メランコリア

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『ショパン ポーランドを愛した“ピアノの詩人”』

2011-07-27 21:09:15 | マンガ&アニメ
小学館版学習まんが人物館 『ショパン ポーランドを愛した“ピアノの詩人”』
小坂裕子/監修 市川能里/まんが 黒沢哲哉/シナリオ

マズルカ、ポロネーズ=ポーランドに古くから伝わる曲

1810 ポーランドのヴォラで生→生後半年でワルシャワに引っ越す
    フランス語教師の父、音楽好きな母、姉に囲まれ、ピアノ好きな少年に育つ。
    ジヴニーが才能を伸ばし、7歳で作曲。

1824 14歳。シャファルニャ村にある知人の別荘で過ごした体験が後に影響大
1829 ウィーンに卒業旅行の際、2回演奏会を開き、楽譜出版。名が知れ渡る。
★極度のアガリ症だった

初恋:コンスタンツヤ 音楽学校の同期生。パエル(リストの先生)のオペラで歌手デビュー。
7月革命勃発。ポーランドでの最後の演奏会で共演。新作♪協奏曲ホ短調 を披露。
★日記をアルバムと呼んでいた

1830 20歳で友ティトゥスとワルシャワを出てウィーンへ。
ワルシャワで暴動が起き、ティトゥスは帰る。
    ウィーンでは冷たくされたが、♪12の練習曲 ♪別れの曲 ♪黒鍵 など作曲。

1831 パリへ向かう途中のドイツのシュトゥットガルトでワルシャワ陥落のニュースを聞く。♪革命 を書く。
   後に「ピアノの魔術師」と呼ばれたリスト、メンデルスゾーン、ヒラーらと会う。
   「演奏試合」で♪ドンブロフスキのマズルカ を弾きみな感動。
    都会の空気が合わず体調を崩し始める。
    ロシア大使館で旅券更新を拒否。祖国に帰れなくなる。

1835 父母とチェコで再会。これが最後の別れとなる。♪華麗なる円舞曲 を書く。
    帰りにドイツ・ドレスデンに立ち寄り、コンスタンツヤに似たマリアに会い恋 ♪ワルツ変イ長調

1836 マリアとの婚約条件は健康管理。だが翌年、親から破棄の手紙をもらい絶望
    6歳上のジョルジュ・サンド(33歳。2人の子どもがあり離婚)に会う。
    ♪スケルツォ ♪2つのノクターン ♪12の練習曲(No.25)

1838 サンドとの恋 ドラクロワが2人の肖像画を描く(画家の死後、2つに分割され、ショパンの部分はルーブル
    煤煙で黄色く汚れたパリの空から逃れ、ショパンとサンドと子ども2人はスペイン・マヨルカ島へ保養
   「風の家」は居心地悪く→バルデモサの修道院に引っ越す。
   プレイエルのピアノの到着に喜ぶが、地元民の嫌がらせもあった。
   ♪24の前奏曲 ♪バラード ♪ポロネーズ

1839 サンドの故郷ノアンに引っ越し、自然に囲まれ元気を回復
   ♪マズルカ ♪ノクターン(No.37) ♪ソナタNo.2(葬送) ♪英雄 など。★音楽家としての黄金時代

1844 父死去のショックで肺病悪化。姉と再会。♪子犬のワルツ(サンドの犬がモデル
    モーリスはショパンを嫌い、ソランジェ(彫刻家クレサンジェと結婚)はショパンの味方

1847 ショパンはパリ、サンドはノアンにいて別れる。
    後にサンドは「ルクレツィア・フロリアーニ」でショパンとの関係を書いた。
1848 チェロ奏者フランコムとの演奏会がパリで最後。
    心配する生徒がイギリス、スコットランドへの演奏旅行を計画。
    成功したが結核は悪化。♪マズルカヘ短調
1849 39歳で死去。姉が心臓を持ち帰り、ワルシャワの聖十字架教会に安置された。

生涯で書いた曲は240曲。サンドの友人ハイネとも交流があった。
サロンの主宰者からの報酬、楽譜を売った収入、生徒へのレッスン料で安定した生活だった。
貴族の生徒のはからいで最高級の住まいには毎日お見舞いが訪れた。
葬儀には3000人の参列者。

「ピアノを弾きたいなら歌わなければならない」
音楽の美しさの基本は声楽だというのが信念にあった。


『モーリス』てゆうイギリス映画があったけど、関係ないのか
『年下のひと』てゆうサンドの映画はあるみたい。ジュリエット・ビノシュは好きな女優のひとり。
ほかにも『別れの曲』(モノクロ)がある。
昔、サンドが出てくる映画を観た気がするんだけど、これか?『ソフィー・マルソーの愛人日記』
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