昨日は秋分であった。二十四節気のひとつ。この日一日を指す場合と、10月7日までの15日間を示す場合とがある。秋の彼岸の中日にあたる。昼と夜の時間がほぼ同じになる。
「秋分」という季語よりも「秋彼岸」の方がより使われる。二十四節気云々よりも墓参と結びついてこの日を指すためであろうか。
★嶺聳(そばだ)ちて秋分の闇に入る 飯田龍太
★秋彼岸ものより影のおおきかり 藤枝大成
第1句、「聳(そばだ)つ」は「山などがかどばって高く立つ。そびえる」ことをいう。峻厳な山であろう。秋分の闇に、月の明かりに、あるいは星や天の川が微かに照らす峰々は黒々とその存在を際立たせる。夜空とはいえ秋の澄んだ空はその黒々とした山巓をより際立たせている。山岳地帯の領域に入れば、山の冷気がそれをさらに鮮明に見せる。
森林限界を超えた山の景色が「秋分」を境に厳しくなっていく。樹林帯の山の秋は紅葉の色合いによって「山粧(よそお)う」と形容するが、ここでは大気と光による感覚である。
第2句、秋になり陽射しが低くなり、ものの影が長くなる。それはものの大きさよりも大きく見せる。これだけでは何の変哲もない形容であるが、何かの喩えのように受け取った。しかしそれはここでは何も記されていない。たぶん居丈高な人を前にした感慨なのだろう、周囲の人間関係のこじれなのだろうと想像するだけである。
さてここから先は私の妄想。 この数年、日本では「忖度」がまかり通る世界。人が自分を大きく見せようとし、周囲はそれをより大きいかのように振る舞うことで、格下の自分をより大きく見せようとする。かつての身分制社会を繰り返しているかのような戦後70数年の日本である。なぜか社会批判めいた受け取り方をしてしまった。作者にとっては不本意だろうが。