花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

亡き母の命日に思う

2015年09月26日 | 日記
私の母は54歳で亡くなったが、9月23日が命日だった。亡くなってから今年で、早くも44年が経った。

先日は札幌から来た妹と施設の伯母を伴い、庭から白菊と紫の野田菊、白とピンクの秋明菊、沢山咲いた白薔薇で花束を作り、母が好きだった林檎、和菓子を持って、車で岩見沢市の墓地に向かった。
前回のお盆の墓参りでは豪雨に会ったが、今回は安定した天気で、ドライブは快適だった。

振り返れば母は、結核になり出征先から戻って来た父の看病を8年間した。
父が38歳で死亡した後は、女手一つで苦労して私と妹を育ててくれた。
結核に有効な抗生物質「ストレプトマイシン」が日本に出たのは、父の死後だった。戦争がなかったら、薬の開発ももっと早かったのではと思うとやりきれない思いをして来た。

父には軍人恩給など支給されなかったらしく、我が家の経済はいつも逼迫したものだった。
私自身は、中学3年の時に担任の先生に勧められ、「日本育英会特別奨学生」の試験を受けて合格したので、高校3年間はその奨学金で通学した。授業料、PTA会費、修学旅行費、受験の参考書などの全てを、この奨学金で間に合わせることができ、母の負担を軽くできた。

高校卒業を前に、初級公務員試験には合格していたが、母親の経済的な苦労を見て育ったので、自分はやがて母の老後を支えるために安定した仕事に就きたい、そのためには大学に進学したいと密かに考え、勉強もしていた。
当時は、花形の職場は元より、公務員以外の職場には女性のみに当然の様に「結婚退職制度」があった時代だった。
母の親戚からは、「高卒後は働いて、早く母を助けた方が良い。」と言われたが、諦められずに受験して、母の了解を得て進学した。

国立大学だったので、学費や生活費は高校から引き続き支給された「特別奨学金」に頼った。
大学の女子寮で暮らしたが、奨学金だけでは授業料や生活費が足りなく、4年間アルバイトに明け暮れた。
当時のアルバイトは、封筒の宛名書き、建築図面の写し書き、市場調査などを1日やって、やっと500円だった。家庭教師は、少し良かったと記憶している。
大学の試験がある時期でも、アルバイトをしなければならず、学業との両立は大変だったが、何とか卒業して就職した。

高校生の時に借りた奨学金はその1/3を返還しなければならなかったが、働き出して最初に出た6月の手当てで全額を返した。
また、大学で借りた奨学金は、一定の職業に12年間就いたら返還を免除されることになっていたので、頑張って働き続けた。
(いつの頃からか、私の時代のような返還しなくて良い「給付型奨学金」は、日本育英会に無くなってしまったことは凄く残念だ)

母を引き取り、一緒に生活し始めたのも束の間、2年3ヶ月で母は病死した。
母には、私の子どもの昼間の育児を手伝ってもらう替わりに、経済的には苦労しなくて良い生活をしてもらおうと思っていた私は、本当に悔しい思いをしたものだった。(当時住んでいた地域には、3歳未満児を預かってくれる保育所は無かった)
その後も仕事も生活も幾つかの転機があったが、その都度、頑張っていた母の姿を思って働き続け、何とか60歳の停年まで働いたことが、退職後の今の生活に繋がった訳で、母には心から感謝している。

岩見沢では、墓参りを済ませてから伯母を「高専賃」の友人の所に連れて行った。2人はぴったりと寄り添って友情を温めあっていた。
戻って来て伯母を施設に送ってから、妹と二人でレストランに行き、食事をした。1時間半ほど取りとめの無い話をしてから、暗くなった路を駅まで送った。

私は惜しくも若くして旅立った父母の分も長生きをして、この先もまだまだ庭仕事や菜園、旅行、伯母の世話など、好きなことをし続けたいと思っている。

庭の薔薇の今日の姿である。



 

墓に備えた白菊

         芙蓉の花もそろそろ終盤になって来た
        
コメント (6)
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