午前中の会議終了後、昼食時にテレビを見ていたら、どうも良く見えない。眼の調子がおかしいのかと思い、眼鏡をずらして眼精疲労の目薬をしてみた。しかしそれでもテレビの画面がぼやける。こんなに急激に眼鏡が合わなくなるほど、視力が一挙に悪くなったかと心配になった。
テレビを諦めてテーブルの上の本を読んでみたら、良く読める。不思議に思い、眼鏡をもう一度外してみると、読書用の眼鏡をしていた。
午前中の会議から帰宅するときにもこの読書用の中・近用の眼鏡をしたまま、団地の集会場から家まで歩いてきたことになる。石段などで躓かずに歩いて帰れたものだと自分でも呆れた。遠近両用の多焦点レンズをせずに、読書用眼鏡で外を歩き、家の中でテレビを見ていたことになる。ぼやけて見えるはずである。
こういう間違いに気がつかずに、自分の感覚がおかしくなったのではないか、ということで慌てることが月に一度くらいはある。眼鏡に限らず、パソコンやスマホの操作で次の動作が思い浮かばずに手が止まってしまったり、パソコンの電源を入れ忘れてモニターの電源だけを入れてパソコンが動かなくなったと慌てたり、数えたら恥ずかしい幾種類もの失敗がある。
友人に言わせると、「もう70歳を超えているんだぜ。自分の親が70歳を超えたときのことを思い出してみろよ」と諭される。確かにそれは頷けることである。
「そんなに卑屈になる必要はないか」ということで一応は納得する。しかしもう一人の私は、「そんなことで納得してどうする」と、自分のふがいなさに鞭を打とうとする。その声の反対側から「そんなに自分を追い込んでどうするんだ」という声もしてくる。頭の中で二つの傾向の言葉が飛び交い、自分が自分にイライラしてしまうことがある。イライラはしないで、そんな自分に呆れて、自分を嘲笑っている自分が出てくることもある。
多様な自分を楽しむのもまたいいのかもしれない。多重人格のような自分を楽しんでいるときもある。
いつの間にか、別の人格に乗っ取られる恐怖、というのが10代のころにありました。