削減の理由で、来年から法話は自分で務めることにする予定です。
「法・楽・笑」の基本は変えずに実施します。来年も楽しみに。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『一期一会』。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ213 喜びとは施すこと

2019年06月02日 04時36分10秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第213回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

6月2日、日曜日。
さてさて、今日は待ちに待った第14回松林寺集中講座です。
色々考えながら準備するのが一番楽しいですね。
前回よりも少しでもいい方法がないか、改善することはないか、シミュレーションしながらアイデアを絞るのがこよなく好きです。
14年間で少しずつバージョンアップしてきました。
ですから、毎回がそれまでの最高の準備体制です。
今回は特に入場者がとても多くなりそうで、本堂に240席を準備しましたがそれでも入り切れるか心配しながら今日を迎えました。
新聞にも記事が出ましたし、やなせななさん自身がラジオなどで広報してくれたためだと思います。電話予約だけで45名を超えました。
駐車場の準備もこれまで以上の体制を考えています。
いやあどうなるでしょうか。
打ち上げで思いっきり爆発することを楽しみにしています。
始めた以上できなくなるまでやるつもりでいますが、それがいつかは私自身にも分からないことです。

人生は実に短い。
明日消えても不思議ではない命を今日生きています。
だから、楽しめるうちは楽しむべきだと思っています。
人生を楽しむとは何か。それは誰かと喜びを共感すること分け合うことだと言えるでしょう。
分け合うということは、言葉通り、一方的に相手からもらうということではなく、自分からも出し合いそれを共有することです。
自分のものを与えられない人は、当然分け合うことができません。
喜びとは実は施すことだと言ってもいいと思います。
自分が持っているもの、智慧、知識、技術、能力、体力、経験、資金、言葉、笑顔、慈悲心。
施せるものを持っていることも幸せなことです。
短い人生の中で、どれだけ施せるか。施した分だけ幸せを感じられるように思います。
突然人生の最期が訪れたとき、手にするものがもっと欲しかった悔しさよりも、施せるものを施すことができなかったことの方が悔しいと思いませんか?
裸で生まれて裸で死んでいくだけです。
何も持たずに生まれてきたのですから、何も持たずに立ち去るしかありません。
生きてきた中で手にしてきたすべてのものを出し切って裸で死ねたら幸せだと思います。
手放したくないとしがみつく心が怖れとなります。

老後の貯えが心配ですか?
それはいくらあると安心なのですか?満足する金額はありますか?
ないことを心配するよりも、施そうと思って生きる方が楽だし楽しみだと思うのですが。
貯えた肉や脂肪や筋肉も次第に減っていき、それは施していくとも言え、果物や野菜が萎んでいくように、長生きすれば我々も萎んでいくだけのことです。
お金や自分の家、自己所有物、親兄弟、友達、仲間、話し相手、自分の役割、責任、居場所、できること、それらがどんどん減っていくのも自然の流れです。いただいてきたものを返していくだけのことです。怖れることはありません。
施して施して、飢え死にしようとも施して、その満足感で死んで行けたらそれが究極の幸せだと思います。

良寛さんの逸話。
ある晩、良寛さんが五合庵で寝ていると何やら人の気配。
泥棒さんか。こんなあばら寺に来ても何も盗るものもないものを。
それほどまでに困っているのか。せっかく来たのだから何も盗らずに手ぶらで帰すのもかわいそうだと、寝返りを打つ素振りをして今寝ている布団を持たせてやった。
ただ一つの煎餅布団までなくなった庵に独り坐っていると、中空に上った月がこうこうと庵を照らしている。
惜しいなあ、盗もうにも盗みようのない宝があることを盗人は知らなかったようだ。
迷いの雲を取り払えば、美しい月の光は彼の心にも宿っているのになあ、と詠んだ句が
 ぬすびとに 取り残されし 窓の月

そんな仙人みたいな生き方は無理ですか?マザーテレサのような人にはなれませんか?
無理だと思うのは常識や金銭的な価値観からで、それらを取り払ってみれば、自然の流れに任せることが最も楽な生き方なだと気づくのかもしれません。
あこがれるだけでもいいかと思います。
いずれにせよ、私は、欲の少ない人と共感できることを幸せだと感じます。
今晩は大いに喜びを分け合って幸せを共有します。分け合う喜びは二倍の喜びと言うじゃないですか。

それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『愛だけを残せ』。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。