夕食後、短時間の読書をするつもりで、新潮社の「波2月号」に掲載されている「カミュ論」(内田樹)を読んだ。久しぶりにカミュを扱った文章を読んだ。
カミュの「シーシュポスの神話」の有名な一節、「真に問うべき哲学的問題はひとつしかない。それは自殺である。人生は生きる労苦に値するか否かをはんていすること。それは哲学の根本問題に答えることだ」を内田樹は次のように意訳する。
「真に問うべき哲学の問題は一つしかない。それはおのれの信じる哲学のために死ねるかどうかである。自分の哲学を貫くために命を捨てることができるかどうかを決すること。それこそが哲学の根本問題に答えることだ。まずこの問いにこたえなければならない。ニーチェがそうしたように、哲学者がもし敬意に値するものでありたいと望むなら、自らの行動で範を示すべきだ」
こういう強い断定の言葉があふれていたのはいつの時代であったろうか。1960年代後半から1970年にかけてのあの時代の、切羽詰まった思考や物言いのなかに、幾度も登場しなかったか。とても身につまされた。
このような強い言葉は、他者に向かうと同時に、言葉を発した者に容赦なく跳ね返ってきた。そんな緊張感の中に私も一歩足を踏み入れていたという思いが、よみがえってくる。
4ページの論考の最後に内田樹は「カミュはレジスタンスの正当性を基礎づけ、その勝利をみごとにな修辞をもって予祝したのである。これほどの功績を果たした若い作家・哲学者が戦後フランスで獲得した知性的・倫理的な威信がどれほどのものであったのか、想像することは難しい。少なくとも日本の思想史にはカミュのような人は存在したことがないからだ」と記した。
このような熱い言葉から遠くなってしまった自分自身を眺めている。