Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「魔女狩りのヨーロッパ史」

2024年05月16日 22時09分33秒 | 読書

 昨日から本日にかけて「魔女狩りのヨーロッパ史」(池上俊一、岩波新書)の第6章「女ならざる“魔女”」、第7章「「狂乱」はなぜ生じたのか」、第8章「魔女狩りの終焉」、おわりに「魔女狩りの根源」、あとがき、を読了。

社会的地位もある男性が〝魔女〟にされる台のケースは社会全体の優良な秩序を壊し家長の役目を果たせない、情けない男と見なされた場合。第二の状況は魔女迫害が異端追及と密接に結びつけられたとき。第三の状況は魔女狩りが制御のきかないものになって連鎖反応式に密告・告発がつづく場合。皆が集団ヒステリー状態に陥り、男であれ高い身分であれ、やみくもに知人の名前を共犯者として挙げていった結果である。」(第6章)

魔女狩りが横行する背景としては、何らかの災いがまん延して人々に不安心理が広がる状況が考えられる。第一に気候不順。ヨーロッパで魔女狩りが荒れ狂った1560~1630年は小氷期と呼ばれる。1660~1670年代にも再来。」(第7章)
疫病は気候悪化ほど関連性は明らかではない。標的を定めない激甚なる疫病を、魔女の害悪魔術とするのは無理があり、むしろ罪深い人類への゜神の怒り」「神罰」と機会されたのだろう。」(第7章)
戦争との関連はどうだろうか。戦争には明確な「敵」があり、そこに注力しているときに、別の「敵」=魔女を裁いている余裕はないのだろう。「魔女狩りは平和なときに起きる」という言明は正しい。」(第7章)

魔女迫害は、国王(君主)の連力強化と関連していた。中央集権の絶対主義体制構築のためのイデオロギーを国家が確立して、従順な臣民を創出することが不可欠だった。魔女狩りの主な熱源のひとつはイデオロギー形成に協力する司法官を中心とする世俗エリートと聖職者のエリートたちが国王・領邦君主をいただき、厳格なキリスト教道徳の実践を特徴とする政治的共同体である神的国家を創造しようと決意したところにあった。」(第7章)

魔女狩りの開始・蔓延を宗教改革と結びつける考え方がある。しかし魔女狩りはルターのはるか前から始まっていた。逆に魔女狩りをもっぱらカトリック的現象と片づけることもできない。ドイツの魔女裁判を見ると、宗派による根本的な違いは見出せない。魔女裁判はカトリックとプロテスタント双方に、相手を呪う手段を与えた。互いに悪魔の手先とまで呼び、相手の存在・勃興をサタンの業と見ることもあった。しかし双方が相手を直接迫害するために魔女裁判を利用したわけではない。」(第7章)

ヨーロッパ諸国において世俗化が進み、政治から文化に至るまで生活全般へのキリスト教の規範力が弱まると、スコラ学的思考システムが懐疑の目でみられ、神の秩序とは別のものとして、宇宙と自然を科学的に説明しようという機運が高まってきた。17~18世紀にかけて、合理主義的な考え方が一般の人々にまで徐々に広まっていった。悪魔学的な思想も、不合理なものと見なされるようになった。」(第8章)

ヨーロッパやキリスト教という限定を外した人類学的な魔女観念と、そうした考えを糧にした者たちの組織作りは、まさに現代風のグローバルな魔女現象であろう。」(第8章)

現代でもなお頻発している、アフリカやインドの魔女狩り(リンチ殺人)は、魔女狩りの人類学的な基層を推測させる。人類はどうしても対処・解決する手段がない異常な困難事象に遭遇したときに、絶望するかわりに魔術的儀式に頼って不安を解消してきたい、今でもしているのならば、姿形は変われど、魔女狩りに類した蛮行は今後も世界じゅうで起こり得るだろう。魔女狩り終息後の近現代においてもユダヤ人迫害や黒人差別を繰り返してきたヨーロッパは、そうした人類共通の暗い人間性・社会性の基層に、ヨーロッパ一流の形式合理主義を組み合わせており、いっそうたちが悪い。理性的・合理主義的でないから魔女狩りが起きたのではなく、理性が陥りやすい罠に深々とはまったからこそ起きたのだ。」(おわりに)

 第7章以降、論理の飛躍などが目に付くが、とりあえず気づいた箇所を引用してみた。第8章「魔女狩りの終焉」に「合理主義」を根拠にしているのは、無理な上滑りを感じる。「おわりに」の提起とも相容れない。
 現代に日々生起する「魔女狩り」のような事象の究明にはこの著書の展開からは無理がありそうな気がした。
 人間の集団が困難に直面し、相互不信に陥り、相手集団の抹殺へ、そればかりか集団内部での抹殺へと至る過程の解明に少し期待を掛けていた。期待は空振りに終わった。私がもっと主体的に考えなくてはいけないことなのだが・・・。


湿気と強風と

2024年05月16日 19時57分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 午後からは晴れたものの湿度は高かった。夜に入り風が強くなって唸っている。最大瞬間風速は19時前に19.2mの南西の風を記録している。

 午後の会議終了後は、横浜駅に出て、いつもの喫茶店で読書タイム。のんびりと出来た。

 明日の午前中は歯医者、午後は二人で都内へ出かけることになった。


取り留めもなく作業三昧

2024年05月15日 21時05分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 退職者会の作業を朝から夜まで、ポツリポツリと続け、出来上がった資料を近くの郵便局から郵送。その合間に横浜駅まで出かけて、書店で立ち読み三昧と、いつもの喫茶店で読書タイム。
 読んだ本は「魔女狩りのヨーロッパ史」の第6章全体と第7章の一部。読み始めてずいぶん時間が経ってしまった。次の予定も詰まっており、少々焦り気味。

 退職者会の作業は6月のブロックの総会に向けて、少額とはいえ会計報告、監査報告、そして総会の通知などの仕事。議案書は来週までには作り上げる予定。それなりに準備作業は出来上がりつつある。

 明日は退職者会関連の会議で外出予定。

 


「魔女狩りのヨーロッパ史」 第5章

2024年05月14日 22時12分24秒 | 読書

 本日読んだのは「魔女狩りのヨーロッパ史」の第5章「サバトとは何か」。サバト(悪魔を中心とする魔女集会)がどのように「裁判」をとおして述べられているか、どのような形体であったかを明らかにしている章である。

あべこべのミサが行われるが、それはカトリック教会の典礼・儀式を嘲笑するパロディとなっている。
魔女の知識が一般に広まるにはいくつものルートがあり、そのひとつとして出版文化がある。魔女文学をもとにした図像が、知識普及に貢献した。混じ観連テーマにまず先鞭をつけたのは、南ドイツとスイスの画家・版画家であった。すなわちアルブレヒト・デューラー、・・・、ついで16世紀のネーデルラントにも同テーマが広がったが、ピーテル・ブリューゲル(父)・・などがいた。
画家たちが盛んに描いた魔女とサバト、必ずしも彼らが魔女の妖術やサバトを心底信じていたことを意味しまい。彼らは「想像力」の問題に並々ならぬ興味を覚えて、それを画家としていかに操るかを試すのに恰好のチャンスだと信じて、画題としての魔女・サバトに食指が動いたのではないかだろうか。

 デューラーやブリューゲルの作品を見るとき、よくわからない作品が多数ある。この「悪魔」「魔女」という視点から、作品を見たいと思う。
 


蕎麦店と喫茶店と眼科と

2024年05月14日 20時53分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 天気がよくなり明るい陽射しのもと、昼食は久しぶりにふたりで近くの蕎麦店に行った。昼時で混雑している時間帯ではあったが、たまたま席が空いた時に入ることが出来た。
 親の通院の付き添いまで時間があるので、近くの喫茶店に入り1時間ほどの読書タイム。「魔女狩りのヨーロッパ史」の第5章を読み終えた。
 いったん家に帰り、眼科に同行。眼科はとても混雑しており1時間以上待合室で待った。しかし薬局はとてもすいて待ち時間もわずかで済んだ。
 付き添いののち、ふたたび外出して横浜駅まで。書類を綴じるファイルを百円ショップで購入し、書店で立ち読み。

 近くの緑道の植わっていたブラシの木の花を久しぶりに見た。また近くにはツユクサも一株咲いていた。
 最近ツユクサを見る機会が減ったような気がする。中学生の頃はこの近くを通るたびに、たくさん咲いているのを見かけた記憶がある。川を埋め立てたこの道の形状もずいぶん変わっている。止むを得ないことであろうか。

   


 


本日も休養日

2024年05月13日 22時13分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 16時過ぎに注意報が一部解除され、大雨・雷注意報の二つとなった。21時前にこの残っていた二つの注意報も解除となった。かなりの強い風雨が予想されたが、そうはならなくてホッとしている。雨は上がっている。

 午後からの親の通院は薬が無くなりそうな一つだけにした。もう一ヵ所は薬がまだあるので、明日以降に延期。明日は晴れるようなので、体調がよければ午後にしたい。
 親の通院の付き添いから帰宅して、無性に眠くなり、15時から3時間近く寝てしまった。昨日に続いて体も脳も休養日となった。

 夕食時のお酒もあまり飲めなかった。もともと家では日本酒で半合、または缶酎ハイのレギュラー缶半分程度しか飲んでいない。本日はさらにその半分程度でやめた。外呑みで飲む量との格差が最近はどんどん大きくなっている。本日は一人での外呑みの量の四分の一以下ぐらい、大勢で飲む場合の八分の一程度だろうか。

 


神奈川一水会展

2024年05月13日 20時58分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



 明日から「神奈川一水会作家展」。中学・高校の時の美術教師の一人が毎回出品している。当時の教師の中で今でも音信のある数少ない恩師である。残念だが、世話になった先生の多くが早逝されている。
 当時の学校経営や教育方針にいろいろと問題が山積みであった。ゴマすりやいい加減な教師には強烈な嫌気ももよおしていた。
 しかし多くはなかったが、私には「恩師」と呼べる教師も幾人かはいた。その方たちからはずいぶんいろいろなことを勉強させてもらった。
 教科の内容だけでないことを教わった教師のほうが、誰もが「恩師」と思うのではないだろうか。あるいは直接会話をする機会は少なかったものの身の振舞い方に多くのことを学んだ教師も多かったと思う。
 就職して10年くらいしてから、母校の労働争議の支援に呼ばれた。世話になった先生のほとんどが組合員であったので、その支援活動を通じてお付き合いを再開するようになった。それ以来毎年とは言えないものの、できるだけこの展覧会には顔を出している。

 


歯医者

2024年05月13日 13時19分20秒 | 病い

 濃霧注意報は10時過ぎに解除になった。しかし現在は大雨・洪水・強風・雷・波浪注意報が出ている。
 午前中の歯医者の通院には特に支障はない程度の雨と風であった。昨日の予報よりも雨はそれほどひどくはなっていない。午前中よりも雨は弱く、空も少し明るい。しかし今後はどうなるのか、心配である。

 本日歯医者では2本目の歯の治療が1日で終了。金曜日に再度3本目の治療ということになった。しかし通っている歯医者は治療が早いうえに長持ちする。今回も他の歯医者で治療したところが滲みるようになったり、食べ物がはさまったりするようになった歯の治療である。現役時代は、この歯医者と職場の傍の歯医者を交互に利用させてもらったが、こちらの歯医者で直してもらった歯は未だに問題ない。
 私が現役時代に長期入院した総合病院の看護師たちも「腕がいい」と評判であった。
 近くに腕のいい親切な歯医者があるのはとてもありがたい。

 午後からは親の通院の付き添いであるが、まだ通院に踏み切るか、結論は出していない。


強風・雷・波浪・濃霧注意報

2024年05月12日 22時18分13秒 | 天気と自然災害

 強風・雷・波浪・濃霧注意報という珍しい組み合わせの4つの注意報が出ている。強風と濃霧注意報が対になっていることに驚いた。
 明日は終日雨が降るとのこと。しかもかなり強い雨のようである。昼間は南風、夜からは北風に変わるらしい。

 午前中の強い雨の頃に近くの歯医者を私は予約している。これは私一人なので通院可能であろう。午後は雨が弱くなるようだが、しかし親の通院の付き添いである。雨の状況によってはキャンセルをして、別の日に行かざるを得ない。
 夜になって北風になってから再度雨が強くなる予報になっている。

 明日はウォーキングは無理。そのかわり明後日の雨の予報は、曇りとなった。

 これより団地を一周だけでもしてくる気になった。

 


曇り空と休養日

2024年05月12日 19時32分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 一昨日・昨日とは違って陽射しのない一日となった。寒くはなく、日中は暖かいくらい。
 昨日は午前中に団地の管理組合の諮問機関の会議と見回り。
 本日の午前中は団地内の草取り。
 午後遅くなってからブラブラと出かけた。本日はあまり歩かず、歩数計も5000歩未満で帰宅。夜のウォーキングをする気力が湧いてくるか、自信がない。
 いつもの喫茶店で15分ほどの読書タイムとしたものの、ほとんど読み進められなかった。書店での立ち読みの方が長かった。
  結局のところ、本日は休養日となった。

 明日からは雨。


永瀬清子詩集から「月について」

2024年05月11日 21時15分56秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 「永瀬清子詩集」を一昨日からめくっていた。1954年の詩集「山上の死者」に「月について」という詩があった。作者は1906年生まれ、1995年89歳で亡くなっている。作者が48歳ころの作品であろう。

 月について     永瀬清子

 東の空に燃えるように懸かっている月は
 今わが肺腑から噴き昇ったのだ。
 彼女の裏側の峨々たる山水は人にみえない。
 その山巓は死の輪をはめている。
 そこには樹もない水もないのだ。
 千仭の瞼と寂寥の唇。
 その裂け目は何万年もふさがらないのだ。
 汝は輝く反面もて人に対う
 けれども力尽きてやがてそれは欠けゆくのだ。
 (略)
 地上では山や谷は絶え間なく風化するが
 お前の山水は常に変わらず屹立している。
 お前をなだめるものは何もない。
 静かにお前の軌道を変えようと誘うものもない。
 今炎のように燃えさかっている月よ。
 枯れ且つ輝けるわが魂よ。

 不思議な詩で何を何に例えているか、言葉は優しいが、わかりにくい点もある。しかし私は最後の「今炎のように燃えさかっている月よ。/枯れ且つ輝けるわが魂よ。」に惹かれた。
 今ではすっかり解ってしまった月の裏側の様子だが、当時はまだ画像として披露はされていなかった。しかし想像される景色を「枯れ且つ輝けるわが魂よ。」と結んだところに大いに惹かれた。
 まだ読み込まないとわからないところもあるが、繰り返し味わってみたい言葉が並ぶ。
 たまに詩を読むと、自分の想像力の貧困、言葉に対する感覚の摩滅を実感して、情けなくなる。


「魔女狩りのヨーロッパ史」第4章

2024年05月11日 18時45分30秒 | 読書

   

 本日は横浜駅近くのいつもの喫茶店で「魔女狩りのヨーロッパ史」(池上俊一、岩波文庫)の第4章「魔女を作り上げた人々」を読み終わった。

魔女狩りの最盛期は16世紀後半から17世紀半ばである。主要な悪魔学書が出版されるのも16世紀からである。正確には近世ないし近代諸島の出来事なのだ。しかしそれで中世が免責されるわけではない。なぜなら中世においても、魔女を仕立て上げる心的装置が着々とつくられていたからである。13世紀後半から14世紀前半にかけて、魔女狩りを正当化するイデオロギー的な基盤を作った神学的・教会法的な趨勢があったとされている。

ヨーロッパに限らず、ほとんど世界じゅうの前近代社会において、日常の困難や危機回避のために呪術にすがる慣行は遍く広がっていた。

初期中世に悪魔の幻惑・妄想=異教的迷信と位置づけられて反転して、現実に起きている悪行と見なされる必要があった。悪魔が神から独立した悪行能力を手に入れ、人間界において物理的・身体的に現存して行動するとの考えが登場したからこそ、魔女と悪魔の物理的・肉体的交渉が可能になった。同時に魔女が「自由意志」で悪魔と契約を結ぶ主体となり、悪の力の行使者としての責任を負い裁かれねばならない、という考え方への転換もあった。

悪魔学者の著作中に描かれる組織化された構造物、サタンと属僚たちの階梯によって秩序立てられた「悪の王国」のヴィジョンが、集権的なキリスト教共同体や国家の実現を図る聖俗権力の伸長に力を貸すものとなっている。

 大筋では了解しつつも、まだどこか飲み込めないところがある。それがまだ言葉にならない。

 


「魔女狩りのヨーロッパ史」読書再開

2024年05月10日 22時15分26秒 | 読書

   

 風邪をこじらせてしまい、読書の気力が無くなりかけていたがようやく読みかけの「魔女狩りのヨーロッパ史」の読書を再開した。

 桜木町から横浜駅に到着し、休憩がてら入った喫茶店で目をとおした。第2章「告発・裁判・処刑のプロセス」まではすでに読み終わっていた。本日は第3章「ヴォージュ山地のある村で」を読み終わった。
 この章は具体的に「魔女」として処刑された事例の紹介。なかなか無残な例なので読み進むのが少し苦痛なこともあったが、とりあえず読了。

根強い噂・悪評から裁判が始まるのは、前章で触れたように、ごく普通のことだった。だが、こうした魔女とその妖術の噂の広まり自体が、社会の分断・機能障害を表している上に、森に囲まれ孤立した山岳地帯のように不十分な農地しかなく、加えて自然環境の悪化と経済条件の変化に見舞われて生活が苦しくなった場所では、隣人への疑心暗鬼はいよいよ深く浸透していった。そこに司法権力が介入することで、社会の機能障害はますます激化し、裁判が進むにつれて、その抑圧システムが恐怖と不安に震える人々の精神に異変を起こさせ、共同体の団結統合はガタガタと崩れていった。
裁判は隣人どうしの不和・憎悪、暴力と復讐への欲求を養分にしながら進められるが、それを裁判によって昇華させることなく、むしろ奨励し煽りたて増幅させて、自分たちのコントロール下に具体的な形を与えようとしたのである。


いい汗、のち無駄足

2024年05月10日 21時41分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 退職者会の用事があり、桜木町の悪評高い横浜新市庁舎に出向いた。退職者会の私の属するブロックの総会の会場探しである。総会前に新市庁舎をぐるりと回る20分ほどのイベントを考えた。市庁舎を外から見学し、レストランで総会と昼食会を兼ねた集まりを予定してみた。みんなに了解が取れ次第、案内状を会員宛に送付することになる。
 日時は6月であるが、案内状は今月の20日に発送。

 市庁舎からの帰りは、横浜駅まで徒歩。遅々として進まない東横線跡地の散歩道整備。桜木町からわずか紅葉坂下までの100数十メートルを歩いてみた。そこからは国道16号線沿いに旧来の歩道を久しぶりに歩いた。
 汗ばむほどの暖かい陽射しのもと、膝も痛くならずに横浜駅まで5千歩ほどを歩きとおすことが出来た。横浜駅の喫茶店で一服、読書タイムを確保してから帰宅。

 横浜駅からバスにて帰宅。しかし家に着く50m手前で妻に頼まれていた買い物を思い出し、ふたたび15分ほど徒歩で戻り、買い物。往復3千歩ほどを余分に歩いてしまった。帰宅して歩数計を見ると1万3千歩。足の筋肉がだるくなっていた。結果として足に無理を強いてしまった。明日、膝に違和感が出ないことを祈るのみ。

 


夢を見たはずだが・・・

2024年05月10日 10時59分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩は夜になって体が重く、疲労感が襲ってきた。特に体調に異変があったわけではなく、疲労感というよりも脱力感、あるいは気力が萎えたという語感が当てはまったような気分になった。
 夕食後、ブログをアップしてからパソコンの前で熟睡。1時間ほどで目が覚めた。少し無理をして、久しぶりに団地周りを一周。肩の凝りをほぐすように腕を回しながらのんびりと歩いて、すぐに温めのお湯で入浴。少しは回復出来たはずだった。

 明け方、なぜか掛け布団を思い切り蹴とばしていた。寒さを感じ、床に落ちた布団を戻したものの、二度寝のときにふたたび蹴とばして再度持ち上げる破目に。今更この歳で何が不満で駄々っ子のように暴れたか、何に怒って暴れたのか、夢を見ていたはずだが、夢を記憶し思い出すことのない私にはさっぱりわからない。
 子どものころから夢にうなされたことは覚えているが、夢の内容はこの歳まで常に記憶にない。また思い出す気がさらさら起きてこない私である。
 寝る前の脱力感と何か関係があったのか、体調に何らかの変化があったのか、不明は不明のままにしておくしかない。心理学では夢にいろいろと意味があるらしい。しかし私の思いからすると、目が覚めてからいくら意味づけを考えても、夢の内容を詮索しても、無意識の核心に迫ることはできないのではないか。できるのは無理なこじつけだけだと確信している。心理学を勉強していないもの戯言といわれそうだ。

 8時過ぎに起床したときは、気分爽快。脱力感もなくなり、前向きな気分に回復。