漱石は1912(大正元)年第6回文展を批評した「文展と芸術」という文章を表した。
引用は私流の今現在の表記に書き換えた(漱石先生ゴメンナサイ)。
*佐野一星 「ゆきぞら」
画家は第6回文展初入選。
「その屏風はべた一面枝だらけで、枝はまたべた一面鳥だらけであった。それが面白かった。」
当時として斬新な視点の絵であったと思われる。今見ても実に斬新な絵だと思える。枝の遠近感も丁寧に表現され、背景の空も複雑なグラデーションがあり、とても手が込んだ作品に見える。
漱石は新しい視点、境地を提示するものに的確に反応しているようだ。
*安田靭彦 「夢殿」
第6回文展で最高の二等賞。原三渓が買い上げたとのこと。
「自分は安田靭彦君の『夢殿』という人物画を観て何という感じも興らなかった。(中略)あとで聞くと是は大分評判の高い作だそうである。聖徳太子とかの表情の、飽く迄も荘重に落ち着いているうちに、何処か微笑の影を含んだ萌のの見える所が大変能く出来上がっているのだそうである」
漱石の評、後半は伝聞の文章で、とてもつっけんどんである。私の感想を云えば、この聖徳太子も侍女も、僧行の人物も皆表情が無いに等しい。人格も苦悩も煩悩も、救いへの欲求も、悟りの境地も、人間的な感情がまるで読み取れない。画家の修行者に対する感情、苦悩というものに対する思い入れが感じられないということではないだろうか。画家の意思も投影されていないと思える。
*今尾景年 「躍鯉図」
画家は第6回文展の審査委員。漱石は京都画壇の写生的傾向に冷ややかな見方、と図録に記載されている。
「鯉は食うのも見るのも余り好かない自分である。この踊り方に至っては甚だ好かないのである。」
評というより漱石の好みを述べただけのような気の毒な評であるように見えるが、実はこの鯉の踊り方・跳躍が現実離れしていることを指摘しているのではないか。こんな飛び方をしない。
まして虫をねらって飛んでいるのに空振りの飛び方である。虫が予定外の飛行で狙いが外れたらこんな口をあけ方をしない。まるでドジでちょっと抜けた鯉でしかない。漱石の批評は辛らつである。
*木島桜谷 「寒月」
第5回に続き第6回でも連続で二等賞を取った作品。期待の若手作家として活躍しており、翌年から審査委員を務めた。「寒月」は今日代表作として写実・抒情が高い評価、と図録に記されている。6曲2双の大作である。
「去年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい、今思い出しても気持ちの悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於ては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹とそれから狐だか何だか動物が一匹いる。その月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。所が動物はいえ昼間ですと答えている。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」
昨年まで遡っての酷評、そこまで新聞に公表するかという具合に執拗に酷評している。何か個人的な背景でもあるのかと疑いもする。当時は写真が芸術作品とは見なされていなかったのだろうが、写真屋さんもむっとしたろう。
私は左上から右下への雪の線と竹の垂直の線、右上の月と中央やや左下の狐の斜線、これがこの絵の基本的な構図だとまず直感した。次に中央に竹が密生し左右にまばらになる粗密の具合が面白いと思った。特に左の竹のまばらな空間の奥行もこだわりの描写らしい。さらに左端は黄色がもやのように煙っている。
私は最初難があるとしたら竹以外の木々やその葉、あるいは狐と月の間にある倒れた竹がうるさいと感じた。ふとこの絵より数少ない松竹を描いた長谷川等伯の「松竹図」の絵を思い出して、確かにあの方が数が少ない木や竹にもかかわらず、あるいはそうであるためにかえって幻想的でいいと感ずるのが私の感性である。
さて、漱石は何をいいたかったのであろうか。月と竹と狐が何の関係もなく画面にそれぞれに自己主張しているという統一感の欠如を指摘したかったのだろうか。あるいは三つもの要素が不要といいたかったのだろうか。それとも構図の意図が見えすぎるといいたかったのだろうか。新しい視点が欠如している、または旧来の手法に安住しているという批評なのだろうか。
確かに、右端の寒々しい世界と左端の靄による温み、昼・夜の感じの曖昧さは感じられなくもないが、果たして決定的な欠点だろうか。一方で図録にあるような「写実と抒情に高い評価」といわれると、「そんなに評価できるのか」とも思う。
これは漱石の「文芸と芸術」の前半の総論部分をもう一度じっくりと読み直さなくてはいけないと思った。
この外に、今村紫紅の近江八景について「是は大正の近江八景として後世に伝わるがどうかは疑問であるが、兎に角是迄の近江八景ではない様である」と述べている。
また寺崎広業の瀟湘八景に対し「広業君のは細い筆で念入りに真面目に描いてあった。ことに洞庭の月というのには、細かい鱗の様な波を根限り並べ尽くして仕舞った。此子供の様な大人ののする丹念さが、君の絵に一種重厚の気を添えている」と評した。
横山大観の同じ題の絵には「気の利いた様な間の抜けた様な趣があって、大変に巧みな手際を見せると同時に、変に無粋な無頓着な所も具えている」と記した。
画風の独自性や新しい視点、旧来の手法にとらわれない絵を評価する傾向があるようだ。また単なる写生ではなく、結構装飾性に秀でたものも評価するように感じられた。
今回は、とりあえず日本画の部分で気になったところを記してみた。次回は西洋画についての漱石の指摘を自分なりに考えてみたい。
引用は私流の今現在の表記に書き換えた(漱石先生ゴメンナサイ)。
*佐野一星 「ゆきぞら」
画家は第6回文展初入選。
「その屏風はべた一面枝だらけで、枝はまたべた一面鳥だらけであった。それが面白かった。」
当時として斬新な視点の絵であったと思われる。今見ても実に斬新な絵だと思える。枝の遠近感も丁寧に表現され、背景の空も複雑なグラデーションがあり、とても手が込んだ作品に見える。
漱石は新しい視点、境地を提示するものに的確に反応しているようだ。
*安田靭彦 「夢殿」
第6回文展で最高の二等賞。原三渓が買い上げたとのこと。
「自分は安田靭彦君の『夢殿』という人物画を観て何という感じも興らなかった。(中略)あとで聞くと是は大分評判の高い作だそうである。聖徳太子とかの表情の、飽く迄も荘重に落ち着いているうちに、何処か微笑の影を含んだ萌のの見える所が大変能く出来上がっているのだそうである」
漱石の評、後半は伝聞の文章で、とてもつっけんどんである。私の感想を云えば、この聖徳太子も侍女も、僧行の人物も皆表情が無いに等しい。人格も苦悩も煩悩も、救いへの欲求も、悟りの境地も、人間的な感情がまるで読み取れない。画家の修行者に対する感情、苦悩というものに対する思い入れが感じられないということではないだろうか。画家の意思も投影されていないと思える。
*今尾景年 「躍鯉図」
画家は第6回文展の審査委員。漱石は京都画壇の写生的傾向に冷ややかな見方、と図録に記載されている。
「鯉は食うのも見るのも余り好かない自分である。この踊り方に至っては甚だ好かないのである。」
評というより漱石の好みを述べただけのような気の毒な評であるように見えるが、実はこの鯉の踊り方・跳躍が現実離れしていることを指摘しているのではないか。こんな飛び方をしない。
まして虫をねらって飛んでいるのに空振りの飛び方である。虫が予定外の飛行で狙いが外れたらこんな口をあけ方をしない。まるでドジでちょっと抜けた鯉でしかない。漱石の批評は辛らつである。
*木島桜谷 「寒月」
第5回に続き第6回でも連続で二等賞を取った作品。期待の若手作家として活躍しており、翌年から審査委員を務めた。「寒月」は今日代表作として写実・抒情が高い評価、と図録に記されている。6曲2双の大作である。
「去年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい、今思い出しても気持ちの悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於ては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹とそれから狐だか何だか動物が一匹いる。その月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。所が動物はいえ昼間ですと答えている。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」
昨年まで遡っての酷評、そこまで新聞に公表するかという具合に執拗に酷評している。何か個人的な背景でもあるのかと疑いもする。当時は写真が芸術作品とは見なされていなかったのだろうが、写真屋さんもむっとしたろう。
私は左上から右下への雪の線と竹の垂直の線、右上の月と中央やや左下の狐の斜線、これがこの絵の基本的な構図だとまず直感した。次に中央に竹が密生し左右にまばらになる粗密の具合が面白いと思った。特に左の竹のまばらな空間の奥行もこだわりの描写らしい。さらに左端は黄色がもやのように煙っている。
私は最初難があるとしたら竹以外の木々やその葉、あるいは狐と月の間にある倒れた竹がうるさいと感じた。ふとこの絵より数少ない松竹を描いた長谷川等伯の「松竹図」の絵を思い出して、確かにあの方が数が少ない木や竹にもかかわらず、あるいはそうであるためにかえって幻想的でいいと感ずるのが私の感性である。
さて、漱石は何をいいたかったのであろうか。月と竹と狐が何の関係もなく画面にそれぞれに自己主張しているという統一感の欠如を指摘したかったのだろうか。あるいは三つもの要素が不要といいたかったのだろうか。それとも構図の意図が見えすぎるといいたかったのだろうか。新しい視点が欠如している、または旧来の手法に安住しているという批評なのだろうか。
確かに、右端の寒々しい世界と左端の靄による温み、昼・夜の感じの曖昧さは感じられなくもないが、果たして決定的な欠点だろうか。一方で図録にあるような「写実と抒情に高い評価」といわれると、「そんなに評価できるのか」とも思う。
これは漱石の「文芸と芸術」の前半の総論部分をもう一度じっくりと読み直さなくてはいけないと思った。
この外に、今村紫紅の近江八景について「是は大正の近江八景として後世に伝わるがどうかは疑問であるが、兎に角是迄の近江八景ではない様である」と述べている。
また寺崎広業の瀟湘八景に対し「広業君のは細い筆で念入りに真面目に描いてあった。ことに洞庭の月というのには、細かい鱗の様な波を根限り並べ尽くして仕舞った。此子供の様な大人ののする丹念さが、君の絵に一種重厚の気を添えている」と評した。
横山大観の同じ題の絵には「気の利いた様な間の抜けた様な趣があって、大変に巧みな手際を見せると同時に、変に無粋な無頓着な所も具えている」と記した。
画風の独自性や新しい視点、旧来の手法にとらわれない絵を評価する傾向があるようだ。また単なる写生ではなく、結構装飾性に秀でたものも評価するように感じられた。
今回は、とりあえず日本画の部分で気になったところを記してみた。次回は西洋画についての漱石の指摘を自分なりに考えてみたい。
ただ今回の展覧会では、夏目漱石というフィルターを通した作品が集められています。
ですから、漱石がどのように評価したかをまず紹介し、それと自分の感性との距離を確認する順番になるでしょうね。
見てもいない私が、偉そうなことを申しました<(_ _)>
今回は漱石の芸術論・絵画論を浮き彫りにするための展覧会でした。私も私なりの方法でそれを試みようと思ったんです。それが実現できているとは自身はありませんが‥。
私も漱石の芸術論に分け入ってみたかった。でも少し難しすぎますね。手に負えないような気もします。
私は、「ゆきぞら」は漱石先生の評の如何にかかわらず好きです。「寒月」も好きな部類に入ります。鯉は鯉だけ、水は水しぶきだけならいいと思います。虫と跳躍のし過ぎが好みではありません。「寒月」が気に入らない漱石の根拠を探って漱石の芸術論・絵画論を覗いてみたかったんです。
除けたとは思えないですけど‥。それに少し漱石先生は依怙地に評していますね。ここがよくわからないというか、漱石先生の漱石先生らしいとこかもしれません。
しかし私の能力には無理な試みでしたかね。それが文章の情けなさ、思いの伝わらない文章になったようです。
だけど私なりに努力してみたいと思います。
逃げおおせたほうの虫は、くわばらくわばら、と、間一髪で、大汗かいている風に見える。
確かに鯉の跳ね上がりは、氏の言うとおり、あまりないのかもしれないが、しかし水の形がいいですな。
ぬふんむむ、漱石式フィルターですかな。
鯉による、虫に対する恋の跳躍ですかな。
いや飛躍ですかな。うるせえ虫たちだな、それっ、バッシャ、バッシャ!
外はすごい雨ですな。これは驟雨とは言えないのでしょうな。