■集英社版・学習漫画 世界の伝記38『マリー・ローランサン~「パリの美神」とよばれた画家』
監修:阿部良雄 漫画:千明初美 シナリオ:川崎堅二
★ベル・エポック
フランス語で「良き時代」という意味。情勢の安定からパリに新しい文化や芸術が起こり、女性のファッションの発信地、あらゆる流行の源になった。
1883 パリ生まれ。服の仕立てをしてた母ポーリーヌ。父は記録なし。
実は、時々訪ねてきたアルフレッド・トゥーレという代議士が父だった。(23歳上の妻子持ち/驚
1889 パリ万博
1893 高級住宅地に引っ越す。名門校リセに通う。親友ジャンヌ・レーナックは後に絵に描いた。
パリ祭で見た恋人ものちに「家具つきホテル」として描いた。
母は安定した生活のためにバカロレア(大学入試資格)をすすめるが、磁器の絵付けを習う。
★ケート・グリーナウェイ=挿絵画家
1902 デッサン学校へ通う。ジョルジュ・ブラックに認められ、アンベール画塾に通う。
アンリ・ピエール・ロシェ(若き画商)に評価され職業画家としてスタート
「洗濯船」に行き、ピカソらと会う。ピカソの恋人フェルナンドには嫌われる
サロン・デ・ザンデパンダンに初出品。
ピカソを通して詩人ギョーム・アポリネールと出会い恋に落ちる
1908 「アンリ・ルソーをたたえる夕べ」での出会いから「詩人に霊感を与えるミューズ」が描かれた。
「狩りをするディアナ」「アポリネールとその友人たち」「家具つきの貸家」「夢みる人」を描く。
ギョームもたくさんの詩を書いた。
ウーデがドイツでマリーの個展を開く。
1911 ギョームがモナリザ盗難事件に巻き込まれる。
「ミラボー橋」の詩には2人の別れが書かれている。シャンソンにもなって有名
1913 母死去(父は1905年に死去)死後に父のことを知る。
1914 オットー・フォン・ベッチェン(ドイツ貴族で画家)と結婚 マリー30歳。
第一次世界大戦勃発。中立国スペインへ亡命し5年間転々とする。
「棕櫚のそばの乙女」「森のなかで」「鳥かご」「鳩とふたりの女」など暗い色調の絵を描く。
ギョームが戦地で負傷。親友ニコル・グレーは戦時中のマリーを助けた。
1918 ギョーム死去(38歳)。その2日後に終戦。
1920 何度もフランス大使に嘆願書を出して入国許可をもらう。
1921 オットーと別れる。
1922 『扇』10人の詩人の詩と10枚のマリーの版画を収蔵した豪華な本が刊行
「黒いマンテラをかぶったグールゴー男爵夫人」が好評で肖像画の注文相次ぐ
ココ・シャネルは絵を返してきた→オランジェリー美術館にある。
1924 バレエ「牝鹿」の舞台美術を担当。コクトーが台本を書き、プーランクが作曲、ニジンスカが主演という当時最高のメンバー。
1925 シュザンヌ・モローがお手伝いとして住む。気に入らない人は追い返した
1928 サボルニャン・ド・プラザに引っ越す。
1937 レジオン・ド・ヌール勲章(フランスで最も名誉ある勲章)を受章。
1939 第二次世界大戦はじまる
1942 アパートをとられ、マスラン街に引っ越す
1944 終戦後、裁判で勝って家を取り戻す(1953)
1953 「三人の若い女」は、社交も減ったなか想像で描いた。
シュザンヌを養女にする。
1956 心臓発作で死去。72歳。ギョームとともにペール・ラシェーズに眠る。
シュザンヌは亡くなるまでマリーの遺品を公表しなかった。
写真で見るかぎり、ギョームは強面
代表作が1913年刊行の『アルコール』てw
■マリー・ローランサン美術館
長野にある美術館、2011年9月で閉館だって!/驚
鎮静剤/マリー・ローランサン
退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です
監修:阿部良雄 漫画:千明初美 シナリオ:川崎堅二
★ベル・エポック
フランス語で「良き時代」という意味。情勢の安定からパリに新しい文化や芸術が起こり、女性のファッションの発信地、あらゆる流行の源になった。
1883 パリ生まれ。服の仕立てをしてた母ポーリーヌ。父は記録なし。
実は、時々訪ねてきたアルフレッド・トゥーレという代議士が父だった。(23歳上の妻子持ち/驚
1889 パリ万博
1893 高級住宅地に引っ越す。名門校リセに通う。親友ジャンヌ・レーナックは後に絵に描いた。
パリ祭で見た恋人ものちに「家具つきホテル」として描いた。
母は安定した生活のためにバカロレア(大学入試資格)をすすめるが、磁器の絵付けを習う。
★ケート・グリーナウェイ=挿絵画家
1902 デッサン学校へ通う。ジョルジュ・ブラックに認められ、アンベール画塾に通う。
アンリ・ピエール・ロシェ(若き画商)に評価され職業画家としてスタート
「洗濯船」に行き、ピカソらと会う。ピカソの恋人フェルナンドには嫌われる
サロン・デ・ザンデパンダンに初出品。
ピカソを通して詩人ギョーム・アポリネールと出会い恋に落ちる
1908 「アンリ・ルソーをたたえる夕べ」での出会いから「詩人に霊感を与えるミューズ」が描かれた。
「狩りをするディアナ」「アポリネールとその友人たち」「家具つきの貸家」「夢みる人」を描く。
ギョームもたくさんの詩を書いた。
ウーデがドイツでマリーの個展を開く。
1911 ギョームがモナリザ盗難事件に巻き込まれる。
「ミラボー橋」の詩には2人の別れが書かれている。シャンソンにもなって有名
1913 母死去(父は1905年に死去)死後に父のことを知る。
1914 オットー・フォン・ベッチェン(ドイツ貴族で画家)と結婚 マリー30歳。
第一次世界大戦勃発。中立国スペインへ亡命し5年間転々とする。
「棕櫚のそばの乙女」「森のなかで」「鳥かご」「鳩とふたりの女」など暗い色調の絵を描く。
ギョームが戦地で負傷。親友ニコル・グレーは戦時中のマリーを助けた。
1918 ギョーム死去(38歳)。その2日後に終戦。
1920 何度もフランス大使に嘆願書を出して入国許可をもらう。
1921 オットーと別れる。
1922 『扇』10人の詩人の詩と10枚のマリーの版画を収蔵した豪華な本が刊行
「黒いマンテラをかぶったグールゴー男爵夫人」が好評で肖像画の注文相次ぐ
ココ・シャネルは絵を返してきた→オランジェリー美術館にある。
1924 バレエ「牝鹿」の舞台美術を担当。コクトーが台本を書き、プーランクが作曲、ニジンスカが主演という当時最高のメンバー。
1925 シュザンヌ・モローがお手伝いとして住む。気に入らない人は追い返した
1928 サボルニャン・ド・プラザに引っ越す。
1937 レジオン・ド・ヌール勲章(フランスで最も名誉ある勲章)を受章。
1939 第二次世界大戦はじまる
1942 アパートをとられ、マスラン街に引っ越す
1944 終戦後、裁判で勝って家を取り戻す(1953)
1953 「三人の若い女」は、社交も減ったなか想像で描いた。
シュザンヌを養女にする。
1956 心臓発作で死去。72歳。ギョームとともにペール・ラシェーズに眠る。
シュザンヌは亡くなるまでマリーの遺品を公表しなかった。
写真で見るかぎり、ギョームは強面
代表作が1913年刊行の『アルコール』てw
■マリー・ローランサン美術館
長野にある美術館、2011年9月で閉館だって!/驚
鎮静剤/マリー・ローランサン
退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です