本日は同じモーツアルトのピアノソナタの17番(K576)と14番(K457)、幻想曲(K475)をはやり内田光子の演奏で。
この14番も幻想曲も昨日の曲のようにな感じに聞こえた。モーツアルトの他の曲のように滑らかにメロディーが次から次に湧いてくるような流れの前に、序盤はつっかえつっかえ進んでいくような、メロディーが広がるのを拒否しているような感じである。中盤の展開部も決して滑らかな進行ではない。行きつ戻りつのような感じのまま、終盤を迎える。そんな風に聞こえる。
気持ちが晴れやかになるのを心のどこかでブレーキをかけている作曲家の影が見え隠れするようだ。晴れやかになるのを恐れている作曲家がいるのだろう。晴れ間は何となく見えているのだが、それでも「人の手ではなく、自分の足だけで地ならしをしながら歩きたいのだ」とこだわると、収拾がつかなくなることは重々承知をしているのに、どこかで二の足を踏んでいる作曲家がいる。なんかそんなモーツアルトを聞いているような気がする。
このような曲がとても心地よく聞こえるときがある。そんな内省的な気分の時にはうってつけの曲だ。
この14番も幻想曲も昨日の曲のようにな感じに聞こえた。モーツアルトの他の曲のように滑らかにメロディーが次から次に湧いてくるような流れの前に、序盤はつっかえつっかえ進んでいくような、メロディーが広がるのを拒否しているような感じである。中盤の展開部も決して滑らかな進行ではない。行きつ戻りつのような感じのまま、終盤を迎える。そんな風に聞こえる。
気持ちが晴れやかになるのを心のどこかでブレーキをかけている作曲家の影が見え隠れするようだ。晴れやかになるのを恐れている作曲家がいるのだろう。晴れ間は何となく見えているのだが、それでも「人の手ではなく、自分の足だけで地ならしをしながら歩きたいのだ」とこだわると、収拾がつかなくなることは重々承知をしているのに、どこかで二の足を踏んでいる作曲家がいる。なんかそんなモーツアルトを聞いているような気がする。
このような曲がとても心地よく聞こえるときがある。そんな内省的な気分の時にはうってつけの曲だ。