Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

洲之内徹と海老原喜之助「ポアソニエール」

2020年02月03日 13時02分23秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

      

 洲之内徹の「気まぐれ美術館」のシリーズ6冊は、先月の本の大量処分のときには処分をする思い切りは出来ず、美術関連の本棚の端に大切に残しておいた。今、それを紐解いて再読しながらこの文章を書いている。

 昨日の堀江敏幸氏の講演「言葉をはみ出すもの-絵画を語る作家たち」では、前半に洲之内徹の著作「絵の中の散歩」に掲げてある海老原喜之助の「ポアソニエール」から始まった。
 「ボアソニエール」とはフランス語で魚、あるいは魚を売る人、魚を調理する人を意味するようだ。講演では「絵のなかの散歩」におさめられている「海老原喜之助『ボアソニエール』」の文章を引用しながら話は進んだ。
 実際にはこの「絵のなかの散歩」以外にもこの絵にまつわるエピソードを記載しているのは、「帰りたい風景」所収の「青い、小さな、スーッとするような絵」、ならびに「さらば気まぐれ美術館」所収の「幸福を描いた絵」の2編がある。そして講演ではこの3つをベースに講演が進められた。

 この3編、わたしも洲之内の文章で印象に残った文章である。「絵のなかの散歩」は殊に印象が強かったことを今でも覚えている。

「(S18年、山西省で関東軍の情報活動に従事させられたいた洲之内徹は)‥心が思い屈するようなとき、私はふと思いついて、‥「ボアソニエール」を見せて貰いに行くのであった。‥こういう絵をひとりの人間の生きた手が作り出したのだと思うと、不思議に力が湧いてくる。人間の眼、人間の手というものは、やはり素晴らしいものだと思わずにはいられない。‥美しいものが美しいという事実だけは疑いようがない。‥知的で、平明で、明るく、なんの躊躇いもなく日常的なものへの信仰を歌っている「ボアソニエール」はいつも私を、失われた時、もう返ってこないかもしれない古き良き時代への回想に誘い、私の裡に郷愁をつのらせもした‥。‥こんな偽りの時代はいつかは終る、そう囁きかけて、私を安心させてくれるのであった。」

 「帰りたい風景」に「青い、小さな、スーッとするような絵」という一文がある。

「‥学殖を競い教養を誇る多数の美術評論家と称する人達の中で、絵描きさんから一枚の絵を見せられ、アドバイスを求められて、ひと言「(病気の原因を一言で当てた医師の)歯だよ」と答えられる人が何人いるだろうか。と思った‥。」

 「さらば気まぐれ美術館」では「幸福を描いた絵」という一編がある。

「菊地せいさんという(洲之内徹を訪ねて来た)看護婦さんが、ある日、書店の店頭で手にとった「絵のなかの散歩」の口絵で原色版の〈ボアソニエール〉を見て、その場で買わなかったばかりに本を買い損ない、何年も探しまわったあげく、やっとその本を見つけて買った話を「青い、小さな、スーッとするような絵」という題で私は書いているが、菊池さんが容易にその本を見つけられなかったのは、彼女が本の題名も著者名も憶えておらず、ただ「本の初めの頁に青い、スーッとするような絵の載っている本です」といって尋ねるだけで、それでは本屋の方でも探しようがなかったからである。本の題名でだけではない。菊地さんは絵の題名も、作者の名前も知らなかった。ということは、菊池さんにとっては本も誰の本でもいい、絵も誰の絵でもいい、絵そのものだけが問題だったということになる」

「幸福とは何もそんな念の入ったものじゃない、と自分で言っておきながら念の入った話ばかりしているが、どう考えても、幸福とはやっぱり単純なことなのだ。当人が幸福だと思えばそれが幸福で、幸福になるのに格別面倒な手続きなどは要らない。‥幸福というもの自体が他愛がないのだ。」

 洲之内徹の文章は最初はとっつきにくかったが、すっかりその文章に慣れてしまった。何よりも「さらば気まぐれ美術館」で最初に引用した個所が気に入っている。

 実は「帰りたい風景」の同じ一編の中にこんな文章もある。

「(労働)組合というものについてのKさんの感じ方もちょっと変わっている。病名も不明のままでの死ぬのでは死にきれない、それがつらかったとKさんは言うのだが、そういう不安と孤独に直面させられている人間に、組合などというものは何の力にもならない。組合から見舞いの花束を贈られたりするよりも、むしろ掃除の小母さんあたりから、「天気が悪いと傷が病めるからねえ」と言われるほうが慰めになった、とKさんは言う。戦争には反対だが、自分が戦争に反対なの、血を流している傷口に風が当る痛さを思うからだ、とKさんは言うのである。」

 私はこの「帰りたい風景」を1985年頃に書店で立ち読みした。ちょうど労働組合の全国的な再編の動きが始まり、私の組合の主流派(全国的には少数派)の横暴に抗するなかで、この労働組合批判は身に沁みたとともに、自分の労働組合運動について「血の通った労働組合」のイメージを貰ったと思った。人の痛みや思いと共感できる組合、組合員との血の通った運動を自分なりに作りたいと心底思った。反面教師としてひとつの示唆を与えてくれた文章の一つであった。そして自分が労働組合の役員をしているが、定年で仕事を離れるまで、あるいはそれ以降も労働運動から離れないよう、一生の仕事として誇りある生き方をしたいと気持ちが固まった。その後間もなく新らしい組織の確立など私にとっては激動の時期が始まった。
 実は、高校1年生の1967年に「プラハの春」というチェコスロバキアでの民主化運動があり、当時のチェコスロバキアのドブチェク氏のとなえた「人間の顔をした社会主義」に私はおおいに惹かれた。それが私が政治や社会に目を向ける契機となったが、その時の気持ちを思い出させてくれた文章でもあった。

 自分の現在の生き様も含めて、それを照らし出してくれる文章である。

 



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