コーヒータイムでは昨日に続き「図書4月号」から次の6編を読んだ。
・はじまりの京都文学レジデンシー 吉田恭子
・造本の使命 新島龍彦
「本の未来を語る時、不安や衰退のイメージに囚われたり、既存の紙の本の力を過信してしまうと、今の現実からどんどん離れていってしまうます。・・・一人でも多くの人に多様な本のあり方を知ってもらうことは、造本家とといの使命・・。」
この随筆は読み応えがあった。ただただ消費されるためだけに量産される出版物ではない、「本」のあり方は魅力的であった。
・ラテンアメリカの冷戦と文学 久野量一
・父母の書棚から 谷川俊太郎
「‥(戦後)私にはそんな読書への飢えはありませんでした。逆に多すぎる本に対して嫌悪のようなものを抱くようになり、ひいてはそれが人間の言語そのものへの不信感につながって、私の詩作のエネルギーの一端になっているのです。言葉を疑うことで言葉では名指すことのできない実体に迫ろうとする矛盾が、私には必要であるらしい。」
「 目の前に在る物 ‥//メモ用紙/眼鏡 と/ここまでは/ほぼ正確に絵に描けるが/ラップトップ/となると/内蔵された情報のせいで/目の前に在る物だけでは済まなくなり/言葉は拡散し始めて/世界はどんどん形を失ってゆく」
・灰色の男の葉巻のけむり 吉田篤弘
「(『モモ』は)「時間」と「心」による闘いの物語ではないかと思うのです。しかし、それにしても、おかしなもので、我々は、「時間」も「心」も一度として目にしたことがないのに、いつでも、そのふたつが自分のすぐそばにあると信じています。‥「時間」と「心」の戦いとかきましたが、戦いというものは、さて、どうしてなのか、本来、一つであるべきものが起こすものです。‥この物語で語られる「時間」と「心」はきっと同じものなのでしょうし、「時間」と「心」が結びつくところに、この物語の尊さがある‥。」
冒頭部分をここまで読んできて、大昔にこの物語を評して、友人だったか先輩だったかが「「内在的時間」と「外的・物理的時間」を結びつけるのが、「主観」」と言っていたのを思い出した。そしてそれでわかった気になってそのまま50年近く過ぎたことを思い出した。
言葉を変えるとわかった気になる、という典型だろうか。
「作者は、敵対するものが自分たちの外にあるのではなく、他ならぬ自らの中にあることを「時間」と「心」を戦わせることで示しました。」
これがこの文章の結語にある。「外的時間と内的時間を統御できなくなるのが「病」の入口である」というような趣旨のことも言われた。
・ウィーン万博に始まったデザインの国家指導 新開公子