■NHKスペシャル「総力戦 なぜ敗れたのか~防御を軽視した技術開発~」
第3集 エレクトロニクスが戦を制す~マリアナ・サイパン~ 1993年放送
太平洋戦争では日本人だけでも300万人以上が亡くなった
大国アメリカに対して行った「総力戦」
日本は、なぜ、どのように敗れたのか
NHKアーカイヴス「ドキュメント 太平洋戦争」ではその敗因を検証している
<おおまかな内容>
敗戦をほぼ決定づけた「マリアナ沖海戦」
勝敗を分けたのは科学技術と防御に対する意識の差だった
午前7時 第一次攻撃隊242機が飛び立った
「レキシントン」
レキシントンのレーダーが日本軍の動きをいち早くキャッチ
ただちに戦闘機450機が飛び、日本軍機の上空で待ち伏せた
元アメリカ軍パイロット:
完璧なポジションでした
どうぞ撃ち落してくださいといわんばかりに敵がやって来た
アメリカは国をあげて、当時最新鋭のレーダーを開発 万全の体勢で待ち構えていた
一方、日本軍を支えていたのは兵士たちの「見張り」
<戦闘機の違い>
アメリカは「防弾鋼板」などを装備して、パイロットの命を守ろうとしたのに対して
日本は防御を軽視し、機体を軽くして、飛行速度をあげることを優先した
(今の企業や社会の在り方に似てないか?
零式艦上戦闘機(ゼロ戦)
元ゼロ戦の設計技師:
我々は腕を磨き、訓練をよくやって、“大和魂”で突貫しなくちゃいかん
<玉砕と特攻>
玉砕と特攻の精神で戦うことを強いられた兵士たち
多くの若者が南の空と海に散った
保阪:
20世紀の科学技術は軍事の枠の中で大きく進み、戦場で使用していたのが日本
技術の中にも“人間”を絡ませていたのがアメリカ
科学技術とは何なのか、このフィルムを見ると問いかけがいっぱいあると思う
「ドキュメント 太平洋戦争」
昭和19年6月 太平洋戦争中、最大の戦闘となった「マリアナ沖海戦」
マリアナ沖を日本のゼロ戦が発進した
これに次ぐ、サイパン島の陥落により、日本敗戦がほぼ決定した
日米決戦の勝敗を決めたのは、戦後に至るまで日本がほとんど知ることのなかった
アメリカのエレクトロニクスを結集した電子計器だった
「サイパン島」
「バンザイ・クリフ」
この高い崖の上から大勢の住民、兵士が飛び降りて自死し
戦後「バンザイ・クリフ」と名づけられた
小さな島全体で5万人を超える日本人が玉砕した
マリアナ沖でも日本軍は一方的にやられて敗戦を決定的にした
今回は日米の科学技術の戦いに注目した
国力や技術力の差では済まない、科学、人命に対する考え方、思想の違いが浮かび上がってくる
<なぜサイパン島が決戦場となったのか>
開戦からすでに2年半
国民を総動員して戦った日本 主導権は完全にアメリカに握られていた
国力と戦力の差は決定的だった
当時「大本営」は昭和18年9月午前会議において「絶対国防圏」の確立を決定
戦線を縮小し、下は千島からサイパン、ビルマの防衛線を確保して
連合軍の日本軍への攻撃を阻止しようとした
「絶対国防圏」
東京から約2200kmのサイパンでは、陸海軍4万3000人が島の防備を固めつつあった
島には日本人住民約2万人が暮らしていた
昭和18年8月 ケベック会談
同じ頃、マリアナ諸島に注目したルーズベルトとチャーチルがマリアナ諸島の占領作戦を決定
アメリカの長距離爆撃機B29 航続距離6000km
サイパンから日本がほぼ行動圏に入る
マリアナ作戦は1945年6月15日と決定
昭和19年6月
アメリカ海軍の大艦隊が出動
総指揮官はミッドウェー海戦の覇者スプルーアンス大将
昭和19年6月15日17:45
アメリカ軍の侵攻が開始され、日本軍と水際の攻防戦が行われた
日本海軍は劣勢の報告を受けて、敵艦隊を撃滅する「あ」号作戦を始めた
戦艦大和・武蔵など5隻、瑞鶴などの空母9隻からなる
すべての戦力を投じて向かったが、アメリカの数は圧倒的
軍令部作戦部 野村實中尉:
艦隊も軍令部も、主力の決戦だと、これが太平洋戦争の勝ち負けを決めるという感覚だった
2人は天皇に作戦を話した
天皇から東條英機にサイパンを奪われた際の東京空襲の懸念を
嶋田に対しては、立派な戦果をあげるよう伝えられた
6月18日
小沢中将率いる艦隊はアメリカ艦隊を目指していた
「アウト・レンジ戦法」
ゼロ戦は、当時、世界の水準を超えた、日本が誇る戦闘機だった
日本の航空機の航続距離が長い特性を生かした戦法
日本軍に届かない位置から攻撃すれば必ず勝つと信じていたが重大な誤算があった
第一機動艦隊の先陣をつとめた「653航空隊」
パイロットたちは燃料不足などにより、発着艦の訓練すら満足に受けていなかった
20歳前後の兵士の多くが亡くなった
第一機動艦隊 航空参謀 田中正臣少佐:
パイロットが使いものにならん
操縦に関しては何もできんですね
発着艦もやっとぐらいでしょう
6月19日
敵艦隊発見の報告があった 小沢は「アウト・レンジ戦法」を発令
653航空隊は「250爆弾」を抱えたゼロ戦の出撃準備を整えた
午前7時、242機が飛び立った みな歓喜で見送った
第一機動艦隊 航空参謀 田中正臣少佐:
長官の顔を見ていたらこれは勝ったなという感じだった
「レキシントンの最新鋭のレーダー」
しかし、レキシントンの最新鋭のレーダーが日本軍の動きをいち早くキャッチし、全軍で待ち構えていた
太平洋戦争前から開発を進めていたレーダーは、
電波で敵の方向や距離を測り、高度も感知する装置も備えていた
さらにCIC(集中戦闘情報室)にレーダーの情報を一手に集め、
上空の航空機に無線で伝える、現代と同じ戦闘システムを備えていた
中核となるのは、PPI(平面型レーダー表示器)で、周囲360度の敵の位置をとらえる
この時、レキシントンだけで100人のオペレータが配置され、完全な防御体勢を整えていた
カーネギー研究所 研究員 L.ブラウン博士(アメリカのレーダー開発史研究の第一人者):
第二次世界大戦前から世界的に戦闘機の性能が上がり、戦艦や空母の大きな脅威となっていた
レーダーの防御システムの開発が早急に進められていた
日本もレーダーを装備していたが、その探知能力はアメリカに比べ著しく劣り、
おおよその距離と方向が分かる程度、取り扱いも難しいものだった
アンテナを手で動かして、その方向の40~50度の範囲しか探知出来なかった
再現モデル
左から右へと電波が走る 柱になっている部分は、対象物から返ったエコー
このエコーから船までの距離や位置を読み取っていた
この再現モデルではビルからのエコーだからハッキリしているが
航空機など小さな物体だと見分けにくく、当時の技術者の勘に頼っていた
<日本はなぜ、この程度のレーダーしか開発できなかったのか?>
昭和16年12月8日 真珠湾攻撃
昭和16年12月10日 マレー沖海戦
日本軍は、開戦時、多くの攻撃機を使い、アメリカ、イギリス艦隊を攻撃した
それは航空戦の本格的な時代の幕を開け、これをきっかけにアメリカ、イギリスは
防御装備の研究・開発に力を入れたが、当の日本軍はその方向には行かなかった
「開戦要務令」(海軍の基本的な戦いをまとめた)が大きな影響を与えていた
明治の日露戦争の際に骨格が作られ、艦隊を中心とした集中攻撃が第一とされていたため
防御は補助的とされ、その重要性はほとんど認識していなかった
通信機製造会社 真空管部長 中島茂:
レーダーの電波を出して、敵を見つけて襲撃するなんてことは
ほとんどの軍人が夢にも考えないバカな戦争の仕方だと
こんなものは兵器に使えないと言う軍人ばかりだった
それでもレーダーの開発は陸海軍で密かに進められていた
<マリアナ沖開戦の頃の模様を撮影>
実用化には至らなかったが、高度測定用だった
当時の秘密主義と“セクショナリズム”で研究体制はまだまだだった
民間の科学者を結集することが出来ず、軍人の無理解の中で一部の科学者が細々と続けていた
なんか楽しそうに作ってるなあ
出来上がったレーダーも故障が多く、戦艦に装備されても邪魔者扱いされた
当時は優秀な目をもつ見張りの兵士に防御が委ねられていた
遠くのものを見る厳しい目を鍛え上げられ、“名人芸”とさえ言われたが限界があった(芸じゃないから・・・
連合艦隊参謀 千早正隆中佐:
我々が一番難しいのは対空の見張り
水平線の見張りは割合眼鏡で見えるが、空は何もないところだと分からない
だから今のままじゃ出来ませんと言っても、誰も聞いてくれない
厚生省の敷地内に当時の軍令部があった
日清・日露戦争を経て、日本はひたすら攻撃を重視して、防御の発想を持たなかったことが
防御の装備を遅らせる大きな原因になったと思われる
しかもこの艦隊決戦主義は、ミッドウェー、ソロモンの海戦ですでに破綻していたが
幹部はその変化に対応できずに、マリアナでも同じような決戦を挑んだ
日本の編隊はアメリカ戦隊に接近した
空母レキシントン レーダー担当 R.モーランド中尉:
レーダーに影が映ったのは9:30 200km前方から敵が来るのをとらえた
その情報を戦闘機に伝え、ただちに450機が発進 日本軍機の上空で待ち伏せた
空母レキシントン パイロット A.ブラシュー中尉:
完璧なポジションでした
どうぞ撃ち落してくださいといわんばかりに敵がやって来た
敵はまだ気づいていない様子で、私は「これは夢ではないだろうか」とつぶやいたのをハッキリ覚えている
ゼロ戦パイロット 小平好直少尉:
ずっと手前に来て待っているわけですから
何段にも構えて、上から飛びかかってくる状態です
アメリカ軍機の攻撃にゼロ戦は混乱した
653航空隊小隊長 原義雄 兵曹長:
後ろから来たと思ったら突っ込むんですね 250kgの爆弾を積んでいますから
戦争のなんの経験のない者が隊長機でやっている
突っ込んでくるのが分かれば、先に突っ込めばかわせるが、
経験がないから、そのまま一直線で飛ぶからヤラれる
艦上爆撃機彗星 偵察員 本江博大尉:
次から次にダーっと真後ろに来ますから、右左と飛行機を滑らせて逃げ回った
(よく助かったなあ・・・
<ベテランパイロットがいない日本軍機>
この時初めて250kg爆弾を積んだため、その動きが封じられ、格好の標的とされた
第一機動艦隊 航空参謀 田中正臣少佐:
誰もアメリカがあれだけの電探とは分からない
小沢長官は駆逐艦あがりの人ですから
どういうレーダーを持っていたかなどの情報は入っていないんです
アメリカ軍はゼロ戦の性能を徹底的に分析し
スピードや上昇力などで上回る「F6F ヘルキャット」を完成していた
F6F ヘルキャット
もっとも異なるのは防御力
操縦席のうしろにパイロットを守るための「防弾鋼板」などがほどこされている
ヘルキャット主任設計士 R.ハットン:
ゼロ戦は銃弾を受けるとすぐに燃えてバラバラになるという報告があった
我々はなによりパイロットの命を守ろうとヘルキャットを設計した
ゼロ戦と同じ運命をたどらないために、防御・防弾には全力を尽くした
戦力のパイロットの損失を最小限にとどめることが目的だった
1人のパイロットを育てるのに、約2年の歳月と、
75000ドルの費用(今の約2億円)がかかると言われていた
ヘルキャットの出現で、ゼロ戦と、優秀なパイロットが次々と失われていった
<ゼロ戦の最大の特徴は、機体を最大限に軽くした構造>
ウィニペグ(カナダ)
カナダでゼロ戦の完全復元を試みている工場を取材
ソロモン諸島で見つけた残骸からその内部構造を間近で見れた
尾翼の骨組み
アルミニウム合金でできていて、たくさんの穴を開けてあるため、片手でも簡単に持ち上がる
軽くすることで航続距離を延ばし、運動能力を上げる設計で
パイロットの命を守るという発想はない
653航空隊小隊長 原義雄 兵曹長:
風防1枚だけ タンクにも防弾がない
だから空襲が来ても、パパっとやられたらパっと墜ちるんです
“戦闘機といえども防御を考慮すべきである 防弾タンクは絶対必要なり”という切実な訴えもあった
昭和18年 ゼロ戦の防御について話し合われた
源田は真珠湾攻撃の航空参謀で強い発言力を持っていた
<大和魂>
ゼロ戦を設計した技師 曾根嘉年:
源田さんが立ち上がって「みんなの議論を聞いていると情けない」と
“大和魂”で突貫しなくちゃいかん
そういう議論をやめて、うんと軽くて良い飛行機を作ってもらって
我々はその腕を磨き、訓練をよくやって、この戦争を勝ち抜こうじゃないか」と
一席、大演説をされたんです そしたらもう皆黙っちゃってね
防御力のないゼロ戦は、その優秀なパイロットを失い、攻撃力を失っていった
19日 9:45
ヘルキャットをくぐり抜けたゼロ戦がようやくアメリカ艦隊に達した
艦上爆撃機彗星 偵察員 本江博大尉:
やっと戦闘機をかわした頃に機動部隊がパッと見えたんです、目の前に
ここで凄まじい対空砲火を浴びた どの砲弾も正確に狙いを定めていた
艦上爆撃機彗星 偵察員 本江博大尉:
ボンボン撃ってきた 高度3500mで機銃は届かない 高角砲が主なんです
飛行機がその都度グラグラ揺れる それが段々近づくものですから
右によけろ、左によけろと言って、高角砲をよけだした
「VT信管(近接信管)」
アメリカは当時、画期的な砲弾の起爆装置を初めて本格的に使用した
電波により目標を感知するこの砲弾が、対空砲火の威力を飛躍的に高めた
VT信管を設置された砲弾は、発射されると周囲15mに電波を出し、
目標を感知すると自動的に爆破し、直接爆弾が当たらずとも、その破片や爆風で敵機を撃ち落す
(ニンゲンは、その優秀な知識で恐ろしいものを無限に考え出せるんだな
これは軍備をもっとしっかりしていれば勝てたのにって話なのか?
VT信管もレーダー同様、戦艦・空母を敵機の攻撃から守るために開発された防御兵器
アメリカは、開戦前からエレクトロニクス兵器の開発を極秘に進めていた
1940年6月、ルーズベルトは科学者を国防のために動員する大統領令を出した
全米の400余りの大学と研究機関から3万人の科学者が集められ、最新化学兵器の開発が進められた
(アメリカの軍備に対する情熱は誰にも止められないのね
<VT信管も民間の力から生まれた>
実用化のカギは新しい真空管にあった
拠点はワシントンにあるカーネギー研究所
VT信管 開発スタッフ H.セルヴィッチ博士:
小さくて、砲弾が発射された時の激しいショックに耐えられる真空管の開発が要求された
当時は絶対に不可能と思われていた
ここでも、女性が笑顔で兵器を作ってるよ
数千種類もの試作品を作り、1つ1つに耐震テストが繰り返された
(今、世界から批判されてる国と同じことを、アメリカも相当昔からずっとやってたんだ
そして、太平洋戦争開戦直後、2万G(地球の重力の2万倍)の衝撃に耐えられる真空管を完成
当時、実験に使われた真空管などは、今もカーネギー研究所に保存されている
真空管自体は長さ3cmほど これが「VT信管」に4個使われていた
当時のアメリカの最先端の科学技術が結集された
1942年4月 VT信管発射実験がニューメキシコで行われた
これまでの20倍に命中率が上がり、機体には無数の穴があき、その破壊力が確認された
「VT信管」はその後の戦争の姿を一変させ、アメリカでは“原爆に匹敵する新兵器”と言われた
今日、すべてのミサイルに使用されている「VT信管」が、マリアナ沖で初めて全艦隊に装備された
19日 10:00
「VT信管」の対空砲が一斉に火を噴いた 日本が「VT信管」を知ったのは戦後
レーダー、ヘルキャット、「VT信管」により、日本の攻撃隊は壊滅した
出撃から3時間後、司令部になんの連絡もない
第一機動艦隊 航空参謀 田中正臣少佐:
飛行機隊が出てから電波が全然来ないんですよ
小沢長官も分からんし、幕僚も誰一人分からん どうなってるのか
そのうちに飛行機が駆逐艦の横に不時着したりして
もうすでにこれは負けたなと思ったんです
出撃した約6割が帰らなかった(数値は当時のもの
653航空隊のパイロット153人中93人が帰らなかった
「アウト・レンジ戦法」は完全に失敗した
6.20 15:00
アメリカの機動部隊216機が日本艦隊の追撃に移った
日本軍のレーダーがようやく敵機をとらえた時には目前に迫っていた
第一機動艦隊 航空参謀 田中正臣少佐:
この電探が使えなくて、ほとんど無いと同じだった
もう肉眼で見えるぐらいになって、敵機が来たという状況です
こちらが準備するどころじゃないんです
6.20 17:00
アメリカの攻撃隊が日本艦隊を襲った
前日の戦いで戦闘機を大量に失い、迎え撃つ手立てはなかった
連合艦隊が存亡を賭けた2日間の戦いは終わった
日本は空母3隻、航空機300機を失い、軍令部の期待を打ち砕いた
軍令部作戦部 野村實中尉:
皆ずっと夜通し作戦室にいたが、20日は嶋田さんも来た
戦況を見てガックリして 立ち上がる元気もないほど、いつまでも座っている
レキシントンはマリアナ沖海戦についてこう報告した
“これほど被害の少ない戦いは太平洋戦争では初めてだった
レーダー等の開発に時間と費用をかけてきたことが、決してムダではなかったことが証明された”
日本軍には高性能の対空レーダーの開発を求める訴えが相次いだが
もはや要望を満たす態勢も物資もなかった
その後、サイパン島でも大きな悲劇をもたらすことになる
上陸に成功したアメリカ軍は、孤立した日本の陸軍・海軍の守備隊4万人を島の北部に追い詰めた
武器・弾薬・食料も消耗した日本軍は、ジャングルや洞窟にたてこもり抵抗したが
「バンザイ突撃」や「自決」で次々に玉砕した
7月 サイパンは3週間で陥落
2万人いた日本人住民、島民の多くが戦闘に巻き込まれた
とくに日本人住民は「投降することは恥」と教育されて
アメリカ軍の投降の呼びかけに応じる人が少なく、大勢が玉砕の道を選んだ
サイパンで戦死した日本兵は4万人、日本人住民の死者は1万人
日本兵は、日本人住民の命をここでも守らなかった
昭和19年10月12日 B29の第一陣がサイパンに到着
イスレイフィールド
<B29の本土爆撃が日本の敗戦を決定的にした>
終戦直後、アメリカ軍が提出した日本の科学技術についての調査報告書が公文書に残されている
“日本の軍部は現代的な戦争兵器の中でレーダーがいかに重要であるかを早く認識することはなかった
日本のレーダーの立ち遅れは、これが根本的な原因となっている
優れた科学者を擁しながら、人的資源を有効に生かせなかったのは、
すべて軍部の独善と過信によるものだった”
アナ:
戦後、「軍国主義」から解放された日本は、民間の科学技術の発展に力を注いで
今ではアメリカをしのぐ「技術大国」になったとさえ言われているが、本当にそうでしょうか?
売れる商品を開発する技術は素晴らしく発達したが、
一方で生命、安全、環境という基礎的な科学研究は
けして充分とは言えませんし、優遇されてもいません
以前の軍部のように、ひたすら経済や企業を優先させる、今の日本の精神構造が
科学の本来の姿を歪めてはいないでしょうか
また、企業で働くサラリーマンの生活や命さえも、そうした精神の犠牲になってはいないでしょうか?
この地で散った兵士の姿は、私にはけして遠い昔とは見えません
(眉村さんのサラリーマンSFも、こうして生まれたんだな
今では、過労死、うつ病、環境破壊、地球温暖化、異常気象による災害、いろんな形でさらに悪化している
1993年にも警告して変わらないなら、今、同じことを言って、果して変わるだろうか
昭和19年10月 日本は「神風特別攻撃隊」を編成した
この作戦を決意したのは、大西中将 彼は大本営にこう了解を求めた
“最近、敵は電波兵器を活用 わが攻撃機を阻止する
わが方はいたずらに犠牲も多く、この際、殉国の至誠に訴え、
必死必殺の体当たり攻撃を敢行する他に方策がない”
マリアナ沖でレーダーに敗れたことが特攻隊誕生のひきがねとなった
この捨て身の戦法は、一時アメリカ軍を恐怖に陥れた
太平洋戦争中、国に殉じた航空特攻の数は2406機 3863人
昭和20年4月 沖縄戦
さらに進化した「VT信管」の砲弾で戦死者を出した
***
<生かされなかった科学技術>
保阪:
科学技術をどう生かすかが大きな命題だったと思うが、日本はその点で欠けていた
いろんな問題が潜んでいると思うが、アメリカは現場の意見と研究者と国の連携が極めて密
日本は、科学技術は科学技術、軍は軍、技術者は技術者、バラバラで連携がない
科学技術が生かされていなかったというのが、今の映像の率直な感想ですね
アナ:従来通りではダメだという認識がなかった?
保阪:
ゼロ戦の弱さは具体的に分かっていた どう改造するかという会議で
精神論、突貫攻撃でという形で、科学技術の上に精神を乗せてしまう
それが日本人の文化なのか問われなきゃいけませんが
科学技術を理解する根底、まだ近代の仕組みを持ち得てなかったんだなと感じた
<軍事主導の弊害>
保阪:
私は、この戦争を政治や思想で論じるのではなく、もっと常識的に
私たちの文化の領域で論じると、反省点がいっぱいあると思う
その1つが「軍事主導」 軍事があらゆることをコントロールしていた
科学技術も軍事がコントロールした
そのために、“軍事に役立たないものは存在価値なし”というような発想だった
軍事とはいかに相手に勝つか
日本の兵士やパイロットも、人命というより兵器の一部と考えられていたのではないか
アナ:つまり、国民の生活を考える政府が機能していない?
保阪:
政治が軍事にまったく抑制されて、国民の生命・財産・生活をどう保障していくかは
軍事の枠でしか考えられなかった
アナ:アメリカが急速に科学技術を進めていた頃、日本の状況は?
保阪:
ある時私は調べたことがあって、登戸研究所などが陸軍にある
そこでどういう研究をしたのか研究者に聞いたら
「殺人光線、超短波の兵器をやっていた」
「それは国やシステムとしてやっていたんですか?」
「いや、個人的に○○さんがやっていた」
アナ:根拠のないものなんですね
保阪:
もっと酷いのは、最後になると、町の発明家に似たテーマをもってくる人がいる
水の上を歩く靴の研究などに上のほうがお金を出していた
研究するテーマ、システムが思いつきだったのではと思う
<優れていた日本の科学者>
アナ:
アメリカの戦後の報告書に「日本には優れた科学者がいるにも関わらず・・・」と書かれていて
優れた科学者もいたわけですよね
保阪:
昭和20年から様々な研究者が来て、日本をいろんな局面で調べている
彼らは日本の兵器研究についても調べた
その時、皆一様に驚いていたのは、日本の技術者のレヴェルの高さ
昭和6、7年、その後、国際連盟を脱退しますが、
その前に国際社会の理論を世界の学会誌に発表して
かなり注目される論文がいっぱいあった それをアメリカも知っていた
逆に言えば、それが戦時下の中でどうして兵器化しなかったのか、それが良かったんでしょうけど
軍がそれを考えるだけの頭脳をもてなかった
自分たちの考えることだけで科学技術を見てる、という報告はかなり的確だと思う
(兵器化しなかったのは日本人の優しさもあるかも
軍人は戦争しか考えず、科学技術の知識がなかったのにトップで指揮してたってことか
「八木アンテナ」
日本の技術力を示す一例として、電波研究分野で当時、世界的に高い評価を受けていたものがある
戦前、戦中、工学博士として活躍した八木秀次氏が発明し、
今も世界中でテレビアンテナとして使われている、いわゆる「八木アンテナ」
その研究・開発の番組を4分にまとめた
(実家にも、父の無線用に巨大なのが庭にあるぞ
「八木アンテナ」は簡単な構造ながら、これに代わるものはなく、今もテレビの受信や通信に使われている
東北大学電気通信研究所の初代教授に八木が迎えられた時
無線が波長の長い電波から短い電波への利用に進むことを予測して「超短波」の研究に着手した
東北大学電気通信研究所
大正14年 「八木アンテナ」を発明した
アンテナの研究を資金面から援助したのは斎藤氏
当時21万円の研究費を電気工学科へ寄附し、研究を助けた
(ヤナギーや私の父が喜びそうな話題だ
これはベルギーの万国博覧会に出展され、世界から注目された
しかし、日本でこれに注目する者はなく、誰もその重要性に気づかなかった(地味だから?
日本が「八木アンテナ」の重要性に気づいたのは、太平洋戦争が始まった翌年
昭和17年2月
「シンガポール」
日本がシンガポールを占領した時、陸軍の秋元中佐は、ゴルフ場のゴミ捨て場から1冊のノートを拾った
それは『ニューマン文書』というイギリス軍のレーダー史を書いた技術メモだった
ページの各所に「YAGI」の文字があった
「八木アンテナ」はイギリスのレーダーに使われていた(ゴルフやってる場合じゃないよ
日本がレーダーの研究に本腰を入れたのは、海軍が昭和16年頃、陸軍は昭和18年頃だったと言われる
アメリカ、イギリスに比べ、日本のレーダー開発はなぜ遅れたのか?
元海軍技術少佐 谷恵吉郎:
電探は、自分で電波を出して、その返りで敵を知る
私が昭和11年に言い出したが、否決された
あたかも暗闇で提灯をつけてものを探すようなものだ
そういうものは日本海軍にはあまり役立たないという思想
アメリカも「八木アンテナ」を軍事用に使った
ダグラス爆撃機、B17爆撃機など、主に爆撃機の方向探知機や、レーダーのアンテナに利用した
(ロバート・ウェストールの小説みたい
さらに原爆にも「八木アンテナ」が使われた
原爆投下後、地上550mに達した時に爆発させるために使用された
(自国の技術が利用されて、あんなに悲惨な出来事を生むとは、なんの因果か・・・
***
<生かされなかった科学技術>
保阪:
日本のシステムの上ではまったく気づかれなかったということ
その研究の意味を知らなかった
科学技術を生み出し、運用するまでのプロセス
考え出すことでは先駆性を持っていたけれども、使う、兵器化するシステムがなかった
(兵器化するシステムなんて要らないよ
日本的な問題の中には資金もある 国力がそこまでない
指導者の考えが及んでいないこと せっかくの技術も生かされない
アナ:結果的に、対戦国に軍事利用されて、大きな被害を受けた
保阪:
私たちの国はすべて縦割りで、陸軍、海軍にも研究施設があって、予算もバラバラに置いていく
縦割りも互いに競争して発展するなら意味があるが、
互いに隠し合って話し合わないのは今にもつながってると思う
アナ:技術大国と言われた日本も、新興国はじめ諸外国のスピーディな激しい追い上げにあっていますね
保阪:
戦争の時はパイロットの声 今はユーザーの声
それをどう受けて、フィードバックさせて
さらにレヴェルの高い製品にするか
もう1つは、国の目標としてテーマをたてる時、連携すること
ユーザー、技術者、技術者のバックにいる企業、それを含めた国の連携の良さを保たないと
どこかが欠けるとプロジェクトは機能しない
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サイパン(1998.11.19-22)
この時初めて「バンザイクリフ」という言葉を知ったけれども、まだまだフツーの南の島の観光地としか見れてなかった
水木しげる 『コミック昭和史 1巻 (全8巻) 』『総員玉砕せよ!』など
沖縄戦 アッキーがゆく もっと知りたい沖縄 with ヤナギー@あさイチ ほか
「読書感想メモリスト3」内の【戦争】もあります
第3集 エレクトロニクスが戦を制す~マリアナ・サイパン~ 1993年放送
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アメリカは国をあげて、当時最新鋭のレーダーを開発 万全の体勢で待ち構えていた
一方、日本軍を支えていたのは兵士たちの「見張り」
<戦闘機の違い>
アメリカは「防弾鋼板」などを装備して、パイロットの命を守ろうとしたのに対して
日本は防御を軽視し、機体を軽くして、飛行速度をあげることを優先した
(今の企業や社会の在り方に似てないか?
零式艦上戦闘機(ゼロ戦)
元ゼロ戦の設計技師:
我々は腕を磨き、訓練をよくやって、“大和魂”で突貫しなくちゃいかん
<玉砕と特攻>
玉砕と特攻の精神で戦うことを強いられた兵士たち
多くの若者が南の空と海に散った
保阪:
20世紀の科学技術は軍事の枠の中で大きく進み、戦場で使用していたのが日本
技術の中にも“人間”を絡ませていたのがアメリカ
科学技術とは何なのか、このフィルムを見ると問いかけがいっぱいあると思う
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「サイパン島」
「バンザイ・クリフ」
この高い崖の上から大勢の住民、兵士が飛び降りて自死し
戦後「バンザイ・クリフ」と名づけられた
小さな島全体で5万人を超える日本人が玉砕した
マリアナ沖でも日本軍は一方的にやられて敗戦を決定的にした
今回は日米の科学技術の戦いに注目した
国力や技術力の差では済まない、科学、人命に対する考え方、思想の違いが浮かび上がってくる
<なぜサイパン島が決戦場となったのか>
開戦からすでに2年半
国民を総動員して戦った日本 主導権は完全にアメリカに握られていた
国力と戦力の差は決定的だった
当時「大本営」は昭和18年9月午前会議において「絶対国防圏」の確立を決定
戦線を縮小し、下は千島からサイパン、ビルマの防衛線を確保して
連合軍の日本軍への攻撃を阻止しようとした
「絶対国防圏」
東京から約2200kmのサイパンでは、陸海軍4万3000人が島の防備を固めつつあった
島には日本人住民約2万人が暮らしていた
昭和18年8月 ケベック会談
同じ頃、マリアナ諸島に注目したルーズベルトとチャーチルがマリアナ諸島の占領作戦を決定
アメリカの長距離爆撃機B29 航続距離6000km
サイパンから日本がほぼ行動圏に入る
マリアナ作戦は1945年6月15日と決定
昭和19年6月
アメリカ海軍の大艦隊が出動
総指揮官はミッドウェー海戦の覇者スプルーアンス大将
昭和19年6月15日17:45
アメリカ軍の侵攻が開始され、日本軍と水際の攻防戦が行われた
日本海軍は劣勢の報告を受けて、敵艦隊を撃滅する「あ」号作戦を始めた
戦艦大和・武蔵など5隻、瑞鶴などの空母9隻からなる
すべての戦力を投じて向かったが、アメリカの数は圧倒的
軍令部作戦部 野村實中尉:
艦隊も軍令部も、主力の決戦だと、これが太平洋戦争の勝ち負けを決めるという感覚だった
2人は天皇に作戦を話した
天皇から東條英機にサイパンを奪われた際の東京空襲の懸念を
嶋田に対しては、立派な戦果をあげるよう伝えられた
6月18日
小沢中将率いる艦隊はアメリカ艦隊を目指していた
「アウト・レンジ戦法」
ゼロ戦は、当時、世界の水準を超えた、日本が誇る戦闘機だった
日本の航空機の航続距離が長い特性を生かした戦法
日本軍に届かない位置から攻撃すれば必ず勝つと信じていたが重大な誤算があった
第一機動艦隊の先陣をつとめた「653航空隊」
パイロットたちは燃料不足などにより、発着艦の訓練すら満足に受けていなかった
20歳前後の兵士の多くが亡くなった
第一機動艦隊 航空参謀 田中正臣少佐:
パイロットが使いものにならん
操縦に関しては何もできんですね
発着艦もやっとぐらいでしょう
6月19日
敵艦隊発見の報告があった 小沢は「アウト・レンジ戦法」を発令
653航空隊は「250爆弾」を抱えたゼロ戦の出撃準備を整えた
午前7時、242機が飛び立った みな歓喜で見送った
第一機動艦隊 航空参謀 田中正臣少佐:
長官の顔を見ていたらこれは勝ったなという感じだった
「レキシントンの最新鋭のレーダー」
しかし、レキシントンの最新鋭のレーダーが日本軍の動きをいち早くキャッチし、全軍で待ち構えていた
太平洋戦争前から開発を進めていたレーダーは、
電波で敵の方向や距離を測り、高度も感知する装置も備えていた
さらにCIC(集中戦闘情報室)にレーダーの情報を一手に集め、
上空の航空機に無線で伝える、現代と同じ戦闘システムを備えていた
中核となるのは、PPI(平面型レーダー表示器)で、周囲360度の敵の位置をとらえる
この時、レキシントンだけで100人のオペレータが配置され、完全な防御体勢を整えていた
カーネギー研究所 研究員 L.ブラウン博士(アメリカのレーダー開発史研究の第一人者):
第二次世界大戦前から世界的に戦闘機の性能が上がり、戦艦や空母の大きな脅威となっていた
レーダーの防御システムの開発が早急に進められていた
日本もレーダーを装備していたが、その探知能力はアメリカに比べ著しく劣り、
おおよその距離と方向が分かる程度、取り扱いも難しいものだった
アンテナを手で動かして、その方向の40~50度の範囲しか探知出来なかった
再現モデル
左から右へと電波が走る 柱になっている部分は、対象物から返ったエコー
このエコーから船までの距離や位置を読み取っていた
この再現モデルではビルからのエコーだからハッキリしているが
航空機など小さな物体だと見分けにくく、当時の技術者の勘に頼っていた
<日本はなぜ、この程度のレーダーしか開発できなかったのか?>
昭和16年12月8日 真珠湾攻撃
昭和16年12月10日 マレー沖海戦
日本軍は、開戦時、多くの攻撃機を使い、アメリカ、イギリス艦隊を攻撃した
それは航空戦の本格的な時代の幕を開け、これをきっかけにアメリカ、イギリスは
防御装備の研究・開発に力を入れたが、当の日本軍はその方向には行かなかった
「開戦要務令」(海軍の基本的な戦いをまとめた)が大きな影響を与えていた
明治の日露戦争の際に骨格が作られ、艦隊を中心とした集中攻撃が第一とされていたため
防御は補助的とされ、その重要性はほとんど認識していなかった
通信機製造会社 真空管部長 中島茂:
レーダーの電波を出して、敵を見つけて襲撃するなんてことは
ほとんどの軍人が夢にも考えないバカな戦争の仕方だと
こんなものは兵器に使えないと言う軍人ばかりだった
それでもレーダーの開発は陸海軍で密かに進められていた
<マリアナ沖開戦の頃の模様を撮影>
実用化には至らなかったが、高度測定用だった
当時の秘密主義と“セクショナリズム”で研究体制はまだまだだった
民間の科学者を結集することが出来ず、軍人の無理解の中で一部の科学者が細々と続けていた
なんか楽しそうに作ってるなあ
出来上がったレーダーも故障が多く、戦艦に装備されても邪魔者扱いされた
当時は優秀な目をもつ見張りの兵士に防御が委ねられていた
遠くのものを見る厳しい目を鍛え上げられ、“名人芸”とさえ言われたが限界があった(芸じゃないから・・・
連合艦隊参謀 千早正隆中佐:
我々が一番難しいのは対空の見張り
水平線の見張りは割合眼鏡で見えるが、空は何もないところだと分からない
だから今のままじゃ出来ませんと言っても、誰も聞いてくれない
厚生省の敷地内に当時の軍令部があった
日清・日露戦争を経て、日本はひたすら攻撃を重視して、防御の発想を持たなかったことが
防御の装備を遅らせる大きな原因になったと思われる
しかもこの艦隊決戦主義は、ミッドウェー、ソロモンの海戦ですでに破綻していたが
幹部はその変化に対応できずに、マリアナでも同じような決戦を挑んだ
日本の編隊はアメリカ戦隊に接近した
空母レキシントン レーダー担当 R.モーランド中尉:
レーダーに影が映ったのは9:30 200km前方から敵が来るのをとらえた
その情報を戦闘機に伝え、ただちに450機が発進 日本軍機の上空で待ち伏せた
空母レキシントン パイロット A.ブラシュー中尉:
完璧なポジションでした
どうぞ撃ち落してくださいといわんばかりに敵がやって来た
敵はまだ気づいていない様子で、私は「これは夢ではないだろうか」とつぶやいたのをハッキリ覚えている
ゼロ戦パイロット 小平好直少尉:
ずっと手前に来て待っているわけですから
何段にも構えて、上から飛びかかってくる状態です
アメリカ軍機の攻撃にゼロ戦は混乱した
653航空隊小隊長 原義雄 兵曹長:
後ろから来たと思ったら突っ込むんですね 250kgの爆弾を積んでいますから
戦争のなんの経験のない者が隊長機でやっている
突っ込んでくるのが分かれば、先に突っ込めばかわせるが、
経験がないから、そのまま一直線で飛ぶからヤラれる
艦上爆撃機彗星 偵察員 本江博大尉:
次から次にダーっと真後ろに来ますから、右左と飛行機を滑らせて逃げ回った
(よく助かったなあ・・・
<ベテランパイロットがいない日本軍機>
この時初めて250kg爆弾を積んだため、その動きが封じられ、格好の標的とされた
第一機動艦隊 航空参謀 田中正臣少佐:
誰もアメリカがあれだけの電探とは分からない
小沢長官は駆逐艦あがりの人ですから
どういうレーダーを持っていたかなどの情報は入っていないんです
アメリカ軍はゼロ戦の性能を徹底的に分析し
スピードや上昇力などで上回る「F6F ヘルキャット」を完成していた
F6F ヘルキャット
もっとも異なるのは防御力
操縦席のうしろにパイロットを守るための「防弾鋼板」などがほどこされている
ヘルキャット主任設計士 R.ハットン:
ゼロ戦は銃弾を受けるとすぐに燃えてバラバラになるという報告があった
我々はなによりパイロットの命を守ろうとヘルキャットを設計した
ゼロ戦と同じ運命をたどらないために、防御・防弾には全力を尽くした
戦力のパイロットの損失を最小限にとどめることが目的だった
1人のパイロットを育てるのに、約2年の歳月と、
75000ドルの費用(今の約2億円)がかかると言われていた
ヘルキャットの出現で、ゼロ戦と、優秀なパイロットが次々と失われていった
<ゼロ戦の最大の特徴は、機体を最大限に軽くした構造>
ウィニペグ(カナダ)
カナダでゼロ戦の完全復元を試みている工場を取材
ソロモン諸島で見つけた残骸からその内部構造を間近で見れた
尾翼の骨組み
アルミニウム合金でできていて、たくさんの穴を開けてあるため、片手でも簡単に持ち上がる
軽くすることで航続距離を延ばし、運動能力を上げる設計で
パイロットの命を守るという発想はない
653航空隊小隊長 原義雄 兵曹長:
風防1枚だけ タンクにも防弾がない
だから空襲が来ても、パパっとやられたらパっと墜ちるんです
“戦闘機といえども防御を考慮すべきである 防弾タンクは絶対必要なり”という切実な訴えもあった
昭和18年 ゼロ戦の防御について話し合われた
源田は真珠湾攻撃の航空参謀で強い発言力を持っていた
<大和魂>
ゼロ戦を設計した技師 曾根嘉年:
源田さんが立ち上がって「みんなの議論を聞いていると情けない」と
“大和魂”で突貫しなくちゃいかん
そういう議論をやめて、うんと軽くて良い飛行機を作ってもらって
我々はその腕を磨き、訓練をよくやって、この戦争を勝ち抜こうじゃないか」と
一席、大演説をされたんです そしたらもう皆黙っちゃってね
防御力のないゼロ戦は、その優秀なパイロットを失い、攻撃力を失っていった
19日 9:45
ヘルキャットをくぐり抜けたゼロ戦がようやくアメリカ艦隊に達した
艦上爆撃機彗星 偵察員 本江博大尉:
やっと戦闘機をかわした頃に機動部隊がパッと見えたんです、目の前に
ここで凄まじい対空砲火を浴びた どの砲弾も正確に狙いを定めていた
艦上爆撃機彗星 偵察員 本江博大尉:
ボンボン撃ってきた 高度3500mで機銃は届かない 高角砲が主なんです
飛行機がその都度グラグラ揺れる それが段々近づくものですから
右によけろ、左によけろと言って、高角砲をよけだした
「VT信管(近接信管)」
アメリカは当時、画期的な砲弾の起爆装置を初めて本格的に使用した
電波により目標を感知するこの砲弾が、対空砲火の威力を飛躍的に高めた
VT信管を設置された砲弾は、発射されると周囲15mに電波を出し、
目標を感知すると自動的に爆破し、直接爆弾が当たらずとも、その破片や爆風で敵機を撃ち落す
(ニンゲンは、その優秀な知識で恐ろしいものを無限に考え出せるんだな
これは軍備をもっとしっかりしていれば勝てたのにって話なのか?
VT信管もレーダー同様、戦艦・空母を敵機の攻撃から守るために開発された防御兵器
アメリカは、開戦前からエレクトロニクス兵器の開発を極秘に進めていた
1940年6月、ルーズベルトは科学者を国防のために動員する大統領令を出した
全米の400余りの大学と研究機関から3万人の科学者が集められ、最新化学兵器の開発が進められた
(アメリカの軍備に対する情熱は誰にも止められないのね
<VT信管も民間の力から生まれた>
実用化のカギは新しい真空管にあった
拠点はワシントンにあるカーネギー研究所
VT信管 開発スタッフ H.セルヴィッチ博士:
小さくて、砲弾が発射された時の激しいショックに耐えられる真空管の開発が要求された
当時は絶対に不可能と思われていた
ここでも、女性が笑顔で兵器を作ってるよ
数千種類もの試作品を作り、1つ1つに耐震テストが繰り返された
(今、世界から批判されてる国と同じことを、アメリカも相当昔からずっとやってたんだ
そして、太平洋戦争開戦直後、2万G(地球の重力の2万倍)の衝撃に耐えられる真空管を完成
当時、実験に使われた真空管などは、今もカーネギー研究所に保存されている
真空管自体は長さ3cmほど これが「VT信管」に4個使われていた
当時のアメリカの最先端の科学技術が結集された
1942年4月 VT信管発射実験がニューメキシコで行われた
これまでの20倍に命中率が上がり、機体には無数の穴があき、その破壊力が確認された
「VT信管」はその後の戦争の姿を一変させ、アメリカでは“原爆に匹敵する新兵器”と言われた
今日、すべてのミサイルに使用されている「VT信管」が、マリアナ沖で初めて全艦隊に装備された
19日 10:00
「VT信管」の対空砲が一斉に火を噴いた 日本が「VT信管」を知ったのは戦後
レーダー、ヘルキャット、「VT信管」により、日本の攻撃隊は壊滅した
出撃から3時間後、司令部になんの連絡もない
第一機動艦隊 航空参謀 田中正臣少佐:
飛行機隊が出てから電波が全然来ないんですよ
小沢長官も分からんし、幕僚も誰一人分からん どうなってるのか
そのうちに飛行機が駆逐艦の横に不時着したりして
もうすでにこれは負けたなと思ったんです
出撃した約6割が帰らなかった(数値は当時のもの
653航空隊のパイロット153人中93人が帰らなかった
「アウト・レンジ戦法」は完全に失敗した
6.20 15:00
アメリカの機動部隊216機が日本艦隊の追撃に移った
日本軍のレーダーがようやく敵機をとらえた時には目前に迫っていた
第一機動艦隊 航空参謀 田中正臣少佐:
この電探が使えなくて、ほとんど無いと同じだった
もう肉眼で見えるぐらいになって、敵機が来たという状況です
こちらが準備するどころじゃないんです
6.20 17:00
アメリカの攻撃隊が日本艦隊を襲った
前日の戦いで戦闘機を大量に失い、迎え撃つ手立てはなかった
連合艦隊が存亡を賭けた2日間の戦いは終わった
日本は空母3隻、航空機300機を失い、軍令部の期待を打ち砕いた
軍令部作戦部 野村實中尉:
皆ずっと夜通し作戦室にいたが、20日は嶋田さんも来た
戦況を見てガックリして 立ち上がる元気もないほど、いつまでも座っている
レキシントンはマリアナ沖海戦についてこう報告した
“これほど被害の少ない戦いは太平洋戦争では初めてだった
レーダー等の開発に時間と費用をかけてきたことが、決してムダではなかったことが証明された”
日本軍には高性能の対空レーダーの開発を求める訴えが相次いだが
もはや要望を満たす態勢も物資もなかった
その後、サイパン島でも大きな悲劇をもたらすことになる
上陸に成功したアメリカ軍は、孤立した日本の陸軍・海軍の守備隊4万人を島の北部に追い詰めた
武器・弾薬・食料も消耗した日本軍は、ジャングルや洞窟にたてこもり抵抗したが
「バンザイ突撃」や「自決」で次々に玉砕した
7月 サイパンは3週間で陥落
2万人いた日本人住民、島民の多くが戦闘に巻き込まれた
とくに日本人住民は「投降することは恥」と教育されて
アメリカ軍の投降の呼びかけに応じる人が少なく、大勢が玉砕の道を選んだ
サイパンで戦死した日本兵は4万人、日本人住民の死者は1万人
日本兵は、日本人住民の命をここでも守らなかった
昭和19年10月12日 B29の第一陣がサイパンに到着
イスレイフィールド
<B29の本土爆撃が日本の敗戦を決定的にした>
終戦直後、アメリカ軍が提出した日本の科学技術についての調査報告書が公文書に残されている
“日本の軍部は現代的な戦争兵器の中でレーダーがいかに重要であるかを早く認識することはなかった
日本のレーダーの立ち遅れは、これが根本的な原因となっている
優れた科学者を擁しながら、人的資源を有効に生かせなかったのは、
すべて軍部の独善と過信によるものだった”
アナ:
戦後、「軍国主義」から解放された日本は、民間の科学技術の発展に力を注いで
今ではアメリカをしのぐ「技術大国」になったとさえ言われているが、本当にそうでしょうか?
売れる商品を開発する技術は素晴らしく発達したが、
一方で生命、安全、環境という基礎的な科学研究は
けして充分とは言えませんし、優遇されてもいません
以前の軍部のように、ひたすら経済や企業を優先させる、今の日本の精神構造が
科学の本来の姿を歪めてはいないでしょうか
また、企業で働くサラリーマンの生活や命さえも、そうした精神の犠牲になってはいないでしょうか?
この地で散った兵士の姿は、私にはけして遠い昔とは見えません
(眉村さんのサラリーマンSFも、こうして生まれたんだな
今では、過労死、うつ病、環境破壊、地球温暖化、異常気象による災害、いろんな形でさらに悪化している
1993年にも警告して変わらないなら、今、同じことを言って、果して変わるだろうか
昭和19年10月 日本は「神風特別攻撃隊」を編成した
この作戦を決意したのは、大西中将 彼は大本営にこう了解を求めた
“最近、敵は電波兵器を活用 わが攻撃機を阻止する
わが方はいたずらに犠牲も多く、この際、殉国の至誠に訴え、
必死必殺の体当たり攻撃を敢行する他に方策がない”
マリアナ沖でレーダーに敗れたことが特攻隊誕生のひきがねとなった
この捨て身の戦法は、一時アメリカ軍を恐怖に陥れた
太平洋戦争中、国に殉じた航空特攻の数は2406機 3863人
昭和20年4月 沖縄戦
さらに進化した「VT信管」の砲弾で戦死者を出した
***
<生かされなかった科学技術>
保阪:
科学技術をどう生かすかが大きな命題だったと思うが、日本はその点で欠けていた
いろんな問題が潜んでいると思うが、アメリカは現場の意見と研究者と国の連携が極めて密
日本は、科学技術は科学技術、軍は軍、技術者は技術者、バラバラで連携がない
科学技術が生かされていなかったというのが、今の映像の率直な感想ですね
アナ:従来通りではダメだという認識がなかった?
保阪:
ゼロ戦の弱さは具体的に分かっていた どう改造するかという会議で
精神論、突貫攻撃でという形で、科学技術の上に精神を乗せてしまう
それが日本人の文化なのか問われなきゃいけませんが
科学技術を理解する根底、まだ近代の仕組みを持ち得てなかったんだなと感じた
<軍事主導の弊害>
保阪:
私は、この戦争を政治や思想で論じるのではなく、もっと常識的に
私たちの文化の領域で論じると、反省点がいっぱいあると思う
その1つが「軍事主導」 軍事があらゆることをコントロールしていた
科学技術も軍事がコントロールした
そのために、“軍事に役立たないものは存在価値なし”というような発想だった
軍事とはいかに相手に勝つか
日本の兵士やパイロットも、人命というより兵器の一部と考えられていたのではないか
アナ:つまり、国民の生活を考える政府が機能していない?
保阪:
政治が軍事にまったく抑制されて、国民の生命・財産・生活をどう保障していくかは
軍事の枠でしか考えられなかった
アナ:アメリカが急速に科学技術を進めていた頃、日本の状況は?
保阪:
ある時私は調べたことがあって、登戸研究所などが陸軍にある
そこでどういう研究をしたのか研究者に聞いたら
「殺人光線、超短波の兵器をやっていた」
「それは国やシステムとしてやっていたんですか?」
「いや、個人的に○○さんがやっていた」
アナ:根拠のないものなんですね
保阪:
もっと酷いのは、最後になると、町の発明家に似たテーマをもってくる人がいる
水の上を歩く靴の研究などに上のほうがお金を出していた
研究するテーマ、システムが思いつきだったのではと思う
<優れていた日本の科学者>
アナ:
アメリカの戦後の報告書に「日本には優れた科学者がいるにも関わらず・・・」と書かれていて
優れた科学者もいたわけですよね
保阪:
昭和20年から様々な研究者が来て、日本をいろんな局面で調べている
彼らは日本の兵器研究についても調べた
その時、皆一様に驚いていたのは、日本の技術者のレヴェルの高さ
昭和6、7年、その後、国際連盟を脱退しますが、
その前に国際社会の理論を世界の学会誌に発表して
かなり注目される論文がいっぱいあった それをアメリカも知っていた
逆に言えば、それが戦時下の中でどうして兵器化しなかったのか、それが良かったんでしょうけど
軍がそれを考えるだけの頭脳をもてなかった
自分たちの考えることだけで科学技術を見てる、という報告はかなり的確だと思う
(兵器化しなかったのは日本人の優しさもあるかも
軍人は戦争しか考えず、科学技術の知識がなかったのにトップで指揮してたってことか
「八木アンテナ」
日本の技術力を示す一例として、電波研究分野で当時、世界的に高い評価を受けていたものがある
戦前、戦中、工学博士として活躍した八木秀次氏が発明し、
今も世界中でテレビアンテナとして使われている、いわゆる「八木アンテナ」
その研究・開発の番組を4分にまとめた
(実家にも、父の無線用に巨大なのが庭にあるぞ
「八木アンテナ」は簡単な構造ながら、これに代わるものはなく、今もテレビの受信や通信に使われている
東北大学電気通信研究所の初代教授に八木が迎えられた時
無線が波長の長い電波から短い電波への利用に進むことを予測して「超短波」の研究に着手した
東北大学電気通信研究所
大正14年 「八木アンテナ」を発明した
アンテナの研究を資金面から援助したのは斎藤氏
当時21万円の研究費を電気工学科へ寄附し、研究を助けた
(ヤナギーや私の父が喜びそうな話題だ
これはベルギーの万国博覧会に出展され、世界から注目された
しかし、日本でこれに注目する者はなく、誰もその重要性に気づかなかった(地味だから?
日本が「八木アンテナ」の重要性に気づいたのは、太平洋戦争が始まった翌年
昭和17年2月
「シンガポール」
日本がシンガポールを占領した時、陸軍の秋元中佐は、ゴルフ場のゴミ捨て場から1冊のノートを拾った
それは『ニューマン文書』というイギリス軍のレーダー史を書いた技術メモだった
ページの各所に「YAGI」の文字があった
「八木アンテナ」はイギリスのレーダーに使われていた(ゴルフやってる場合じゃないよ
日本がレーダーの研究に本腰を入れたのは、海軍が昭和16年頃、陸軍は昭和18年頃だったと言われる
アメリカ、イギリスに比べ、日本のレーダー開発はなぜ遅れたのか?
元海軍技術少佐 谷恵吉郎:
電探は、自分で電波を出して、その返りで敵を知る
私が昭和11年に言い出したが、否決された
あたかも暗闇で提灯をつけてものを探すようなものだ
そういうものは日本海軍にはあまり役立たないという思想
アメリカも「八木アンテナ」を軍事用に使った
ダグラス爆撃機、B17爆撃機など、主に爆撃機の方向探知機や、レーダーのアンテナに利用した
(ロバート・ウェストールの小説みたい
さらに原爆にも「八木アンテナ」が使われた
原爆投下後、地上550mに達した時に爆発させるために使用された
(自国の技術が利用されて、あんなに悲惨な出来事を生むとは、なんの因果か・・・
***
<生かされなかった科学技術>
保阪:
日本のシステムの上ではまったく気づかれなかったということ
その研究の意味を知らなかった
科学技術を生み出し、運用するまでのプロセス
考え出すことでは先駆性を持っていたけれども、使う、兵器化するシステムがなかった
(兵器化するシステムなんて要らないよ
日本的な問題の中には資金もある 国力がそこまでない
指導者の考えが及んでいないこと せっかくの技術も生かされない
アナ:結果的に、対戦国に軍事利用されて、大きな被害を受けた
保阪:
私たちの国はすべて縦割りで、陸軍、海軍にも研究施設があって、予算もバラバラに置いていく
縦割りも互いに競争して発展するなら意味があるが、
互いに隠し合って話し合わないのは今にもつながってると思う
アナ:技術大国と言われた日本も、新興国はじめ諸外国のスピーディな激しい追い上げにあっていますね
保阪:
戦争の時はパイロットの声 今はユーザーの声
それをどう受けて、フィードバックさせて
さらにレヴェルの高い製品にするか
もう1つは、国の目標としてテーマをたてる時、連携すること
ユーザー、技術者、技術者のバックにいる企業、それを含めた国の連携の良さを保たないと
どこかが欠けるとプロジェクトは機能しない
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サイパン(1998.11.19-22)
この時初めて「バンザイクリフ」という言葉を知ったけれども、まだまだフツーの南の島の観光地としか見れてなかった
水木しげる 『コミック昭和史 1巻 (全8巻) 』『総員玉砕せよ!』など
沖縄戦 アッキーがゆく もっと知りたい沖縄 with ヤナギー@あさイチ ほか
「読書感想メモリスト3」内の【戦争】もあります