なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ354 ウクライナ侵攻

2022年02月27日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第354回。2月27日、日曜日。

カーリングロスのような余韻に浸っていたら、冷や水を浴びせかけられました。
米大統領が「侵攻することを確信している」などと言っても、それは煽っているだけではないのか、まさか本当に軍事侵攻するなどというバカげたことを今さらこの時代にあり得ないだろう、と思っていました。
そのまさかが起こってしまいました。
「平和維持軍」という矛盾。
軍隊で維持される平和というのは平和と呼べないでしょう。
武力で守らなければならないというのは、裏返せば戦闘状態を意味し、その事態そのものが平和ではないということは明らかです。
たとえば、隣の家が攻めてくるかもしれないから家族を守るために武装するというような環境は、生活の場として穏やかではなく、とてもとても平和と呼べる状態ではないでしょう。
そして事態は日を追うごとに更に悪化し、ウクライナ全土で空爆やミサイル攻撃、軍用車が首都に入るという緊迫した状況になってきました。
冷戦と呼ばれた二大大国のにらみ合いの時代を過ぎて、小国の問題は数々ありながら、再び大国が世界を二分するような暴挙に出るとは考えられませんでした。
力による現状変更が許されるならば、それなら我が国もと、虎視眈々と狙っている国にとっての正当化理由、起爆剤になるものと思われます。
そんなことが世界のあちこちに起こったならば、もう世界は無秩序、だれも止められない。それは国同士だけではなく、国民同士にも波及し、国の内外で奪い合い、殺し合い、強いものが弱い者を蹂躙する地獄と化すかもしれません。
なんてバカげたことをしてしまったんだと思うのですが、もしかしたら、日本人はアメリカをはじめいわゆる西側諸国の情報をもとに状況を見聞しているので、果たしてその裏側には何かがあるのではないかと考えないわけにはいきません。

元朝日新聞論説委員、朝日町在住の長岡昇氏は「情報屋台2022/2/25」で次のように書いています。

ソ連崩壊後、ロシアは政治的にも経済的にも混乱状態に陥り、NATOの東方拡大に対処する余裕がなかった。NATOの東縁はじわじわとロシアに迫り、ついにロシアと直接、国境を接するウクライナに到達しようとしている。
経済を立て直し、国力を回復したロシアのプーチン大統領が「NATOのウクライナへの拡大」に強い危機感を抱いたのは、理解できないことではない。2008年のNATO加盟国との首脳会談で、プーチン大統領は「ウクライナがNATOに加盟するなら、ロシアはウクライナと戦争をする用意がある」と発言している。
旧共産圏の東欧諸国や旧ソ連の構成国であるウクライナがNATOに加盟するということは、単に軍事同盟の組み合わせが変わる、ということだけにとどまらない。戦闘機や戦車といった武器体系がロシア製から米英製に切り替わることを意味する。そのビジネス上の損得は極めて大きい。
それ以上に深刻なのは、旧共産圏諸国が持っていた暗号解読を含む軍事機密情報が米英の手に渡ることだ。軍事情報が戦争で果たす役割は、IT革命の進展に伴ってますます大きくなってきている。かつての同盟国の寝返りは死活に直結する、と言っていい。「ウクライナ侵攻 追い詰められた熊が牙をむいた
(から抜粋)

ロシアが侵攻したりする可能性があるからウクライナがNATOへの加盟を望んだのだろう、原因はロシア側にあると思っていましたが、問題はそう単純ではないようです。
そうだとしても、どんな背景、理由があろうとも、隣の家に土足で踏み込んで暴力をふるうという行為が許されるわけではありません。

この時代において、武力によって他国を侵略するというような前時代的なことが本当に起こるのだと思い知らされたショックは大きいです。
ミャンマーもアフガニスタンも国内におけるクーデターは起こりましたが、他国に攻めるわけではないので、内政干渉と言われてしまえば外部の人間にできることは限られてしまいます。
それでも、クーデターや紛争、戦争によって真っ先に傷つけられるのは無防備な市民であり、為政者は安全なところで指示を出すだけという構図は変わりません。
では、我々市民は何ができるのか。何をすべきなのか。
自分に火の粉がかぶらなければ対岸の火事として黙ってみている以外にないのか。
こんな時に仏教の役割はないのか。と考えます。
デモやシュプレヒコール、SNS上での発信も必要かと思います。
それよりももっと根本的なこと、それは自分自身が争いの構図に与しないこと。
自ら武器を持たないこと。荒々しい言葉を発しないこと。
自分自身が静寂な心を保ち続けること。
いわば、一人ひとりの心の平和を保ち、広げ、伝播していくこと。
心の静かな人が清々しく見え、そのような姿にあこがれを持ち、私もああいう人になりたいと思う、そういう人になっていくこと。
お釈迦様の姿を想念し、そのお姿を胸に抱き、そのようにありたいと強く願う。
そういうことから始めたいと思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ353 カーリングに人生をみる

2022年02月20日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第353回。2月20日、日曜日。

先週は三日ほど寝ました。
風邪かなと思ったのですが、熱はなく、咳も鼻水もありません。ただ、身体がだるく、節々がこわばり、眠い。
ほとんど外部との接触はないので感染症でもないでしょう。
下痢があることから、孫の胃腸炎がうつったのかなと思います。
横になるだけでなくほとんど眠っていて、よくこれだけ眠れるものだと感心しました。
今はもう全快しています。

2月15日、涅槃会を勤めました。
前日、梅花講の皆さんでいつものようにだんごを丸めていただき、カラフルな「涅槃だんご」がたくさん出来上がりました。
当日はお経と御詠歌奉詠、お話の後、例年であれば盛大にだんごをまくのですが、感染予防を考え去年同様今年も袋に詰めてお渡しする方法にとどめました。
涅槃会はこの辺りでは「だんごまぎ」と称されるほど、盛大にまいてみんなで大騒ぎしながら拾う、という行持なので、まかないのは静かで寂しい涅槃会です。
そんなに拾ってどうするんだろう、と疑問に思うほど、まけばまいただけ、みなさん必死に拾います。粉にまみれるのもお構いなく、「こっちゃまげー」と両手を広げ、さらには腰に風呂敷を巻いて広げて受け止めようとします。
隣を見ると、近くに落ちただんごをいちいち拾わずにとにかくひざ元にかき集め、後から袋に詰めようという作戦です。
たくさん拾っただんごは親戚や友人に分けようというのですから、それはそれで意味のあることなのですが、それ以前のまく、ひろう、という行為は、要不要を超えた動物的本能のような欲求を満たす行為なのかもしれません。
雪国の冬は、そんなこともストレス解消として活用してきたものなのでしょう。
節分の豆まきとも通ずるイベントの意味合いを感じます。

冬期オリンピックも今日が最終日のようです。
嬉しそうに喜んでいる姿には素直に「よかったね」と共感を覚えます。
カーリングは今日、なんと決勝を迎えます。準決勝はしびれました。
前々回大会からか、カーリングが気になり、その競技の面白さにはまっています。
1試合2~3時間もかかるので、テレビで観るのもとても大変なのですが、見始めると目が離せなくなり、ついつい観てしまうということになります。一昨日も、私にとっては夜中ですが、観てしましました。
4人一組のチーム戦で、相手チームと交互に一人2投ずつストーンを投げ合い、最後にどちらのチームが中心に一番近い石を残したかを数えて1エンド。それを10エンド行うという試合です。
点数になるのは最後に残った石ですから、最後の4人目に投げる人の石が重要なのですが、それまでにそのステージをどのように組み立てていくかというセットアップの1投1投が、一つも無駄にできない重要な意味を持つということが、長く観ていると分かってきます。
このカーリングを観ていて、人生のようだと感じます。

舞台は、長四角い氷の上。
人生の目標に向かって、夢や計画をトライしていく。
しかし、一見平らかのように見える行路が、実はよく見ると氷の粒々で覆われていて、この粒によって思わぬ方向に曲がったり、届かなかったり行きすぎたりする。しかも、その状態は気温によっても刻々と変わってくる。
さらに、この舞台には、同じように夢を実現しようとトライしているグループもいる。
相手には相手の都合があり、計画がぶつかったり、お互いに存在が障害になったりする。
いわば思い通りにならないのが社会というものだ。
ただ、自分には仲間がいる。一人で戦っているのではないのだ。
声をかけ合い、相談し合い、状況を読み、判断し、力を合わせて目標に近づけていくことができる。
そのためには、常日頃からコミュニケーションをとり、理解し、信頼していなければならない。
それさえできていれば、たとえ失敗したとしても、励まし合い、支え合って立ち直ることができる。
ミスも成功も分かち合い、悲しみも喜びも分け合っていくことができる。
大事なのは共に生きているということ。それを知っていること。
その上で、自分の役割に自信を持ち、一投一投に心をこめていく。
ゲームの終了はコンシード。自ら負けを認め相手を祝福する。将棋の「投了」に近いと言われるゲームオーバーの仕方だ。
人生にも審判はいない。最期を自分で認めていく以外にない。
周囲に敬意を払い、感謝で立ち去るのがいい。

そんな姿を、カーリングの試合に重ね合わせて観ていました。
人生は曲がりながら真っすぐ。カーリングだよ人生は。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。





サンサンラジオ352 オリンピック報道

2022年02月13日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第352回。2月13日、日曜日。

先週予告した35日閻魔大王の審判は無事に終わりました。
浄玻璃の鏡ならぬMRIに入り、脳内を隈なく(外見ですが)診ていただいた結果、「異状はありません。もうこれで診察は終わりです」とのこと。
「え、もういいんですか?」と聞き直したところ、「硬膜下血腫の症状が出るならば1か月の間に現れるので今大丈夫ということは1か月前の転倒の影響はないということです」付け加えて「ただし、これから転んだら知りませんよ」と、無罪放免です。
色んな前例を聞かされていたので心配していましたが安心しました。
お祝の盃をあげたことは当然と言えば当然でしょう。
MRIを受診する前に注意事項を確認します。金属などを身につけていないか、ペースメーカーなどが入っていないか、エレキバンなどを貼っていないか、そしてその中に、刺青を入れていないか、というのがあって、前回も気になったので聞いてみました。
すると、「染料がダメみたいですね。せっかくきれいに入れたものがダメになたらもったいないですからね」とのこと。
ふーん、そうなんだ。
もしかしたら以前に、色が変わって恐いクレームがあったりしたのかなと想像しました。
刺青の人はMRI診断ができないのか、それとも変色することを承諾の上で受けてもらうということなのか、色々考え勉強になりました。

オリンピックが盛んです。
テレビの放送を観ていて考えました。
競技の前に色々情報を流して期待をあおるのはやめた方がいいのではないですか。
試合の結果だけを放送し、メダルを獲得した人は盛大に褒め称えればいいでしょう。
それでなくとも、4年に一度の大舞台で極度の緊張をしている選手に、更にプレッシャーを覆いかぶせてどうするんですか。
あんな小さな女性が空を飛ぼうという時に、みんなで翼を押さえつけるようなものです。
結果が出るまで静かに見守ったらいいと思います。
ましてや、謝罪をしなければならない理由などさらさらないのに、そうせざるを得ないと思わせてしまったのは海の向こうからのプレッシャー以外にないと思うのです。
選手に過度の期待をかけ、そのために緊張を増加させ、結果としてのびのびとした試合ができなくなるのだとしたら、それは選手にとっても観る側にとっても残念な結果になるでしょう。期待を裏切られたなどと国民ががっかりすることにもなります。
事前に放送するとすれば、全ての協議の日程と出場するすべての日本人選手だけでいいでしょう。
就中NHKはと思います。以前はそうだったように思いますが。
民放は視聴率と広告収入の関係がありますから、人気の観たい競技を選択するのは仕方がないことと思います。
それと同じことを、国民からの税金(?)で放送しているNHKがやってどうするのだと、なかば憤慨しています。
カメラを向けられない選手もたくさんいて、その家族もその姿を観たいと思っているでしょう。出場することだけで名誉なことなのですから、そのことを褒め称え、応援する国民でありたいと思います。
選手には、一生のうちで何度ともない晴れの舞台を、生き生きと楽しんでもらいたいと思います。
出場することが苦痛であってはなりません。
ましてや、勝手に期待して、勝手にガッカリして、あまつさえ、バッシングするような、そんなオリンピックになっているのだとすれば、むしろない方がいいと思います。報道の在り方に疑問を感じます。
更には、政治や経済のために選手が利用されているようなことでは本来の意味が曲げられていると言わなければなりません。
「参加することに意義がある」というシンプルなオリンピックの基本的な考えが、時代とともに、「オリンピックは勝つこと」「オリンピックはメダルの数」と変革してしまったことは、オリンピックそのものの存在意義が問われるべき状況だと考えます。
いずれにせよ、今参加している選手たちには、楽しくのびのびとパフォーマンスを披露してもらい、堂々と胸を張って帰国してもらいたいと願います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ351 大欲と少欲

2022年02月06日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第351回。2月6日、日曜日。

立春です。家族と節分も勤めました。
雪の多い年ですが、間もなく三寒四温、少しずつ雪も解けていくでしょう。もう少しの辛抱です。

浄玻璃の鏡の前に立つまでは秘めておきたしあのこともこのことも 相田みつを
明日、後頭部強打の1か月検診です。
ちょうど五七日目で、中陰であればまさに閻魔大王直々の審判の日です。
今のところ外面では異常は出ていないのですが、脳の内部のことですからね、どうなっているか分かりません。
自分では見えないところで進行しているということもあり得ます。
隠しておきたいあのことも、忘れていたそのことも、MRIという浄玻璃の鏡には全部映ってしまうのでしょう。
もう俎板の鯉ですから、しかたない、隅々まで徹底的にさらけ出して見てもらいましょう。
その上での大王の審判ですから受け入れるしかありません。

小さな欲にとらわれ惑わされて、今すべきこと、しなければならないこと、あの時こうしておけばよかったなと後悔するようなこと、を仕損じることがあってはなりません。
今でなければ間に合わないことがあります。
時は間断なく過ぎていき、自分も相手も変わっていく、あるいは亡くなっていくのですから、今でなければならないことがあるのです。
なのに、どうでもいい小さな欲にとらわれ、すべきことができないのは残念なことです。

たとえば、あなたが国の王様だとします。
今、高い塔の上に立って国と民を眺めています。
「この国を治め、民に幸せをもたらすにはどうすればいいだろうか」と思案しているとします。
「争いがなく、豊かで、子どもの笑い声が絶えず、老人が大切にされ、お互いがお互いを尊敬しあう、穏やかな国を作るためには」と考えています。
そのような大局に立って、国全体の幸せを願う王の願いは、いわば「大欲」と言っていいでしょう。
その時に、権力や、名誉や、金銭や、女などの小さな欲に目がくらみ、惑わされてしまえば、大局を見誤り、大欲が果たせないことにもなりかねません。
大欲が強ければ強いほど、小欲はどうでもよくなってしまうはずです。
あなたが王様でなくとも、あなたの家族、親戚、友人、仲間、地域、国、世界、全ての人々の幸せを願うという大欲があれば、些細な欲に振り回されることもないでしょう。
小欲がたくさんあるよりは、大欲が一つ、その方が生きる道を誤らず、生まれて生きて来た意味を実感できるように思います。
それは「少欲」だ、と言ってもいいでしょう。

「四無量心」の「無量」とは何か、と考えていましたが、この「大欲」と同じ意味だと思いました。
自分の幸せを願う心を、家族、仲間、地域と、少しづつ広げて行って、無量のすべての人々の幸せを願うという思い、それが「無量」ということなのでしょう。いわば、それは「大欲」だと気づきました。
大欲によって小欲をつぶしていく、取るに足らない欲であると、とらわれなくなっていく。
ただし、大欲を持つ年齢というものがあるように思います。
赤ん坊から子供時代には目の前の小欲以外ないでしょう。
脳の大部分が性欲に占有されているニキビ時代には大欲は無理でしょう。
企業戦士としてバリバリ働いている時は、競争という原理の中でしかものを考えられないでしょうから、やはり難しいと思います。
少し枯れかかってきている年代が大欲の適期のように思います。

もちろん人にもよります。
国内外の為政者、政治家などを見ていると、自分のための小欲のかたまりなのではないかと思われてなりません。
自分第一の欲しか持ち合わせない人以外は政治家になれないかのようです。
お釈迦様が国王であったならどんなにか素晴らしい国になっただろうに。
いや、お釈迦様は国を超えたのですね。
国の垣根を超えて、また人間という垣根も超えて、無量の「慈悲喜捨」の心をもって法を説かれたのです。
国王などにおさまる人ではなかった。
そんな人になりたいと思います。

まず、とりあえずは明日の大王の審判次第。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。