昨日は、ブリヂストン美術館に夕刻におもむき、「追悼ザオ・ウーキー」展と「色を見る、色を楽しむ。-ルドンの『夢窓』、マティスの『ジャズ』-」展を観てきた。
15時45分に美術館に着き、1時間余り。大半の時間はザオ・ウーキーの9作品と、マティスの「ジャズ」シリーズ全20点を見る時間に費やした。
「追悼ザオ・ウーキー」展は第10室だが、まず最初にここに入った。
ザオ・ウーキーについては上記の解説が展示室に掲げられている。私が始めてみたのはいつだったか覚えていないが、このブリヂストン美術館で見たのだと思う。
「07.06.85」と題された圧倒的な青い色にビックリするとともに、その不思議な吸引力に吸い寄せられた。題名どおり1985年の作だから、今から28年前以降に見たことになる。ブリヂストン美術館では、ザオ・ウーキー展も催されているがその時ではなかったと思う。
以降、この美術館には必ず展示されているので必ずその前に立ち止まって、どんな場面か、具体的な風景を想像しながら時間をたっぷりかけて楽しんでいる。具体的な風景を想像するなんていうのは、抽象絵画の鑑賞としては邪道になるのかもしれないが、それは許してもらおう。現に今回も展示されている「風景 2004」も同じような絵だが「風景」という名称が使われている。こんな鑑賞が前提の絵と思っている。
今回「無題」「サヴァンナ」「風景 2004」「24.02.70」を初めて観た。他の作品は時々展示されているので良く記憶している。「風景 2004」は緑がとても鮮やかで、右側の山と思しき景色と開けた平野、そしてそこをわたる風を、特にこの緑の風に身を委ねることを想像する。とても気持ちの良い風である。しかし色彩的に観るとこの鮮やかなうすい緑は少々眼に強烈過ぎる。余り刺激を好まない私の目には鮮烈過ぎる。
パウル・クレーを思い出させる「21.Sep.50」のほかは、「24.02.70」「15.01.61」などがとても親しげに私に語りかけてくれる。いつものように私は、今回もいろいろな風景をこられの絵に当てはめながら楽しんだ。
「15.01.61」は砂漠の都市の遠景、それも旧約聖書のソドムとゴモラの都市の破壊の前段の混沌としたありようをふと、想像もした。逆にシルクロードのオアシスのようなひっそりとした町並みも想像してみた。「24.02.70」では、中国南部の川に沿った町を想像してみた。
「色を見る、色を楽しむ。-ルドンの『夢窓』、マティスの『ジャズ』-」展ては、マティスの『ジャズ』のシリーズ20点をまとめて楽しんだ。以前にも20点をまとめて見ることがあったような気がする。
このシリーズ、一点を見るよりも20点まとめてそのリズムを楽しむのがいい。不思議な形がいろいろなリズムを想像させる。私はリズムに合わせて体を動かすということはとても苦手で出来ないが、想像するのは好きだ。それも私の体内時計に合致したリズムが刻める。
ルドンのリトグラフ集『夢窓』は2011年の三菱一号館美術館のルドン展でも見たと思うが、昨日の気分とはちょっと相容れなかった。これは人を内省的にさせる。時間的にも気分的にも観るゆとりがなくて、残念ながらその前を少しゆっくりとはしたが、通り過ぎてしまった。
15時45分に美術館に着き、1時間余り。大半の時間はザオ・ウーキーの9作品と、マティスの「ジャズ」シリーズ全20点を見る時間に費やした。
「追悼ザオ・ウーキー」展は第10室だが、まず最初にここに入った。
ザオ・ウーキーについては上記の解説が展示室に掲げられている。私が始めてみたのはいつだったか覚えていないが、このブリヂストン美術館で見たのだと思う。
「07.06.85」と題された圧倒的な青い色にビックリするとともに、その不思議な吸引力に吸い寄せられた。題名どおり1985年の作だから、今から28年前以降に見たことになる。ブリヂストン美術館では、ザオ・ウーキー展も催されているがその時ではなかったと思う。
以降、この美術館には必ず展示されているので必ずその前に立ち止まって、どんな場面か、具体的な風景を想像しながら時間をたっぷりかけて楽しんでいる。具体的な風景を想像するなんていうのは、抽象絵画の鑑賞としては邪道になるのかもしれないが、それは許してもらおう。現に今回も展示されている「風景 2004」も同じような絵だが「風景」という名称が使われている。こんな鑑賞が前提の絵と思っている。
今回「無題」「サヴァンナ」「風景 2004」「24.02.70」を初めて観た。他の作品は時々展示されているので良く記憶している。「風景 2004」は緑がとても鮮やかで、右側の山と思しき景色と開けた平野、そしてそこをわたる風を、特にこの緑の風に身を委ねることを想像する。とても気持ちの良い風である。しかし色彩的に観るとこの鮮やかなうすい緑は少々眼に強烈過ぎる。余り刺激を好まない私の目には鮮烈過ぎる。
パウル・クレーを思い出させる「21.Sep.50」のほかは、「24.02.70」「15.01.61」などがとても親しげに私に語りかけてくれる。いつものように私は、今回もいろいろな風景をこられの絵に当てはめながら楽しんだ。
「15.01.61」は砂漠の都市の遠景、それも旧約聖書のソドムとゴモラの都市の破壊の前段の混沌としたありようをふと、想像もした。逆にシルクロードのオアシスのようなひっそりとした町並みも想像してみた。「24.02.70」では、中国南部の川に沿った町を想像してみた。
「色を見る、色を楽しむ。-ルドンの『夢窓』、マティスの『ジャズ』-」展ては、マティスの『ジャズ』のシリーズ20点をまとめて楽しんだ。以前にも20点をまとめて見ることがあったような気がする。
このシリーズ、一点を見るよりも20点まとめてそのリズムを楽しむのがいい。不思議な形がいろいろなリズムを想像させる。私はリズムに合わせて体を動かすということはとても苦手で出来ないが、想像するのは好きだ。それも私の体内時計に合致したリズムが刻める。
ルドンのリトグラフ集『夢窓』は2011年の三菱一号館美術館のルドン展でも見たと思うが、昨日の気分とはちょっと相容れなかった。これは人を内省的にさせる。時間的にも気分的にも観るゆとりがなくて、残念ながらその前を少しゆっくりとはしたが、通り過ぎてしまった。
人はベスト心のままで、いつも居る訳ではないですから、ワースト心のまま、味あわねばならないときもあるのでしょうな。鑑賞は絶好調状態で、すべきなんでありましょうな。しかし心には、鑑賞不向き状態な時がありますな。鬱々とめげている時は、いけませんな。