■『いつか帰りたいぼくのふるさと 福島第一原発20キロ圏内から来たねこ』(小学館)
大塚敦子/写真・文
大塚敦子さんは、ほんとうに良い本をたくさん出しているなあ!
【関連ブログ記事】
『地雷のない世界へ はたらく地雷探知犬』(講談社)
『ありがとうフォンジー イルカがえがおをくれた』(小学館)
『さよならエルマおばあさん』(小学館)
『介助犬ターシャ』(小学館)
【内容抜粋メモ】
10歳のオス猫のキティは、福島県双葉郡大熊町で生まれた。
右目を怪我して見えなくなったけど、7人の大家族に可愛がられ、しあわせに暮らしていた。
ボクのウチは5代続いた農家で、おじいさんの夢は、自分の植えたヒノキで家を建てることだった
緑に囲まれた家の周りには、ボクのお気に入りの場所がたくさんありました。
家から4kmほどのところには、東京電力福島第一原子力発電所があります。
約11kmのところには福島第二原子力発電所もあります。
お父さんも、そこで働く一人でした。
もとは農村だった町が、いつのまにか、原発なしでは暮らしが成り立たなくなっていました。
よその人が「事故を起こしたらどうするの?」と言うと、
「日本の原発はしっかり管理されているから、安全なんだ」と信じていました。
2011年3月11日、東北地方を襲った巨大地震と津波で、福島第一原発は大事故を起こしました。
次の日、ボクが家に帰ると、縁側の戸が少しだけ開けてあり、山盛りのキャットフードが置いてありました。
家族はどこに行ったんだろう。きっと、すぐ帰ってくるよね。
でも、いくら待っても、誰も帰ってきませんでした。
世話をしてくれる人を突然失った動物たちは、食べ物も、水もなく、次々死んでいきました。
ある日、防護服を着た人たちが来て、キャットフードをたくさん置いていってくれました。
ペットを残して避難した大勢の人から頼まれて、東京から助けに来てくれたのです。
ボクは、あまりお腹が空いていたので、エサにつられてケージに入ってしまいました。
「もう大丈夫だよ」
ボクは、家から離れた所で助けられたので、飼い主が誰なのか、手がかりが何もありませんでした。
ボクを助けてくれた人の家で半年待ち、東京で暮らすことになりました。
動物病院で検査を受けたら「ねこエイズウイルス」に感染していると言われました。
他の猫にうつすといけないので外に遊びに行けなくなりました。
震災から1年後。やっと家族に会えました。今は仙台に避難しているそうです。
ボクも仙台に行き、やっとおばあさんに会えました。
「あん時は、2、3日で帰れると思ってたんだよ。もう死んじまったかと思ってだ。よぐ生きでたなあ・・・」
******************************
震災当日、祖父母は、原発が危険な状態だとはまったく知らず、
防災無線は音が割れて、聞き取れなかったのです。
家の中は危険なので、畑の真ん中にとめた軽トラックで寒い一夜を明かし、
翌朝、父母といっしょに着替えも、財布も持たないまま、故郷をあとにしました。
それ以来、祖父母は、まだ一度も家に戻っていません。
お父さんは、避難先の仙台で仕事が見つかり、おねえさんたちも仕事や勉強で忙しくしています
おばあさんは「帰っとこあんのに、帰られないもんな」と涙ぐみました。
おばあさんは、避難先の家の小さな庭でまた野菜を育てはじめました。
******************************
避難中の住民は、4ヶ月に一度だけ、一時帰宅が許されます。
事故が起こってから4回目の帰宅でも、家の中は地震でめちゃくちゃのまま。
母「もう片付ける気にならない。いつ帰れるかも分からないもの・・・」
おじいさんが大切に育てていたヒノキ林はまっすぐに育っていました。
町には牛の群れが歩いていました。クルマに轢かれた牛もいました。
原発事故の後、どれだけの命が見捨てられてきたのでしょう。
津波の被害が大きかった常磐線富岡駅
放射能は目に見えません。
ボクの故郷は、今もこんなに美しいのに、危険な放射能で覆われているなんて信じられない。
ボクはいつか、故郷に帰れるんだろうか?
(キティは、今も東京で暮らしている
【著者あとがき抜粋メモ】
事故から1年半経った今でも、多くの動物たちが警戒区域内に取り残されています。
救出されても、飼い主が見つからない、避難先では飼えない等で、
どこのアニマル・シェルターも行き場のないペットであふれています。
私は「せめて被災猫を引き取ろう」と思い、動物愛護団体のHPを見て、目に留まったのがキティでした。
高齢、片目を失明、猫エイズに感染、これでは引き取り手がないのではと思ったからでした。
おねえさんがネットを検索してキティの写真を見つけてくれました。
おじいさん「自分の故郷というのは、どんな状態になっても、何年経っても忘れられるもんじゃないんだよ」
でも、若い世代にとっては、少し違うようです。
娘さんは、故郷での就職は考えていませんでした。
お父さんにとって帰れるかどうかは「仕事があるかどうか」にかかっています。
過疎化が進んだ双葉郡は、原発を受け入れることで雇用を生み、町が衰えるのを防ごうとしました。
でも、その代償はなんと大きかったことでしょう。
2012年夏の時点で、福島県全体の避難者数は約16万人。
福島県は、このままだと2040年には人口が最大38%も減少するという試算があります。
この事故が起こるまで、私は福島第一原発で作られた電気の行き先が東京だったことを知りませんでした。
(わたしも・・・しかも、こんなに全国、世界中にあることも知らなかった
立地地域以外の市民の多くは、原発や、それを取り巻く状況に無関心でした。
それもこんな大事故が起こってしまった理由の1つなのではないでしょうか。
すでに起きたことを元に戻すことはできないけれども、二度と繰り返さないようにすることはできます。
まず「知ること」から。そして「忘れないこと」。
どうしてこんなに多くの原発ができたのか、それによって社会はどう変わったのか、
これから原発なしで生きるために、一人ひとりが何をしたらいいのか。
本書を読んで、もし自分だったら、、、と考えてみてほしいのです。
HOSHI FAMILY
大塚敦子/写真・文
大塚敦子さんは、ほんとうに良い本をたくさん出しているなあ!
【関連ブログ記事】
『地雷のない世界へ はたらく地雷探知犬』(講談社)
『ありがとうフォンジー イルカがえがおをくれた』(小学館)
『さよならエルマおばあさん』(小学館)
『介助犬ターシャ』(小学館)
【内容抜粋メモ】
10歳のオス猫のキティは、福島県双葉郡大熊町で生まれた。
右目を怪我して見えなくなったけど、7人の大家族に可愛がられ、しあわせに暮らしていた。
ボクのウチは5代続いた農家で、おじいさんの夢は、自分の植えたヒノキで家を建てることだった
緑に囲まれた家の周りには、ボクのお気に入りの場所がたくさんありました。
家から4kmほどのところには、東京電力福島第一原子力発電所があります。
約11kmのところには福島第二原子力発電所もあります。
お父さんも、そこで働く一人でした。
もとは農村だった町が、いつのまにか、原発なしでは暮らしが成り立たなくなっていました。
よその人が「事故を起こしたらどうするの?」と言うと、
「日本の原発はしっかり管理されているから、安全なんだ」と信じていました。
2011年3月11日、東北地方を襲った巨大地震と津波で、福島第一原発は大事故を起こしました。
次の日、ボクが家に帰ると、縁側の戸が少しだけ開けてあり、山盛りのキャットフードが置いてありました。
家族はどこに行ったんだろう。きっと、すぐ帰ってくるよね。
でも、いくら待っても、誰も帰ってきませんでした。
世話をしてくれる人を突然失った動物たちは、食べ物も、水もなく、次々死んでいきました。
ある日、防護服を着た人たちが来て、キャットフードをたくさん置いていってくれました。
ペットを残して避難した大勢の人から頼まれて、東京から助けに来てくれたのです。
ボクは、あまりお腹が空いていたので、エサにつられてケージに入ってしまいました。
「もう大丈夫だよ」
ボクは、家から離れた所で助けられたので、飼い主が誰なのか、手がかりが何もありませんでした。
ボクを助けてくれた人の家で半年待ち、東京で暮らすことになりました。
動物病院で検査を受けたら「ねこエイズウイルス」に感染していると言われました。
他の猫にうつすといけないので外に遊びに行けなくなりました。
震災から1年後。やっと家族に会えました。今は仙台に避難しているそうです。
ボクも仙台に行き、やっとおばあさんに会えました。
「あん時は、2、3日で帰れると思ってたんだよ。もう死んじまったかと思ってだ。よぐ生きでたなあ・・・」
******************************
震災当日、祖父母は、原発が危険な状態だとはまったく知らず、
防災無線は音が割れて、聞き取れなかったのです。
家の中は危険なので、畑の真ん中にとめた軽トラックで寒い一夜を明かし、
翌朝、父母といっしょに着替えも、財布も持たないまま、故郷をあとにしました。
それ以来、祖父母は、まだ一度も家に戻っていません。
お父さんは、避難先の仙台で仕事が見つかり、おねえさんたちも仕事や勉強で忙しくしています
おばあさんは「帰っとこあんのに、帰られないもんな」と涙ぐみました。
おばあさんは、避難先の家の小さな庭でまた野菜を育てはじめました。
******************************
避難中の住民は、4ヶ月に一度だけ、一時帰宅が許されます。
事故が起こってから4回目の帰宅でも、家の中は地震でめちゃくちゃのまま。
母「もう片付ける気にならない。いつ帰れるかも分からないもの・・・」
おじいさんが大切に育てていたヒノキ林はまっすぐに育っていました。
町には牛の群れが歩いていました。クルマに轢かれた牛もいました。
原発事故の後、どれだけの命が見捨てられてきたのでしょう。
津波の被害が大きかった常磐線富岡駅
放射能は目に見えません。
ボクの故郷は、今もこんなに美しいのに、危険な放射能で覆われているなんて信じられない。
ボクはいつか、故郷に帰れるんだろうか?
(キティは、今も東京で暮らしている
【著者あとがき抜粋メモ】
事故から1年半経った今でも、多くの動物たちが警戒区域内に取り残されています。
救出されても、飼い主が見つからない、避難先では飼えない等で、
どこのアニマル・シェルターも行き場のないペットであふれています。
私は「せめて被災猫を引き取ろう」と思い、動物愛護団体のHPを見て、目に留まったのがキティでした。
高齢、片目を失明、猫エイズに感染、これでは引き取り手がないのではと思ったからでした。
おねえさんがネットを検索してキティの写真を見つけてくれました。
おじいさん「自分の故郷というのは、どんな状態になっても、何年経っても忘れられるもんじゃないんだよ」
でも、若い世代にとっては、少し違うようです。
娘さんは、故郷での就職は考えていませんでした。
お父さんにとって帰れるかどうかは「仕事があるかどうか」にかかっています。
過疎化が進んだ双葉郡は、原発を受け入れることで雇用を生み、町が衰えるのを防ごうとしました。
でも、その代償はなんと大きかったことでしょう。
2012年夏の時点で、福島県全体の避難者数は約16万人。
福島県は、このままだと2040年には人口が最大38%も減少するという試算があります。
この事故が起こるまで、私は福島第一原発で作られた電気の行き先が東京だったことを知りませんでした。
(わたしも・・・しかも、こんなに全国、世界中にあることも知らなかった
立地地域以外の市民の多くは、原発や、それを取り巻く状況に無関心でした。
それもこんな大事故が起こってしまった理由の1つなのではないでしょうか。
すでに起きたことを元に戻すことはできないけれども、二度と繰り返さないようにすることはできます。
まず「知ること」から。そして「忘れないこと」。
どうしてこんなに多くの原発ができたのか、それによって社会はどう変わったのか、
これから原発なしで生きるために、一人ひとりが何をしたらいいのか。
本書を読んで、もし自分だったら、、、と考えてみてほしいのです。
HOSHI FAMILY