メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『写真が語るベトナム戦争』(あすなろ書房)

2015-06-07 14:37:53 | 
「知」のビジュアル百科29『写真が語るベトナム戦争』(あすなろ書房)
スチュアート・マレー/著 赤尾秀子/訳 村井友秀/日本語版監修

“この世界に存在する森羅万象を、科学、歴史、文化の3方向からわかりやすく解説。
 この1冊で、知っておきたい基礎知識がすべて身につく、博物図鑑。88ヵ国で愛されている世界的ベストセラー!”

ベトナム戦争(ウィキ参照

先日、「もっと沖縄を知りたい(後編)@あさイチ」で沖縄とベトナム戦争の関係を知って、
偶然、借りていた本書を早速読んでみた。

ベトナム戦争というと思い出すのは、私の大好きなクリストファー・ウォーケン出演映画『ディア・ハンター』
心の中のベストフィルムの1つで、さまざまな場面を思い出しながら読んだ。

なぜこんなにも複雑になっちゃったの?!てくらい、勢力図がよく分からない。
南北を表に書いて、誰がどちらについたのか、どういう流れになったのかメモっていったけど、
何度も何度も見直さなさいと、あれ、どっちだっけ?となる

本書は、武器、戦闘機などの写真・説明が主で、生々しい戦争の悲惨さがいまいち伝わってこないのも気になった。
ともすれば、「この飛行機カッコイイ!」ってミリタリファン向けに読まれそうな雰囲気。
知識としては、タイトル通り、写真が豊富で学べるけれども、実際に戦った兵士、住民らの顔が見えてこないのが残念。

勲章の写真もたくさんあるんだなあ/驚 勲章の数だけ人を殺したってことだ。

思えば、記憶(歴史)の中で、ヒトは戦争をしていない時代があったろうか?


【勢力図】(ウィキ参照

これを見ても不十分な感じ


自分でまとめたメモは下記の感じだけど、合ってるのかなあ???


ハノイ
共産主義
北ベトナム正規軍
ホー・チ・ミン
ソ連、中国
「ベトコン」
ベトミン?


サイゴン
資本主義
南ベトナム軍
「自由世界軍」
アメリカ
韓国
オーストラリア ほか

中立
ラオス
カンボジア


「ベトミン」(ウィキ参照
正式名称ベトナム独立同盟会。フランス植民地からの独立を求め第一次インドシナ戦争を戦ったベトナムの独立運動組織。
ホー・チ・ミンが結成して主席となり、ヴォー・グエン・ザップおよびファム・ヴァン・ドンがともに指導した。
共産主義者もいれば、民族主義者もいた。

「ベトコン」(ウィキ参照
南ベトナム解放民族戦線。南ベトナムで1960年12月に結成された反サイゴン政権・アメリカ・反帝国主義を標榜する統一戦線組織。



【大体の流れ】
第二次世界大戦

第一次インドシナ戦争

第二次インドシナ戦争

トンキン湾事件

ローリング・サンダー作戦(北爆)

テト攻勢(ターニングポイントとなった)

ハンバーガー・ヒル

ラインバッカーI作戦

クリスマス(最大規模)

和平協定 1973 停戦を約束「帰郷作戦」

1975 再び戦闘が始まる


【内容抜粋メモ】

「8月革命」から「第一次インドシナ戦争」
第二次世界大戦後、植民地のフランス勢力が弱まった。
インドシナ半島のフランス植民地は日本が占領していたため、日本敗北後、独立を求め、
ホー・チ・ミンらは「ベトミン」に結集して蜂起した「8月革命」。1945/9/2独立宣言。
フランスは再度インドシナを植民地化しようとし、「第一次インドシナ戦争」がはじまる。

アメリカは、インドシナで高まる「共産主義」の気運を嫌い(周辺地域も共産国になると考えた)、
フランスに財政的、軍事的援助を行うことを決め、最初は優勢だった。
ホー・チ・ミンは、中国、ソ連(共産主義国)の支援を得る。

ベトナム人の中にも「ベトミン」を嫌い、フランス支配を望む人いた。
多くは、ヨーロッパで教育を受け、仏教からカトリックに改宗した人たちだった。

戦いは何年にも及ぶ。フランス兵は疲れきり、戦争終結を待ち望んだ。
戦死者数は、フランス軍約2000人、ベトミン約8000人。
捕虜となったフランス兵は1万800人で、多くは飢えと病気で死んだ。

1954 「ディエンビエンフーの戦い」でベトミンはフランスに勝利して「第一次インドシナ戦争」は終わり、独立へ向かう。


「ジュネーブ協定」@スイスで調印
ベトナム北緯17度線から北は共産側、南は非共産主義政府が治めることに。アメリカは調印を留保。

 
17度線を境に南北に分割されたベトナムが描かれた中国の切手


1955 アメリカの「顧問の段階」はじまる
南ベトナムへの支援として、何百人もの軍事顧問を送り込んだ。
アイゼンハワー政権は、反共産主義のゴ・ディン・ジェムを援助し、不正選挙で当選。
ゴ・ディン・ジェムはカトリック教徒。国民の8割は仏教徒だった。

南ベトナム人民は怒って抵抗。ジェムは「ベトコン」と呼んだ。
反政府運動を率いたのが「南ベトナム解放民族戦線」で、ゲリラ戦を開始。

J.F.ケネディが就任すると、アメリカはさらに深くベトナムに介入。
1万4000人以上のアメリカ軍事顧問がベトナムに駐在。
ケネディが就任期間中、南ベトナムに毎年5億ドル以上の軍事援助をする反面、腐敗したジェム政権には反感を抱いていた。

1963 ジェム暗殺。政権は崩壊。南ベトナムは政権を握るが、別の将校らに奪われ、南ベトナムはクーデターに揺れた。
     ケネディ暗殺


1964 「トンキン湾事件」
アメリカの駆逐艦マドックスは、北ベトナムに近いトンキン湾で秘密裏に情報収集していた。
8/2 北ベトナムの魚雷艇がマドックスを攻撃(これがキッカケで北爆に踏み切った)。
ジョンソン大統領は、北ベトナムの軍事施設を空爆するよう命令。
アメリカをベトナム共産主義者との戦争へ送り込んだ。


1964 「ローリング・サンダー作戦(北爆)」開始


北ベトナムのトンキン湾にある海軍基地の物資補給ルートや、武器庫(軍事や経済関連施設)を爆撃
ターゲットは、橋、道路、鉄道、飛行場、工場、発電所、燃料補給所など(戦争になると、こういう所がまず攻められるのね
約60万トンの爆弾を投下。この数は、「第二次世界大戦」よりも多かった。
民間人の死傷者を避けて、ハノイ、ハイフォン周辺は控えた。

訓練を積んだ何千人もの中国兵が、ミサイル操作のために北ベトナムに送り込まれた。

作戦は3年間続き、ジョンソン大統領は北ベトナムと交渉の場を持とうとしたが実現せず。
1968 10/31に終了。



戦争の「アメリカ化」=「ベトナム戦争」
1965 ジョンソン大統領は、軍隊を南ベトナムに派遣。
「ベトコン」と戦ったことで「顧問の段階」は終わり、第二次インドシナ戦争「ベトナム戦争」がはじまった


それぞれの同盟国
北ベトナムは軍事力となる工業生産力がなかったため、「北ベトナム正規軍」と「ベトコン」は、軍需物資・財政援助を中国・ソ連に依存した。

南ベトナムは「自由世界軍」として、アメリカ、韓国、「東南アジア条約機構(SEATO)」の支援をとりつける。
派兵数がもっとも多かったのは韓国、次いでオーストラリア、フィリピン、タイ、ニュージーランドなど。

韓国兵は、勇猛果敢で知られた。
「オージー」(オーストラリア兵)は、ゲリラスタイルで戦うことが多かった。


それぞれの指導者
共産主義の指導者は、20年以上の指揮キャリアがあり、経験豊富。

アメリカ+南ベトナムの指導者は、軍事経験のない政治家だった。
アメリカ政府は、共産軍が戦闘を中止すれば良しとして、軍事力を抑えた。

1968 ニクソンが大統領に当選。キッシンジャーともどもベトナムから撤退して敗北を認めるよりも、長引かせるほうを選んだ。


サイゴンとハノイはともに大都市
ハノイ
何世紀もベトナムの第一の都市だった。独立後、製造業の中心地となる。巨大な隣国、中国の影響を受けた。
義勇兵の多くは女性で、何千人という市民が戦闘時に対空火器を使うよう指示された。
北ベトナムの戦闘機・対空火器の大半は支援国から提供されたもの。
ハノイは、中国・ソ連の援助で、堅固な対空防衛施設を建設。

サイゴン
長いこと商業の要地、社会・文化の中心地。港湾にあるため、外国文化の影響を強く受けた。19Cには「東洋のパリ」と呼ばれた。
フランス支配下で現代的都市となり、カトリック教徒のエリートが力を持つ。

ジェム大統領が首都にすると、共産主義の北ベトナムから90万人もの人々が逃げてきて、急速に発展したが、
アメリカの資金は、政府と軍部に流れ、サイゴンは腐敗し、賭博場、売春、アヘン売買で悪名高い町になる。


「ホーチミンルート」と呼ばれた密林の輸送路


共産側の装備、物資、兵士が南ベトナム領へと送られた。
ルートの起点はハノイだが、ほとんど南北ベトナムを通過せず、
中立の立場をとっていたラオスを経由し、カンボジアを抜けて、南ベトナムへ入るには約2ヶ月かかる。
ジャングルの樹木が敵の空爆から守ってくれた。最終的に合計2万kmに達した。

アメリカ&南ベトナム軍には頑丈なブーツ、現代的な装備があったが、
北のゲリラたちは、回収品、手づくりを見につけた。
毎月、2万人がホーチミンルートを渡ったが、多くは空爆、病気、毒蛇、時にはトラに襲われ命を落とした。

「サルファ・ドリンク」
ロシア製飲料でサルファ剤を含む。抗菌作用があり、抗マラリア薬だった。


「中央高地」の戦い
「中央高地」は、カンボジアと大洋にはさまれた山岳地域で、頻繁に待ち伏せ攻撃が行われ、戦火が絶えなかった

「グリーン・ベレー」
アメリカ軍は、山岳民族「モンタニャール」の協力をとりつけ、特殊部隊「グリーン・ベレー」が武装訓練した。
「グリーン・ベレー」は、中央高地で活躍した。少人数のチームで動き、ゲリラ戦術を使った。
(『ディア・ハンター』にも「グリーン・ベレー」出てきたな・・・

「モンタニャール」
ベトコンが潜んでいる形跡がないか探って、米軍に報告する。
「グリーン・ベレー」は、1963年の「顧問の段階」ですでに共産軍と戦う目的で「モンタニャール」を武装訓練していた。
(戦争は、戦闘が始まる何年も前から準備しているんだ


武器
地上戦ではさまざまな武器が使われた。
先端技術の壊滅的なものから、シンプルながら致命的なものまで。

「地雷」

共産軍は、ジャングルの踏み分け道に地雷をしかけた。
ベトコンには、村人の協力が欠かせなかった。女は罠づくり、男は使用済みの薬きょうを詰めなおして地雷をつくった。


空の薬きょう、不発の弾頭を拾い集めるベトコン兵士

「自由世界軍」
自動小銃、敵弾発射筒という共産軍と同じ武器を使った。
南ベトナムの海岸線に巨大な基地を持ち、輸送機や輸送ヘリで、戦闘中の部隊に物資を補給できた。


米軍のもっとも重要な武器の1つ「M60機関銃」。ヘリにも搭載された


原始的ながら「火矢」の効果も大きい。ベトコン拠点の藁葺き屋根を燃やす


「ナパーム弾」と「枯れ葉剤」が美しい自然を荒野に

「枯れ葉剤」=「ランチハンド(牧場従業員)作戦」
1962~1971 劇薬を散布して植物を枯らす作戦。
アメリカは、南ベトナムの農村地帯に広がるベトコン支援網を一掃するため、農民を追い払おうとした。
樹木に隠れるゲリラ陣地がむきだしになり、飛行機で攻撃しやすくなる。

2度の散布だと木々は生き返れるが、3度だと回復不能になる。マングローブ湿地は、たった1度で死に絶える。


かつて緑濃いマングローブの林だったメコン・デルタ。枯れ葉剤が廃墟に変えた

枯れ葉剤の人体への影響は深刻
「ランチハンド(牧場従業員)作戦」では、7200万リットルの除草剤が散布され、うち6割が強力枯れ葉剤だった。
枯れ葉剤に触れた人は米軍もベトナム民間人も長年苦しんだ。(今は大丈夫なの?

「ナパーム弾」
 

触れたものはすべて燃やし尽くす、発火性の高い「ナパーム」という物質を含む爆弾。
燃えるナパームは、空気中から酸素を奪うため、犠牲者は怪我を負った上、呼吸ができず、死に至る。

「ナパーム弾」は、180m以内にある全てを破壊する。
ゼリー状で、目標物に張り付いて、徹底的に燃やし尽くす。
「ナパーム弾」は「第二次世界大戦」で初めて使われ、町は火の海と化した


パトロール
米軍は、先端兵器と、強力な航空機を持っていたが、ベトナムでは、歩兵によるパトロールが欠かせなかった。
パトロールの後には、敵の所在・戦力を把握する「偵察」が続いた。
「偵察」は、より大規模な「索敵殲滅」(敵を見つけ、殺すか捕虜にする)作戦の一環ともなる。
銃撃戦になれば、「偵察隊」が無線で基地に連絡戦闘機、砲兵隊の救援、ヘリ支援を求めた。

パトロール中の兵士がせせらぎの水を水筒に汲んでいる。飲んでも安全なようにハラゾーン(消毒剤)の粉を加える


ベトコンは、パトロール隊を待ち伏せするのが得意だった。森、畑、土に潜って身を潜め、銃弾や手榴弾で四方八方から攻撃する。
人数で劣れば散って姿をくらまし、勝れば、戦闘機到着前にパトロール隊を全滅させようとした。

干草に隠れる様子を再現する北ベトナム軍兵士



医療と救急輸送

「アメリカ軍」
1965年にはベトナムに2つしかなかった陸軍病院は、1969年は30に増加。
戦地では、「衛生兵」が手当てをして、ヘリ輸送を依頼する。

負傷兵を短時間で病院へ運ぶ救急輸送を「メディバック」という。
米兵は、負傷して20分以内にヘリで運ばれた。
医療技術の進歩で、負傷して命を落とす米兵は5人に1人以下となった。

森林には医療ヘリが着陸できないため、カゴに負傷兵を乗せて引き上げ、運び去る


ヘリの機体にある赤い十字は医療チームの印で攻撃しないルールだったが、「メディバック」は攻撃され、行方不明になるものもいた。


「ドッグタグ(犬の鑑札)」

負傷、殺されたりした兵士を識別する金属でできたもの。
兵士の個人情報が刻印され、兵士は全員これを首にかけなければいけない。

アメリカ陸軍の男性医師は徴兵だが、女性はボランティアだった。
怪我が深刻な場合は、日本本土や沖縄にあるアメリカ軍病院で治療を受けた(こうして利用されているのか


「共産軍」
沼沢地や、洞窟、トンネルにつくった「野戦病院」まで運ぶのに長時間かかった。
ヘリを持たないので、一番近くの救護所でさえ2時間かかる。
長時間、ジメジメした暗いジャングルで過ごすため、熱帯特有の病気や、熱病でも苦しんだ。

敵に見つからないようマングローブの沼地に建っている野戦病院で手術の準備をするベトコンの医師と看護婦



「ヘリコプター戦争」
ベトナム戦争は軍用ヘリが多用されたことから「ヘリコプター戦争」とも言われた。
それまでは偵察と負傷兵の輸送のみだったが、1960年代、米軍のヘリはパワーも装備も向上し、
兵員輸送、敵陣地の攻撃、物資輸送等を短時間でできた。

4つのタイプ
「多用途」ヘリ
偵察用の「観測」ヘリ
戦闘用の「攻撃」ヘリ
運搬用の「輸送」ヘリ

ヘリの射手は、敵のターゲットになりやすく、もっとも危険な任務の1つだった。
ベトナム戦争後も普及し、騎兵部隊も数多くつくられた。


戦闘機
ジョンソン大統領の意向で、人口集中地域は攻撃目標から除外され、広範囲に被害が及ぶ高高度からの爆撃も行われなかった。
一方、北ベトナム空軍の力は向上し、ソ連製ミグ21「迎撃機」は多数の敵軍戦闘機にダメージを与えた。

「ボーロー作戦」
ミグ21は、機動性で劣る米軍のF-105戦闘爆撃機とは対決したが、高速のF-4ファントムはやりすごしたため、
F-4をF-105と同じ編隊、速度、高度で飛ばした。

「ドッグファイト」
空中戦のこと。古いF-105は、ミグには不利だった。
敵機を5機墜落させれば「撃墜王」と呼ばれる。
米軍は、1965~1973年で68機のミグを撃墜し、北ベトナム軍の戦闘機パイロットで生き残った者はほとんどいない。



「テレビ戦争」
ベトナム戦争は、テレビで報道された初めての戦争。
最初、ベトナム駐在のアメリカ人ジャーナリストは、大半が支持し、戦況を伝えるのみで、
ベトナムが苦しみ続けた外国支配については伝えなかった。

アメリカ軍司令官の指示で、ジャーナリストはかなり自由に各地を取材できた。
アメリカ政府は、戦争が泥沼化しても順調であるかのように見せかけた。
政府の記者会見の内容は、楽観的で、記事を誤った方向に導くものだったため、記者らは政府の発表に不信感を抱いた。

共産軍も戦争に関する情報を大幅に限定した。
北ベトナムの情報源は主に新聞。初のテレビ網、ベトナム・テレビジョン開局は1970年。

ニール・シーハン記者は、政府の嘘を暴いた/ヘルメットの文字は「報道」を意味する
 

ベトナム人カメラマンのフィン・タイン・ミーは、AP通信の依頼でメコン・デルタをカメラに収めた。
ミーは1965年に危険な撮影の最中に命を落とした。

記者やカメラマンは仕事を中断して、負傷者のために働いた


『スターズ・アンド・ストライプス』
戦争と政治について、兵士の知りたい情報が載り、人気があった。


CBSテレビのウォルター・クロンカイトは、第二次世界大戦の報道にも携わり、
ベトナム戦争の破壊と損失を比較し、視聴者は驚くと同時に失望していった。

『ペンタゴン・ペーパーズ』
1971 国防総省の前職員ダニエル・エルズバーグが、ベトナム戦争に関する政府の嘘を暴く極秘文書をNYタイムズ紙に提供して連載された。


「メコン・デルタ」


南ベトナムの「メコン・デルタ」は、インドシナの「米びつ」と言われ、水田で覆われている。
アメリカ&南ベトナムは、「メコン・デルタ」に散らばる村を支配するため、ここに基地を建設。
南ベトナム政府は、米の収穫に打撃を与えた。収穫物を失った農夫は、ベトコンに味方し、政府に反旗をひるがえした。


河川での戦い「機動河川軍(MRF)」
ベトナムの河川、運河、小川は幅が狭く、ベトコンの待ち伏せ攻撃の危険が大きかった。
1967 特殊部隊「機動河川軍(MRF)」を結成。敵陣地の奥深くまで入り、南ベトナムの支配下となる。

「サンパン」木造の平底船。オールで漕ぐか、浅瀬では竿で動かす。


戦時下の村
ベトコン戦士は、村人の支援を頼りにし、協力しない者を脅した。
アメリカ軍&南ベトナム軍は、ベトコンを助けるなと命じた。
村人が農業を続けたくても、南北の兵士から相手に協力したという理由で残酷な仕打ちを受けた。
村人はヘリの乗員にベトコンとみなされるのではと、日々危険と隣り合わせだった。




「人民裁判」
ベトコンが開き、南ベトナム軍に協力した罪で裁かれている。死刑宣告もあった。


「和平プログラム」
海兵隊の従軍牧師が、ベトナムの子どもにおもちゃや食料を配ったりして、信頼を得ようとした。


1968 「ミライの虐殺」
アメリカ軍はミライという村で、何百人もの村人をベトコン協力者と信じて虐殺した。
ウィリアム・L.カリー・ジュニア中尉の命令下、300人以上の男女、子どもが集められ、銃殺された。

軍部はこれを隠蔽しようとしたが、数人が殺人罪で起訴された。
しかし、有罪判決を受けたのはカリー1人。数年後に仮釈放となった。

アメリカ人の多くは、南北それぞれが多数の民間人を殺戮したのだから、
カリーだけを有罪にすべきではないと考えた。カリーが軍刑務所に服役したのはわずか3日間。

1年後、1人の帰還兵がニクソン大統領、国防総省、議会に手紙を送り、事件が明るみに出て、「反戦運動」はさらに高まった。


トンネル


第一次インドシナ戦争の際、ベトナム人はトンネルを掘り、防空壕、武器を隠す場所として使った。
ベトナム戦争でも掘り続けられ、大きなトンネル網には、電気も供給され、寝室、台所、弾薬庫、治療室、集会所まであった。
トンネル内では、ほとんど太陽を見ずに暮らすベトコン戦士もいた。

「ジネズミ(トンネルのネズミ)」
戦争でもっとも恐ろしく、かつ危険な任務を与えられた兵士の呼び名。
アメリカ軍は、銃とナイフしか持たない志願兵をトンネル内に送り、調べさせた。
アメリカ人は大柄で、狭いトンネル内を移動するには難があった。


「ケサン」「テト」「フエ」
1968 共産軍はケサンのアメリカ海兵隊基地を包囲し、大規模な奇襲攻撃をかけた。
     4/8ようやく援軍が到着して、77日目に決着がついた。

「テト攻勢」
ベトナムの正月。南ベトナム軍の半数が休暇をとっていたが、
100以上の市や町が襲われ、4週間続き、共産側の損害も大きく、敗退する。

「テト攻勢」での重要な戦いは、首都サイゴンをめぐるもの。
19人のベトコンゲリラがアメリカ大使館に突入した末に全滅。


「フエ」
かつてベトナム王朝の首都があった古都。その大半が激戦により城砦ともども破壊された。
アメリカでは、反戦運動が一層高まり、「テト攻勢」は、ベトナム戦争のターニングポイントとなり、結果的には共産軍に有利となった。


反戦運動
1965 ワシントンDCで2万人をこえるデモが行われた。
     戦争の泥沼化で、反戦運動とデモは規模を増し、より過激になった。

「銃弾ではなく花を」

デモ参加者が、陸軍憲兵隊のライフル銃口にカーネーションをさしている


ジョーン・バエズは、反戦を訴える代表的ミュージシャンの1人。
ピーター・シーガー、フィル・オクス、ボブ・ディラン、ピーター・ポール・アンド・マリーらも反戦デモに加わり演奏した。

1969 「戦争反対モラトリアム(休戦)」
アメリカ全土で大規模なデモが実施され、投獄された反戦運動家の釈放を求めた。

1970 オハイオ州兵が、ケント州立大学の反戦集会に催涙弾を発射。その後、銃も発砲し、大学生4人が死亡した。
反戦論者ではなく、講義に行く途中の学生まで負傷したことで、全国の学生が講義をボイコットした。

「ベトナム退役軍人」もデモに参加し、勲章を投げ捨てて抗議した。

1972 ベトナム戦争終結、防衛費削減の公約を掲げたジョージ・マクガバンを対抗馬に選んだが、結果はニクソンの圧倒的勝利だった。


アメリカ軍の撤退はじまる
1969 ニクソンは軍部に、戦争の「ベトナム化」を要求。2万5000人が母国に帰還した。

戦争の「ベトナム化」とは、南ベトナム軍が祖国を守る主役となるよう訓練・武装強化するもの。
これは、アメリカ軍の撤退も意味していた。
幹部将校の多くは軍才に乏しく、ニクソンはアメリカ人負傷者が増えないことを望んだが、
現実は戦争は続き、アメリカ兵の多くは、ニクソン政権のやり方に怒りを感じはじめる。
軍隊を撤退させつつ、一方でなお激戦地に送り込んだため。



「ハンバーガー・ヒル」
1969 アメリカのヘリ部隊が、ラオス国境近くのベトナム軍陣地を襲った。「ヒル937」
凄惨な戦いは10日に及び、アメリカ軍死者46人、負傷者400人の犠牲を出した。
兵士らは、この山に来ると「挽き肉にされる気分になる」と言い、「ハンバーガー・ヒル」と呼ぶ。
「ハンバーガー・ヒル」は、ベトナム戦争においてアメリカ軍最後の大きな戦いとなった。

アメリカ軍が撤退しはじめたため、南ベトナム政府は兵員増強のため、年齢17~43歳の男子を徴兵するようになる。
(戦争のパターンって、大体同じになるんだね


最後の空爆「ラインバッカーI作戦」
1970 アメリカ軍は撤退していったが、空軍だけは南ベトナム軍を支援し続けた
ニクソンは、カンボジアにある共産軍の拠点空爆を指示

1972 アメリカ軍による攻撃はなくなり、ベトナム駐留のアメリカ兵は7万人となった。
3月、グエン・ザップ将軍が南ベトナムを攻撃。南ベトナム軍は劣勢となり、アメリカ軍は北爆して侵攻を食い止めた
「ラインバッカー作戦」と名付けられた空爆で、北ベトナム軍を攻撃。ザップ将軍は敗北した。

ニクソンが北京に行くと、ベトナムの共産主義者らは、中国がハノイ支援を中止するのではと危惧した。
彼らは、ベトナムが南北分断のままの和平協定には反対した。


「クリスマス北爆」
1972 パリで和平会談が行われ、ニクソンは北爆を中止したが、共産軍はベトナムの南北分断という条件を拒否。
ニクソンは北爆して停戦を認めさせようとした。
「ラインバッカーⅡ作戦」=「クリスマス北爆」はベトナム戦争において最大規模だった。
共産軍はパリで停戦に同意した。

「クリスマス北爆」で破壊されたハノイの病院跡。高高度からの爆撃は正確ではなく、惨事も多かった


北ベトナムの村人はアメリカ軍機に見つからないよう橋を樹木でカムフラージュした。

1973 北ベトナムの代表レ・ドク・トと、キッシンジャーはノーベル平和賞受賞(なんでやねん
レ・ドク・トは「継続的な平和を保証するものではない」という理由から辞退した。
彼の予想通り、1975年、大規模な戦闘が再開する

実は、この2人による交渉は1970年から秘密裏にはじまっていた。
1/27 停戦が約束された。


戦争捕虜
北ベトナム軍の捕虜となったアメリカ軍人は660人以上。9年間監禁された者や、脱走者もいる。その多くが虐待、拷問を受けた。
南ベトナム軍は、何千人もの共産軍捕虜を収容せず、当然のごとく殺害した。
パリ会談では、捕虜の全員解放を約束した。

1973 「帰郷作戦」で591人の捕虜が故郷に帰るが、戦闘中の行方不明者約2400人はそのまま。

捕虜・行方不明者のブレスレット。姿を消した日付が記されている


北ベトナム兵、ベトコン捕虜らは、南ベトナムの捕虜収容所に送られ、移送中に尋問された。
南ベトナム軍の尋問は残忍だった。

北ベトナム兵が腕を縛られ、監視しているのはアメリカ第1騎兵師団の兵士


アメリカ兵が、ベトコンとおぼしき若者を尋問するため、逃げないよう縄で拘束して連行している。
南ベトナムでは、農民に見えて、ゲリラという若者が多かった。



サイゴン陥落
1973 アメリカ議会は、東南アジアに投入する軍事予算を削減。
南ベトナムは、アメリカから見捨てられたことを知って士気が低下。

1974 政治スキャンダルで辞任したニクソンの後を、副大統領だったフォードが継いだが、反撃しなかった。

1975 北ベトナムの攻撃が最大規模になり「ホーチミン作戦」、南ベトナム軍はアメリカ軍の空の支援がなく2ヶ月ほどで一掃された。
ついにサイゴンは陥落。30年あまり続いた戦争が終わり、何千という北ベトナムの人々がハノイで行進した。

大勢の南ベトナム軍兵士が、軍服などを脱ぎ捨ててサイゴンから脱出。捕虜になるのを恐れ、避難民に紛れ込もうとした


北ベトナム軍とベトコンに脅えた村人は、家を捨て、大挙して避難した。食料もなく、何千人もが逃避行中に死んだ。
政府や、アメリカ人のもとで働いていた者は、制裁を受ける危険があった。

アメリカ大使館近くの建物で、ヘリに乗り込む人々は3000人以上。
当日、南ベトナムは降伏。共産軍が入ったため、400人が大使館に取り残された。




戦後
ベトナム戦争の犠牲者は、アメリカ人死者5万8000人以上、負傷者15万3000人以上。
ベトナム人死者は、戦闘員100万人以上、民間人400万人以上。負傷者数は不明。

新国家、ベトナム社会主義共和国は疲弊し、共産主義とそうでない者の間に深い溝を残した(最初に戻っただけじゃん
大勢が他国、とくにアメリカに避難しようと小さなボートに押し込まれて放浪した。

1976 4900万人の人口は、2004年に8206万人となる。その3/4が地方の農民だ。
ハノイはベトナムの首都となり、サイゴンはホーチミン市となり、人口は700万人、ベトナム最大の都市となった。
共産政府は、仏教を弾圧し、施設を収用した。
元南ベトナム兵の墓地は、国家の敵として見捨てられた。


「ボートピープル」


サイゴン陥落後、近代史で最大規模の避難民が海を渡り、最終的に100万人以上のベトナム難民がアメリカに移住した。
避難民は、かつての政府役人、兵士とその家族が多かった。
中には「アメラジアン」(ベトナム人女性とアメリカ軍人の間の子ども)も大勢いた。


「地雷」
ベトナムには、いまだにソ連製の対戦車地雷が大量に埋まっている。
それで命を落としたベトナム人は、2004年までに約4万人、負傷者は何千人にもなる。

「放置されたままの戦車」
1985年になっても、錆だらけの戦車はそのままに、昔ながらの荷役動物は田舎で仕事に励んでいる。
戦後のベトナムは、軍事機材の残骸撤去が残されている。


荷役動物も問題だと思うが・・・



退役軍人
同盟国の退役軍人は、祖国で「全力を尽くさなかった」と非難を浴びることが多かった。
アメリカには、ベトナム以前の戦争の退役軍人団体がいくつかあるが、ベトナムの退役軍人は加入拒否されることもあった。
その後、母国に奉仕したと讃えられた。

「ウォール」
1981 ベトナムの戦死者名を刻んだ記念碑がワシントンDCにつくられた。

「退役軍人の日」
ベトナム戦没者記念碑前でさまざまな催しがある。ベトナム戦争の退役軍人数は820万人で最大。


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『風と木の詩』3巻(小学館叢書)

2015-06-07 13:57:47 | マンガ&アニメ
『風と木の詩』3巻(小学館叢書)
竹宮惠子/著

「マンガ感想メモリスト」カテゴリーに追加しました。


本巻では、よりジルベールとボウの関係が明らかになり、ボウの衝撃的な過去も分かる。
そして、もっともショッキングなのは、父と息子の近親相姦。これは究極の父性愛なのか?!
世の中には今でも貧困から身を売る子どもたちがいる。時には自ら、時には無理矢理。
親子間、養父母からの性的虐待も、実際あるだけに、身につまされる。

2人の関係も気になるけど、この巻ではセルジュがまったく出てこないのは寂しい。
セルジュ自身の過去も気になるけど、それは描かれないのかな?


【内容抜粋メモ】

[第四章 ジルベール]
1874年、ジルベール7歳。

ボウがしつけようにも、生来身に付けた動物的感覚はそのままだった。
そんなジルベールをボウは暴力でねじ伏せる。
事情を知らない家政婦たちは、ボウが兄の妻を愛していたから、その腹いせだと噂する。
すべてを知っている執事はボウを諌めるが、兄がボウにした仕打ちを知っているため強くは言えない。



1876年、ジルベール9歳。
ボウは、ジルベールの天性に備わる美と、男女問わず惹きつける宿命に気づく。

 

ジルベールは、あらゆる動物を飼っていたが、青狐ケンが狐狩りで猟犬に殺され、怒りで猟犬を2匹殺し、酷い傷を負う。
“親の束縛もなく、社会の規律も知らず、己の存在を許された空間で ただ自然に育っていく植物のように 彼は生きていた”
(ある意味、最高だね

近所の猟師の男子タズトが、ジルベールを女の子と間違えてナンパする。
その様子を見ていたソドミーで有名な画家ボナールは「あの子を売ってくれないか」と交渉しようとする。

「パリ社交界のマダムキラー、オーギュスト・ボウがかわいい小姓を飼いこんでいるという噂は本当らしいな」
「私の小姓などではない。この館の当主ジルベール・コクトーだ。いくら君でもソドミーの相手にさらっていくわけにはいくまい」

それを立ち聞きしていたジルベールは、自分がボウより立場が上だと悟り、
ボウが自分に構ってくれないあてつけに、ボナールを館に留める。止める執事に今更、兄夫婦を恨んではいないというボウ。
「自分の蒔いた種は、自分で刈り取るがいい。手痛い失敗が生涯忘れぬ教訓になったというだけ」

“愛するな”“信じるな”“ジルベール、人を頼るな”

「オーギュが優しくしてくれる時、それは僕が火のように怒るオーギュの心を静めた時だけ・・・」

ボナールは、ジルベールが父に似てないのは、母親の浮気相手の子だからだと家政婦から聞き出す。
「父親がボウだとしたら、こいつはユスリのネタにだってなる。これは実力行使あるのみだ」

ボナールは、下男に麻薬カラマジャーナで眠らせたジルベールを雨に濡れないよう油紙に包んで(!)連れ去る。
それを知ったボウは、「ジルベールは、生まれた時から父も母もいない。一人で生きる獣だ。誰に従属も依存もさせぬ」といって追わない。

ボンヤリしたまま売春屋に連れて行かれるジルベールを見かけるタズト。
ジルベールはボナールに遊ばれ、宿から抜け出し、海に入り、タズトが運良く見つけて、ボウの元に届ける。

 

「哀れなものだな。体中の筋肉が後悔にひりひりと痛んで、歩くと体が二つに裂けるようだ。
 あられもない姿で抱かれた後は、意地も誇りもどこかへ吹っ飛んでしまった。
 ボナールに罪と恥を体中に塗りたくられて帰るくらいなら死んで戻れ!」

“これでおしまいだジルベール。青い宝石。私の芸術品。お前もまた例外なく粉々に壊れるだろう。
 性の前に泥臭く。人間臭く、汚(けが)れてゆく・・・”
(レイプされた被害者もこんな心境だろう

 


ボウは、過去の自分を思い出す。

あれは「力」であり「支配」だった。そして、有無を言わさぬ「飼育」。
 この家を離れては飢えるほかはない。だから私はいつもより強い「力」の出現を待っていた。
 兄を叱ってくれる養父。しかしその養父も結局は、私を兄の病的性癖のために孤児院から選んだ人間だった。
 私は今も待っている、より強い「力」を・・・私がジルベールを支配する?”

“お前を無垢のままにおくことが、私の人生への復讐だったのだ。私を裏切り、私を曲げつづけた薔薇色の人生への!
 私をまげてしまったあの「力」に、お前の無垢な精神は、断じて汚(けが)されるな!
 それくらいなら狂ってしまえ! でなければ私が・・・私の「力」でお前を支配する!”



“忘れてしまえ。この愛撫のもとに、ボナールの愛撫など、覆い隠してしまうがいい。お前の柔軟な自然の魂よ”


“今、ジルベールはもう人形でもなければ、忠実な猟犬でもなかった。オーギュストと対等に愛し合う、恋の相手・・・
 力ずくの愛撫の前に崩壊しようとする彼の自我を救うには、より強烈な、かつ深い愛撫以外になかったのだ”



「ジルベールが私に触れるのは、乳飲み子が母親の乳をまさぐるようなものだ」

彼にとって二人だけのこの日々は、幸福だったと言えるだろう。
しかし、いつもなにかに飢えていた孤独な影は姿を消し、自信に満ちた明るさが彼を支配しはじめると
今まであれほど私を捕らえて離さなかった彼の魅力が、急速に消えてゆくのを感じざるを得なかった。


“そう彼は動物の本能で知っていた。自分と他のものがつながれるのは、その瞬間だけであることを”

ボウから無視される孤独を他人に向けるようになっていくジルベール。
そこにアンヌ・マリーから手紙が届く。
「この秋、私たちは仕事でそちらへ一時帰らねばならないので、あの子としばしパリへ行ってはくださいますまいか?」

ハンストしたジルベールを心配する執事。ボウは執事がマリーにジルベールのことを逐一報告していたことに気づく。

「そんなに心配なら、最初から引き取って育てればよかったのに」
「私めはただの使用人で」
「逃げ道のあるものはいい。“それとも逃げ道を自分でつくるのが「生きる」ことなのか”」


体の弱ったジルベールを、日ごろから目をつけていた使用人が襲い、隙をみてジルベールは彼の腹を刺す。
執事から「召使いたちも信用できません」と言われ「パリへ発とう。明日の朝一番に」

“私にこの強さがあったら、すべての状況は変わっていただろう。
 無邪気な仕草、無防備な甘え。それを肌で感じるたび、私は心の一方の端で己の父性を思い、
 もう一方の端では、冷酷な観察者を意識する”

1877年、2人はパリに発つ。
パリではなにもかも新しく、美しく、自由で、ジルベールはすぐに街にも、社交界にも順応し、寵愛される。
ボウの屋敷では、事情をすべて知っている執事兼秘書レベックが世話役となる。
その他、家政婦長モーヌ夫人、世話係のアルラ。

 

“奇妙な子どもジルベールを、パリは苦もなく受け入れた”

大物ル・クール夫人に社交界からの招待が来て、断れないボウ。
ジルベールの噂はまたたく間にボナールの耳にも届く。
そして、若き政治家ロスマリネ(当時15歳)がボウに近づき、生徒総監の席を狙う。
北欧貴族のロスマリネ家は、コクトー家の権力下にある。

ボウがずっとマルセイユにいたことを持ち出し、双眼鏡でジルベールを見ていたことと関係があるのかと聞くと、ボウは釘をさす。

 

ボウはパリにボナールがいることに気づいてうろたえ、パーティはすべて断れとレベックに命ずる。
それを聞いたジルベールは、「いつだってこうなんだ。オーギュは必ず僕の楽しみを取り上げる!」

ボウが病気だと言っても、ジルベールだけでも来るようにとレタニエ夫人からの迎えの馬車が来て、乗って行くジルベール。
“行ってくるがいい。ボナールが待っている。縫い合わせた傷をもう一度開かれたければ”

ジルベールはボナールと再会する。

 

“拒んでも、拒んでも、結局は決められた運命の意のまま。どうでも好きにしろ。
 僕の体にドアをつけて、開けたり閉じたりすればいい。いくらでも覗くがいい! もう拒まない

オーギュに結婚話があることを知るジルベール。
ボナールは「君が十分納得して、身も心も委ねてくれるのを待つ」と言う。

「二度と社交界なぞ出てやらない!」「まず二度と誘いは来ない」(そんな世界なの。面倒臭いなぁ

オーギュに相手にされない孤独を埋めるため、寒い夜に雨に打たれているジルベール。それを馬車から観察するロスマリネ。
このままでは死んでしまうと入ったのは、ボナールの屋敷だった。

 
ボナール邸で下働きをしているチノとルノー/ルノーはジルベールに嫉妬し、「娼夫め!」と蔑む

「いいかジルベール。“誇り”だ。そのお前の尊大な、お前を守る武器は、それだけだ。忘れるな」
初めて身売りをしようとしたジルベールに優しいボナール(悪い人じゃないんだな

ロスマリネは、そのネタを持ってボウを訪ね、ジルベールが雨の晩逃げ込んだのはボナール邸だったと告げる。

「君は次の学期に生徒総監として立つつもりらしいが、上級にあがったばかりで可能だと本当に考えているのか?」
「あなたの援助があれば、あるいはそれも夢じゃない」

「そして人望ある統率者として卒業し、大学で政治学を学び議員になる。そういう道かね、君の望みは?」
「ウイ、ムッシュ」

「だが1つだけ大事なことを付け加えておこう。もし、このことで少しでもよこしまな噂が流れたら、
 その時は、いかなる場合も例外なく君の仕業と承知する!
 そして、私は君の将来を完璧に、握りつぶしてしまうこともできる」



[巻頭のカラーページ・巻末イラスト集]
 


この巻から「ケーコたんの1/4コーナー」なんてのも出来て、ファンとのコミュニケーションの場になっている。


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テニス名試合まとめ

2015-06-07 13:56:00 | テニス名試合まとめ
錦織圭くんの大躍進に刺激されて、またテニスの試合をテレビで観るようになった。
そしたら、昔観た数々の名プレイヤーによる、名試合がもう一度観たくてたまらなくなった。

  

私がテニス観戦しはじめたのは、男子ではステファン・エドベリ、ボリス・ベッカー、アンドレ・アガシ、イワン・レンドル、
女子ではクリス・エバート・ロイド、マルチナ・ナブラチロワ、シュテフィ・グラフ、ガブリエラ・サバティーニ、モニカ・セレシュあたりが主。
マルチナ・ヒンギスあたりから、次第に遠のいて、それから十数年近く観ていなかった。





ノートに書いた試合のメモと、スクラップブックに貼った当時の新聞記事がバラバラなので、
どの試合が、どの記事に当てはまるのか分からなくなっちゃったけど、
できるだけ、ノートの記録をメモに残しておきたいと思う。

このブログを始めたのは2006年以降だけど、2004年1月からのスペースを使いたいと思います。
(どんどん遡ってるな・・・

なるべく古いものから時系列に並べたいけど、なにせ昔なので、混乱して間違っていたらスミマセン/謝


【1988】
1988 ANA杯決勝 アガシ×レンドル
1988 WIMBLEDON
1988 US OPEN



【1989】
・1989 Australian Open(記事のみ
 

1989 東レパンパシフィックオープンテニス@青学記念館
1989 French Open

・1989 WIMBLEDON(記事のみ






1989 アメリヤ・アイランド
1989 US OPEN
1989 NECフェデレーションカップ
・1989 グンゼワールドテニス(記事のみ




【1990】
1990 Australian Open
・1990 東レパンパシフィックオープンテニス(記事のみ


1990 JAPAN OPEN TENNIS
1990 French Open
1990 WIMBLEDON
・1990 ボルボ・テニス・ロサンゼルス(記事のみ


・1990 US OPEN(記事のみ
 

 

1990 SEIKO SUPER TENNIS(記事のみ

・1990 グランドスラムカップ(記事のみ




【1991】
1991 Australian Open
1991 東レパンパシフィックオープンテニス(記事のみ
・1991 SUNTORY JAPAN OPEN TENNIS(記事のみ


1991 JAPAN OPEN TENNIS
1991 French Open
・1991 WIMBLEDON(記事のみ


・1991 US OPEN(記事のみ


1991 ニチレイレディース@有明コロシアム
1991 SEIKO SUPER TENNIS
・1991 18th グンゼワールドテニス(記事のみ


1991 ザ・コンパックグランドスラムカップ@ミュンヘン・オリンピックホール
1991 デビスカップ(デ杯)(記事のみ



【1992】
1992 SUNTORY JAPAN OPEN TENNIS
・1992 JAPAN OPEN TENNIS(記事のみ


・1992 Barcelona(記事のみ


1992 French Open
1992 WIMBLEDON
1992 US OPEN
1992 ニチレイレディース@有明コロシアム
1992 SEIKO SUPER TENNIS
1992 パリ・インドアテニス
1992 第3回スーパーグランドスラムカップテニス



【1993】
1993 東レパンパシフィックオープンテニス
1993 JAPAN OPEN TENNIS
1993 French Open
1993 WIMBLEDON
1993 20th グンゼワールドテニス
1993 US OPEN
1993 SEIKO SUPER TENNIS

1993年4月30日、セレシュはドイツ・ハンブルクの「シチズンカップ」準々決勝で
 ブルガリアのマグダレナ・マレーバとの対戦中に、暴漢ギュンター・パルシェに背中を刺された→ウィキ参照


『私は負けない』 モニカ・セレシュ/著 徳間書店(1)
『私は負けない』 モニカ・セレシュ/著 徳間書店(2)
『私は負けない』 モニカ・セレシュ/著 徳間書店(3)





【1994】
1994 セーラム・オープン・テニス・チャンピオンシップス
1994 JAPAN OPEN TENNIS
1994 French Open
1994 WIMBLEDON
1994 US OPEN
1994 SEIKO SUPER TENNIS


  



【1995】
1995 Australian Open
1995 JAPAN OPEN TENNIS
1995 French Open
1995 WIMBLEDON

ウィンブルドン伝説の名勝負 松岡修造×ピート・サンプラス 1995年 準々決勝

1995 US OPEN
1995 SEIKO SUPER TENNIS



【1996】
1996 Australian Open
1996 東レパンパシフィックオープンテニス
1996 French Open
1996 アトランタオリンピック
1996 WIMBLEDON

ウィンブルドン伝説の名勝負 伊達公子×スティフィ・グラフ 1996年 準決勝
1996 US OPEN
1996 ニチレイレディース@有明コロシアム



【1997】
1997 Australian Open
1997 French Open
1997 WIMBLEDON
1997 US OPEN



【1998】
1998 Australian Open
1998 French Open
1998 WIMBLEDON
1998 US OPEN
・1998 トヨタプリンセスカップ(元ニチレイ・レディース、記事のみ)




【1999】
1999 Australian Open
1999 東レパンパシフィックオープンテニス
1999 French Open
1999 WIMBLEDON
・1999 US OPEN(記事のみ



【2000】
2000 Australian Open
2000 東レパンパシフィックオープンテニス
2000 French Open
2000 WIMBLEDON
2000 US OPEN


【2017】
日清食品ドリームテニスARIAKE2017@有明コロシアム(2017.11.25)





過去のノートをひっくり返してみたところ、
どうやらテニスへの興味は2000年でプッツリ切れてしまったらしい。

私が夢中になって応援してたプレイヤーが次々と引退して、
ヴィーナス姉妹時代になってから、見知らぬ、個性の薄い選手ばかりに見えてきたのが理由。

日本人選手もいっこう育たないばかりか、他のスポーツに皆の興味がうつって、
土台づくりから危うかったところを、伊達さんや修造さんたちはずぅっと、
次の新星となるべく子どもたちを育成しつづけていたんだな/敬服

そして、今、錦織圭くんフィーバーで、ようやくテニスの話題が増えてきた。
私のこの目で、圭くんの4大大会優勝シーンが見れる日も遠くないかもしれない。
期待してるよー!!!


最後に、どの大会かメモらないまま写メって分からなくなった記事ほか
私の好きな選手たちの写真・記事のまとめを載せて、このコーナーは終わりにしよう。

ステファン・エドバーグ

モニカ・セレシュ

伊達公子

松岡修造 ほか

アンディ・マレー



レジェンドの名勝負まとめ

ウィンブルドン名勝負



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