20代半ばから登山を始めた。当初は友人に連れて行ってもらったが、やがてというか、かなり早い段階から一人歩きが好みとなった。別に友人と歩くのが嫌だったわけでもないが、ひとりで行った山行が病みつきになったという方があたっているかもしれない。
ひとりで山道を登っていると、下っているときもだが、実にいろいろな想念が湧き上がってくる。それが楽しみだ。ひとりでジョギングをしたりウォーキングをしているときも同じだ。日常の身の振る舞いの反省、これからのことなど実に色々のことが思い浮かんでくる。それに自分なりの回答や出口を探すのが歩く楽しみである。
同時に周りの景色にも気を配っているものである。その日の宿泊地であるテント場や山小屋に着いたときに覚えているのは、途中の景色と思い至った想念と半々のような気がする。
そんなこともあり、私は山に登るときはできるだけ長い尾根を登る、あるいは下山にそのような尾根を選択するようにした。限られた休暇で行く山行だから、登りに時間をかけた場合は下りは急峻な下り、くだりに長い尾根の場合は急峻な尾根の登りを選択してきた。40歳以降は山に行く時間も極めて限られたきて、登りと下りとも時間を節約するために長い尾根歩きは選択することがなくなったのがさびしい。
本当は人家のある里山から登り始め、畑地の間を縫うようにして登り、長い時間をかけて山稜にたどり着くのがうれしい。そして下りは一気に駆け下り、里の宿で風呂と若干のお酒と、里の人との他愛のない世間話があれば最高である。
山行はひとりで、そして長い時間山に入り、人里と人のいない世界を出入りすることが私にとっては最ものぞましい時間である。
25年ほど前、東北の朝日連峰に出かけたとき、人里から上り始め水場でテントを張り、翌日の昼の大朝日岳頂上まで18時間誰にも会わなかったことがあり、感激した。その夕方の小屋では人の姿が懐かしく感じた。
60歳を過ぎて、職を退いた後そのような山行ができればうれしい。
ひとりで山道を登っていると、下っているときもだが、実にいろいろな想念が湧き上がってくる。それが楽しみだ。ひとりでジョギングをしたりウォーキングをしているときも同じだ。日常の身の振る舞いの反省、これからのことなど実に色々のことが思い浮かんでくる。それに自分なりの回答や出口を探すのが歩く楽しみである。
同時に周りの景色にも気を配っているものである。その日の宿泊地であるテント場や山小屋に着いたときに覚えているのは、途中の景色と思い至った想念と半々のような気がする。
そんなこともあり、私は山に登るときはできるだけ長い尾根を登る、あるいは下山にそのような尾根を選択するようにした。限られた休暇で行く山行だから、登りに時間をかけた場合は下りは急峻な下り、くだりに長い尾根の場合は急峻な尾根の登りを選択してきた。40歳以降は山に行く時間も極めて限られたきて、登りと下りとも時間を節約するために長い尾根歩きは選択することがなくなったのがさびしい。
本当は人家のある里山から登り始め、畑地の間を縫うようにして登り、長い時間をかけて山稜にたどり着くのがうれしい。そして下りは一気に駆け下り、里の宿で風呂と若干のお酒と、里の人との他愛のない世間話があれば最高である。
山行はひとりで、そして長い時間山に入り、人里と人のいない世界を出入りすることが私にとっては最ものぞましい時間である。
25年ほど前、東北の朝日連峰に出かけたとき、人里から上り始め水場でテントを張り、翌日の昼の大朝日岳頂上まで18時間誰にも会わなかったことがあり、感激した。その夕方の小屋では人の姿が懐かしく感じた。
60歳を過ぎて、職を退いた後そのような山行ができればうれしい。