クーラーの新規取付に伴う躯体への穴あけについては本日見積もりに来た業者は対応できないということで、まだまだ時間がかかりそうである。いろいろと面倒なことになりそうである。
午後からは横浜駅近くの喫茶店で読書タイム。まずは雨月物語の「菊花の約(ちぎり)」を読み終えてから、昨日に続いて「浄土思想」(岩田文昭、中公新書)の第2章「中国の浄土思想」を読み終えた。
中国の浄土思想に展開や有り様についてはまったく知らなかったに等しい。今回初めて「善導」の事蹟を知った。
「浄土の空間的位置について善導は思索を巡らしている。矛盾する経典の文言について善導は解釈を試みる。迷いの世界とさとりの世界との区別があるので、浄土は俗世を超越するという点では遠くに位置している。しかしその超越は迷いの世界を内に包むもので遠くないのだ、と説明する。善導の浄土観は感覚的なイメージを重要視した素朴な救済観だと思う人もいるかもしれない。善導の思想には理性や知性のみで生きることのできない、有限な身体をもった具体的な人間の救済の哲学がある。人間がこの世界から浄土に行くという超越性とともに、浄土からこの世界に働きかける超越性があるというのである。‥実のところ、有限に人間の全体的な救済を可能にする宗教的地平を開いているのである。いづれにしても、善導の浄土観が日本の浄土思想の大枠となったのである。」
「信」という地点からあまりに遠くいる私は、無量寿経も、観無量寿経も、阿弥陀経もつい現代の論理に合わせて読んでしまう。論理矛盾があったり、経典と違う解釈を見るとそこにこだわってしまいがちである。論理的整合性と「信」とは結びつくことはない。また「衆生」との距離の問題、自分の救済ではなく「煩悩に覆われた凡夫=自分」を出発点とする人間救済のための方便、これに私などは躓いてしまう。現代の言葉でいえば、大衆像をいかにどのように、どのような水準で自分の理念に組み込むことができるか、という自問自答が常に求められる。
とりあえずはそんなことを自分で再確認しながら、次に進みたい。