なあむ

やどかり和尚の考えたこと

コロナを越えて 当に願わくは衆生と共に

2020年12月30日 05時26分25秒 | 布教活動
北海道えりも町の佐野俊也師からの呼びかけで7名の布教師が寄稿した『コロナを越えて 慈しみの中に光を』が刊行されました。
私も一文寄せましたのでここに転載いたします。

慈悲の社会化
 公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)は、1980年のカンボジア難民キャンプの支援活動に端を発し、以来四十年、慈悲の社会化を目指し、タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマー難民キャンプ、アフガニスタン、ミャンマー国内、ネパールへと活動地を広げてまいりました。また国内では、阪神淡路大震災をはじめとして各地の自然災害において緊急救援活動を行ってきました。
 今般、新型コロナの世界的な感染拡大に伴い、支援国の現場から緊急支援の要請を受け、ネパール、アフガニスタン、ミャンマー難民キャンプで支援を行いました。これらの地域には、手を洗うきれいな水もなく、石鹸の存在も知らない人々がいます。さらには文字を読めない大人たちも大勢います。医療体制が脆弱なネパールでは、病院や保健所に消毒液や防護服、石鹸やマスクなどの衛生用品を支援しました。アフガニスタンでは文字が読めない人々のために、感染予防の対策をイラストの看板にしたり、パンフレットにして配布しました。また、オンラインやビデオでの絵本の読み聞かせの形を試行しています。また、日本国内で十分な教育が受けられない外国人由来の子どもたちに絵本と文具の支援を行いました。
 自然災害にしろ、戦争や内紛、そして感染症においても、真っ先に深刻な被害を受けるのはほとんどの場合社会的弱者です。難民、外国人、障害者、貧困層、老人、子供、女性、非正規雇用者、一人親世帯などなど。平生の暮らしでも厳しい状況にある人々が、いざという時にさらに厳しい状況に追い込まれるというのが常です。健常で強い者が優先され、弱者が後回しにされる、あるいは置き去りにされる社会は、健全で成熟した社会とは言えません。
また、今回問題となった「自粛警察」という一般市民による監視と攻撃のように、非常事態時には誰かを踏みにじっても自らを守ろうとする利己的な行動が起こりやすいものです。
いざという時に本性が現れるという光景は、これまでの被災現場で何度も目にしてきました。僧侶も、いざという時の行動に本性が明らかになると言えるでしょう。
東日本大震災の津波で家を失った人々が高台に避難してそのまま避難所になったお寺と、避難先とならなかったお寺があります。立地条件にもよるでしょうが、そればかりでなく、常平生から行きやすいお寺とそうでないお寺、もっと言えば、信頼度と親和性があるかないかがいざという時に現れたのではないかと思いました。
被災地ではそのほかに、遺骨の安置、支援物資の集積、ボランティアの宿泊所として開放されたお寺もありました。また、読経による慰霊や傾聴活動など、行動による支援を行った僧侶もたくさんいました。
 一方、行持綿密の中で被災者に心を寄せられた僧侶もいらっしゃったでしょう。
 「守るとも思わずながら小山田のいたずらならぬかかしなりけり」と高祖様(道元禅師)が詠まれているように、只管打坐こそが人々の救いになるという姿勢も当然否定しません。被災地に思いを寄せ、歯を食いしばりながら坐禅を行じられた方、祈りを込めて朝課を勤められた方もいらっしゃったに違いありません。そういう僧侶の言葉や態度にはきっと周囲の人々を安心させる力と、生き方の示唆があっただろうと思います。
 ボランティア活動などの社会活動を、行持を綿密に行じない言い訳にしたり、自分が目立つためのパフォーマンスにしたりすることは厳に慎むべきです。
 「他を利すること多かるとも、このことのゆえに己のつとめに怠るなかれ。己の本分を覚り、そのつとめにこそ専心なれ」。(法句経166)
 私がボランティア活動にかかわっていることを知る方から尋ねられたことがあります。「三部さん、高祖様の教えとボランティア活動に矛盾を感じないのですか」。つまり、只管打坐の高祖道とボランティア活動は相容れないものではないのか、という問いだったでしょう。私も同じ思いを感じなかった訳ではありませんでした。しかし、果たしてそうなのか、高祖道というのは、深山幽谷に住して紅塵に交わらないこと、社会の苦悩から超越した世界にのみベクトルが向けられているのでしょうか。私はそうは思いません。
 ボランティアと菩薩行についてはこう思います。「ボランティア」の語源は「自発性」を意味し、徴兵(ドラフト)に対して志願兵をそう呼びました。現在では民間が共助の形で奉仕活動を行う災害などの非日常の活動をボランティアと呼ぶことが多いと思います。
 SVAの初代会長松永然道師(1935~2017)は「我々の活動は、我々のような団体がなくなるためにやっているんだ」と、よく語っておられました。つまりそれは、どんな非常事態にでもお互いが助け合い、支え合って生きていくことが当たり前の社会、ボランティアなどという特別な存在が必要のない社会になることを目指すという意味でした。
 一方菩薩行は、仏教徒としての日常の生き方で、場所や時期が限定される「特別な」行為ではありません。大乗において戒律を「菩薩戒」と呼ぶ所以です。
 しかし、人の苦しむ姿に苦悶し痛みに共感する慈悲心の発露、止むに止まれぬ思いを行動の原点とするという意味では、菩薩行もボランティア活動も同じだと言えます。

二人の先達
衆生の苦悩と共に生きた二方の先達の話をさせていただきます。
 その一人は、1979~80年を中心に、カンボジア難民キャンプで救援活動を行ったカンボジア僧侶マハ・ゴサナンダ師(1929~2007)です。
師は、カンボジア側からタイ側に逃れようとジャングルをさまよい飢えや病で倒れた人々を、トラックに乗せ難民キャンプまで運ぶという活動を行っていました。それを遠巻きに見ていた上座部の僧侶たちから「難民には男性もいるが女性もいるだろう。あなたはトラックに乗せる時女性に触れたのか。それは破戒ではないのか」と問われました。
ゴサナンダ師は微笑みをもってこう答えます「確かに女性にも触れました。それは破戒に違いありません。しかし、ここに釈尊がいらっしゃったらきっと同じことをされたのではないでしょうか。少なくとも目をつぶってくれたに違いないと思います」と。
師は、カンボジアの平和と復興のために「ダンマヤトラ(法の行進)」などの活動を続け、開発僧のリーダーとして後進を育て、ノーベル平和賞の候補ともなりました。
師は語っています「多くのカンボジア人が、僧侶は寺に属するものだというのです。しかし私たちは、自分たちの寺を出て、苦しみに満ちた現実という寺の中に入ってゆく勇気を持たなければなりません。自らが寺となるのです」と。(マハ・ゴサナンダ著『微笑みの祈り』)
 もう一人、道元禅師と同じ時代に生きた真言律宗の僧侶に叡尊上人(1201~1290)がいます。叡尊上人はその弟子忍性(1217~1303)などと共に、ハンセン病の患者を救済する「北山十八軒戸」という療養施設を建て、風呂に入れ、施食を行うなど様々な社会救済活動を行ってきました。
 その行動の原点となったのは『文殊経』で、その中にあるのは「生きた文殊菩薩に会おうとするならば慈悲心を起こせ、何故なら文殊菩薩がこの世に現れる時は貧窮孤独の身となって現れるからだ」という教えです。そこで、弟子たちに「さあ、文殊菩薩の背中を流してさしあげよう」と呼びかけ、ハンセン病患者を入浴させたといわれています。それが叡尊であり忍性の活動でした。それは釈尊に帰れという運動でもありました。
 叡尊のスローガンは「興法利生」で、すなわち、当時遵守されなくなっていた戒律を重視し釈尊本来の仏教に立ち戻ろうとした戒律復興の活動であり、そして、当時と呼ばれ社会的に疎外された階層の人々を中心に救済の手を差しのべてゆく救貧施療の活動でした。叡尊にとって「興法」と「利生」は別ものではなく「戒律を復興し本来の仏教を追求することは民衆救済に直結する課題」だというのが叡尊の主張でした。(西大寺HP)
 SVAの活動をスタートから導いてきた先達、有馬実成師(1936~2000)は、その行動の拠り所を叡尊に見出していました。

 マハ・ゴサナンダ師や叡尊上人の心は道元禅師にも通底していると私は受け止めています。『随聞記』に、「故僧正建仁寺に御せし時」として次のような逸話があります。
 栄西禅師が建仁寺に居た時、一人の貧窮の人がやってきて「家が貧しくここ数日ご飯を食べていません。家族が飢え死にしそうになっています。お慈悲をもってお救いください」と頼みました。その時寺には与えるべき食料も衣類も財物もありませんでしたが、ちょうど薬師如来像の光背を造るための打ちのべた銅が少しありました。栄西禅師はそれを自ら打ち折り、束ねまるめて貧者に与えました「これで食料と交換して飢えをしのぎなさい」と。
それを見ていた弟子たちは「仏様の光背を俗人に与えるのは仏物己用の罪ではないですか」と非難します。それに対して栄西禅師は「その通りである。しかし、目の前に飢え死にしそうな人があれば自分の肉や手足を割いても与えるのが仏の心であろう。たとえ私がその罪で地獄に堕ちようとも生あるものの飢えを救うべきである」と答えました。
 この故事を紹介して道元禅師は、「先達の心中のたけ、今の学人も思うべし、忘るる事なかれ」と述べておられます。(随聞記3―2)
 また別のところでは、人が来て一通の書状を頼まれたとき「私は俗世を捨てた人間であるから」と断るのは世間の評判を気にしているのである。仏菩薩は人が来て頼むときは自分の身の肉でも手足でも切って与えるのである。わずかな世間の評判を気にしてその頼みを聞かないのは、自分のことばかり考えている間違いである、と示しています。(同2―16)
高祖様は、深山幽谷に坐して自己究明の上求菩提のみを目指していたわけではない、釈尊を慕う他の祖師方と同じく、釈尊の心を我が心として、衆生の苦悩に向き合い、救いの道を歩まれたのだと私は信じます。「愚なる我は佛にならすとも衆生を渡す僧の身ならん」の御歌にその御心を受け止めます。

自らが寺となる
 さて、コロナ後の社会ですが、これを契機に生活様式や価値観はどのように変わるでしょうか。
 パソコンのオンライン、リモートを利用した働き方が定着すればいろんなことが変革していくと思われます。
 ある大学の先生がこう言いました「コロナ以前からテレビ電話いわゆるリモートを活用しようという提案はあったが、あまり普及しなかった。それが、そうせざるを得なくなって利用してみると意外に活用できることに気づいた。そればかりか、これまで積極的な学生と消極的な学生に対応するのに差を感じていたが、リモートだとそれが平等にできることも分かった。リモートの授業はなんと出席率が100%だ。大学は校舎や場所を指すのではなく学びの提供だから、今後キャンパスの存在意義が問われることにもなるだろう」と。
 その気づきはコロナ過の状況の中、多方面にわたる業種で起こっていると思われます。そしてそれは、場所の意味の問い直しと必要なものの優先順位をつけることを迫られているのだと思います。なぜそこでなければならないのか、なぜそれが必要なのか、の問いです。
 職場を都会に求める意味が問われるでしょうし、職業の淘汰も起こるように思います。
 お寺であれば、なぜお寺に行かなければならないのか、その意味は何かがこれまで以上に厳しく問われるように思います。その疑問に答えていかないとお寺の未来はないのではないでしょうか。大学がキャンパスの存在意義を問われるだろうというのと同じく、仏教は必要であってもお寺の必要性はあるのかと問われるのではないかと思うところです。
 そこで心に迫ってくるのはゴサナンダ師の「私たちは、自分たちの寺を出て、苦しみに満ちた現実という寺の中に入ってゆく勇気を持たなければなりません。自らが寺となるのです。」という言葉です。
 「自らが寺となる」とはどういうことか。
 「大学は場所ではなく学びの提供だ」という言葉を借りれば、「お寺は場所ではなく救いの提供だ」ということになるでしょう。さらには、お寺に居てお袈裟をかけた人を僧侶と呼ぶのではなく、人々の救いになる人を僧侶と呼ぶのだ、ということになるでしょうか。
 瑩山禅師初開の道場、阿波の城満寺四世大槻哲哉老師が城満寺復興の勧募で全国を行脚されていた折り小寺にも訪ねてこられ、お願いして寺に泊まっていただいたことがありました。そのお話その姿勢から示される教えはたくさんありました。その時私は、「城満寺はすでに歩いている」と感じたものでした。僧侶のはたらきにより、寺は動きもし歩きもするものだと思います。
 寺の存在には何の意味があるのか、それは僧侶がどう生きるのかが問われることであり、その問いは今後さらに厳しく突き付けられてくると思われるのです。
 仏の教えにより目の前の苦悩を救おうとするのが僧侶であるならば、自らが苦しみの中に入っていかなければなりません。自分は安全な場所に身を置いてこちらに来たら助けるというような傍観者であってはならないでしょう。自らがお寺となって苦しみの世界に身を投じなければ、お寺そのものが救いから遠い存在になってしまいます。

利行は一法なり
 ボランティア活動にかかわって学んだことはたくさんあります。その一つは、慈悲心があるからボランティア活動をするのではないということです。ボランティア活動を通して自らの慈悲心に気づき、開発し養っていくのです。仏の行為をもって仏となり、菩薩の行いによって菩薩が出現します。
 次に「利行は一法なり、普く自他を利するなり」の教えが腹落ちしました。三輪空寂の利他行はそのまま自利となり、三輪空寂の自利行はそのまま利他となります。利行に自他の区別はありません。「自らが所作なりというともしずかに随喜すべきなり」です。ボランティア活動で救われるのは自他共です。
 そして「衆生を利益すというは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるなり」の教えも目の当たりにしました。阪神淡路大震災の現場で、被災者が積極的にボランティア活動にかかわっている姿を目にしました。心のケアの専門家から「自分を救う最も早い方法は他人を救うことである」ということを学びました。苦しい状況にある時にこそ、人の幸せを願い行動を起こすことを勧めたいと思います。逆に言うと、常に人の幸せを願える人はどんな状況においても救われているのだと思います。
 「当に願わくは衆生と共に」。僧侶は衆生の苦しみと共に歩むことを願わなければなりません。衆生の苦しみの中にこそ僧侶の存在意義は見出されるのですから。

長野布教巡回

2014年09月08日 21時21分01秒 | 布教活動

しばらく記事をUPしないとアクセスがどんどん減っていく、ということで、先週の事などを書いておきましょう。

先週は、特派布教の巡回で長野県を回っていました。

8月31日に松本に入り、打ち合わせの後、6月1日は穂高、2日白馬村、3日松本市、4日筑北村、5日松本市、6日諏訪と、日本アルプスの山裾を巡ってきました。

まず感じたことは、今回お邪魔したどのお寺さんも大きくて立派ということ。

その一つの理由は、幕末から明治にかけて、松本藩が率先して廃仏毀釈を行い、一度寺院が破壊されてその後再建されたということ。

その時に、ある意味寺院が淘汰されて、数が少なくなったことが理由の一つだと。

どのように寺院を維持していくのかという、危機感と工夫もあったことだと思われます。

全くその影響を受けずに来て、ぬるま湯に浸かっているような寺院は、今後危機が襲ってくるのかもしれないと思ったりします。

参加檀信徒の全てが、教区寺院の代表、総代さん方ばかりというのも、珍しいことでした。その皆さんほとんど全員が背広にネクタイ、キチンと輪袈裟をかけていたことにも驚きました。

それぞれの菩提寺名が入った輪袈裟を、その代表であるというような自信も感じられながら身につけておられる様子は、頼もしくもうらやましくも思いました。

このように、それぞれの寺の総代さん方が、範を示すように寺を大事にし、決まりを守り、真面目に研修会に参加されるような地域は、おそらくこれからもしっかり伝統文化が守られ、社会が維持されていくものと思います。

もしかしたら、このような地域は、全国的には珍しくなっているかもしれません。どうか、少しでも永く継承されますよう願っています。

松本市の沢沿いの山奥の、小さな日帰り温泉「檜の湯」につれていってもらいました。

開放的な露天風呂のあるいいお風呂でした。

その風呂場の入り口のガラス戸に張り紙がしてあって、「桧の湯の心得」とあります。

「おしりとおちんちんを洗って入る事」という直接的な書き方に、思わず写真を撮りました。

でも、そんなことは桧の湯の心得でもなんでもなく、日本人の常識的な心得であるはず。

なのに、その常識がない輩がいるので、あえて桧の湯が教育しなければならないというわけでしょう。

親から子に、大人から子供に、常識として伝えられるべき事が伝えられていない、それがこの国の最も由々しき問題ではないのか。

学校や政治の批判をする前に、それぞれの家庭教育の見直し、立て直しが急務だと思えてなりません。

日本人の常識が完全消滅してしまう前に。

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利行とボランティア

2011年11月18日 23時40分09秒 | 布教活動

今日は湯野浜温泉のホテルで、曹洞宗布教師検定があり、検定員の一人を務めてきました。

今年の曹洞宗の教化方針の柱が「利行」になっているので、受験者の法話実演の内容も、ほとんどが利行をテーマとしたものでした。

そして、さらにそのほとんでが大震災のボランティアとの結びつけでした。

ボランティア=利行 と、安易に結びつけてしまうのは問題があると思います。

ボランティアを無理無理日本語に置き換えるとすれば、「利行」と言えるのではないか、とは、私も話してきたことですが、簡単にイコールにしてしまうことには抵抗を感じました。

また、「情けはひとの為ならず」ということわざとは、似ているようで違います。

利行は「利他行」とも言い、他を利する、救う、幸せにする、という意味になりますが、利行の深いところは「利行は一法なり」という教えで、自他ともに幸せになる行い、とでも言うべきでしょうか。

徹底して「利他」の行いは、そのまま「自利」になっている。

「三輪空寂」と言われる、施す側、受ける側、施される物、その三つが執着を離れている、そういう行いのとき、利他は自利になる。

同じように、徹底して「自利」のときは、同時に「利他」になる、という教えなのです。

だから、只管打坐(目的なくただひたすらする坐禅)が「利他行」であるとも言えるでしょう。

だからこそ道元禅師は、

「守るとも 覚えぬながら 小山田の いたづらならん 案山子なりけり」と歌っているのだと受け止めています。

検定員所感を述べるときに、そのことに言葉が及ばず、帰りの車の中で頭に浮かんできたので書いておこうと思った次第です。


滋賀巡回3 朽木、高島

2011年10月22日 20時25分53秒 | 布教活動

今日の教場は、旧朽木村。

教場主曰く、「30年住職してきましたが、最初は17軒あった檀家が現在13軒です。とてもお寺だけでは暮らしていけません。寺を離れて暮らしています。寺にはお盆とか正月とか、このような行事がある時以外きません。檀家さんに手伝ってもらって3日かけて畳を拭いて掃除しました。カメムシがビッチリで、やはり住んでいないとだめですね。申し訳ないことです。」

そう言いながら、老人ホームに勤めている住職さんはきれいに剃り上げた頭を深々と下げるのでした。

ひとつの集落にひとつずつ寺院と神社があるという地域、しかし山林以外に産業のない山間地域は、過疎化が進んで集落自体が限界状態。

それでも、住民は何とか寺院を護持してきました。

寺に住職がいないのはあきらめています。

帰りがけに寄らせていただいた寺院は曹洞宗でも屈指の名刹寺院、この地域では珍しい専業住職。兼務を含めて15ヶ寺を預かっています。それでも檀家の合計は360軒。

こちらにお邪魔して、同じ宗派の中でも、地域によって大きな違いがある現実を知りました。

明日は最終日、明日の教場に立ち寄ってお邪魔してきましたが、檀家さんとともに準備万端整えておられました。特派布教は、何年に一度の大行事としてお迎えしてくださるのです。こちらもキッチリと勤めなければなりません。

何もなければと思っていましたが、急用もないようなので、明日は大阪に1泊して、久しぶりにみんぱく(国立民族博物館)に行きたいと思います。

ちょうど、アイヌの特別展をやっています。それにここは、何と水曜日が休館日なのです。


滋賀巡回3 葛川、朽木

2011年10月21日 16時19分10秒 | 布教活動
昨日、今日とインターネットの環境がないので、PCが使えません。スマホからなので短く。
滋賀県第1教区に曹洞宗寺院は9ヶ寺ありますが、内7ヶ寺は兼務住職(別の寺の住職が兼務で住職を勤める)で、あとの2ヶ寺も住職は別の土地に住んでいる。つまりはこの教区にはお坊さんが一人も住んでいない。
この地区自体が、9集落あって、人口が329人とのこと。この数字の後交通事故で二人が死んだらしい。
昨日泊めていただいた宿の女将が60歳で、集落の最年少だと。
昔鯖街道で賑わった村は、限界集落となりました。
フー。


滋賀巡回2 大津

2011年10月20日 06時45分06秒 | 布教活動

今朝は起きがけにベッドの上で坐禅をしてみました。

柔らかすぎて座りにくくはありましたが、これはいい!

旅に出ると、他に用事がないので、余裕で座ることができます。

今日が3教場目で、今日終わって中日です。

一昨日の毎日新聞に、飯舘村菅野村長の言葉が載っていました。

少し長いですが後半部分を引用します。

「飯舘村では、事故前から『までいライフ』に取り組んできました。までいとは『丁寧』『思いやりを持って』『心を込めて』を意味する方言です。

戦後日本経済は大量生産、大量消費、大量廃棄で動いてきました。モノの豊かさを追求し、自分さえよければよいという考え方を見直し、さまざまな人の意見に耳を傾け、相手を思いやりながら、物事を決めていくということです。

お互いが気遣い合う社会の実現は、小さな自治体の生き残り策として取り組んできましたが、いざ原発事故に遭うと、30年、50年先に目指す日本の姿だと思うようになりました。

次世代の人たちが振り返ったときに、『東北の、福島の人たちのあの苦しみがあったからこそ、日本が世界から尊敬される国になった』という転換点にしてほしいものです。

そうでなければ、今の我々のつらさはあまりにもむなしい。」

最後の言葉は胸に突き刺さります。

これほどの苦しみを、未来への教訓として活かしてくれなければ、捨石として忘れ去られてしまうならば、今生きていることがとても耐えられない、という思いだと受け止めました。

菅野村長とは二度お会いしています。今月27日には仙台で講演もあります。是非お話を聞いてみたいと思います。


滋賀巡回1 彦根、日野

2011年10月18日 21時43分01秒 | 布教活動

特派布教で滋賀県巡回中。

今日第1日目を終了。滋賀県の6割を占める琵琶湖。というよりは、琵琶湖の周りに土地があるというような県です。

そこを1週間で半周します。

昨日はひこにゃんの彦根城堀端の宿に泊まり、今日の教場は、彦根藩主井伊家の菩提寺のひとつ天寧寺様でした。

五百羅漢が収まった見事な羅漢堂があり、拝観させていただきました。

今日は近江商人発祥の地である日野町泊。ご接待も無事に終わり、眠くなったところ。

ご接待いただいた中に、昭和39年の宿用院授戒会の際に、永平寺熊沢禅師について宿用院にいらしたことのある方丈様もお見えになって、話が弾みました。ご縁を感じました。

檀家さんに不幸がないようにと祈っていましたが、願いむなしく、今朝早く亡くなったという連絡がありました。7月以降なかったので、もしや留守中にと懸念いていましたが、心配の通りになってしまいました。ご遺族の皆様には大変申し訳なく思います。

できればこれ以後はないようにと祈ります。


滋賀特派

2011年10月15日 15時21分42秒 | 布教活動

♪カメは降る あなたは来ない~

どこかで聴いたことのあるフレーズですが、本当に今年はカメムシが多くてボタボタ降ってきます。

このあたり、どこも同じようで、今年は雪が早いとか、多いとか、心配の噂になっています。

でも、考えてみたら、雪の前にこのカメが降るのを何とかしなければならないように思うのだが。

集中講座のさん喬師匠の上に降ってきたときには、どうしようかと思いました。

♪カメカメ降れ降れもっと降れ~

だから降っちゃだめなんだって。

気を取り直して。

明後日17日より1週間、特派布教の旅に出ます。

今回は滋賀県です。

どんな出会いがあるか楽しみです。

今回もお葬式がないことだけ祈ります。

檀家の皆さんにお願いです。どうか死なないで。


島根から2 松江

2011年09月25日 08時11分01秒 | 布教活動

  島根に入って6日目の朝を迎えています。

特派布教のお勤めも今日明日の2日間です。

島根は、15年ほど前にやはり特派で巡回したことがあり、今回2回目ですが、「いいところだなあ」と改めて思います。

自然の景観もいいし、見所も多いし。

昨日は、小船で松江城の堀をめぐる、「堀川めぐり」に連れて行ってもらいました。

船頭さんの説明を聞きながら、ゆったり小船に揺られるのはいい時間で201109242012_01_37した。

201109242018_12_3117ある橋の4つは、乗客も体を屈めないと通り抜けられない低い橋で、それがまた、体験の目玉なのかなと思いました。

「水都」と呼ばれているようですが、町の中を川が流れている光景は風情があると思います。

宍道湖の夕日も有名です。昨日も大勢の人が夕焼けを眺めていました。

ということで、いい思いをさせていただいております。

いつものことながら、留守を守ってくれている方々には申し訳なく思っています。

この期間中葬儀の連絡がなかったことだけがせめてもの救いです。


島根から1 安来

2011年09月23日 03時56分43秒 | 布教活動

特派布教巡回、島根ツアー3日の朝を迎えています。

台風の出雲空港に着き、松江から安来へとやってきました。

安来のお寺さん2カ寺で教場を勤め、今日が3カ寺めです。

台風一過の秋空の下、朝から露天温泉に浸かって、安来のどじょう定食をいただいてと、ぜいたくな旅をさせていただいています。

足立美術館にも立ち寄り、ゆっくり鑑賞させていただきました。

今年度の特派布教のテーマは「利行」ですので、東日本大震災を中心に、被災地の現況とこれからの支援について語らせていただいています。

やはり東北とは違う、隔靴掻痒の感が否めません。

それでも、しっかりと伝えたいと思います。

写真は、足立美術館と安来節劇場の前で迎えてくれたお姉さんです。

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