≪「ブハラ」観光≫
旅の4日目は「ブハラ」での観光だった。
ガイドブックによると、「ブハラ」とは、サンスクリット語で「僧院」を意味するそうだ。ここは中央アジアだけではなく、イスラム世界全体の中心街だったという。この街の黄金期は9世紀に始まり、イスラム王朝の庇護を受けて、多くの優秀な人たちが育ったり、交易の十字路としても栄えた。
しかし1220年に「チンギス・ハーン」が来襲すると勢いを失ったが、16世紀になると多くのモスクやメドレセが造られるて、再び活気を取り戻したという。
①「イスマール・サーマニー廟」
892年から建造された霊廟で、イスラム建築としては中央アジア最古の建造物だという。
「ブハラ」を占領して都にした「サーマニー朝」三代の王族の霊廟で、土に埋もれていたため発見が遅れ、1925年に発見された。
レンガを積み上げて模様を作り上げたこじんまりとした構造になっている。
②「チャシュマ・アイユブ」(預言者ヨブの泉)
ここは12世紀に泉が湧き出て以来、今も水が湧いていた。
③「アルク城」
大きな広場の中心に「アルク城」が建っていた。
この当たりが古代「ブハラ」の中心だったらしい。蒙古が来襲した時には、大勢の市民が虐殺された場所でもある。
城は幾度も破壊と修復を繰り返し、現存するのは18世紀のものだが、1920年にソ連に支配されるまでは、歴代の「ブハラ・ハン」の居城だったという。中に入らなかったが、色々な施設がある小さな町を作っているところの様だった。堅固な城壁には圧倒された。
④「カラーン・ミナレット」「カラーン・モスク」
「カラーン・ミナレット」は高さ46mある大きいミナレットだ。1127年に建てられた。10mの土台部分は地下に埋まっていて、上部にはアーチ状の16個の灯火窓がある。
大地震にも耐え、チンギス・ハーンも破壊しなかった。
「カラーン・モスク」は、1514年にシャイパニ朝時代に建てられたもので、広さは1ヘクタールあり、1万人が礼拝できた。
ソ連時代には倉庫として使われたが、独立後、モスクとして復活した。
この後、自由散策で「タキの土産品市場」を散策した。
「ウズベキスタン」の工芸品である「スザニ」刺繍で作られたマットやクッションカバーなどが沢山あり、人気だった。
また、露天商のお爺さんが売っていた「ナン」に模様をつける道具が珍しかった。特に男女の乳児の下腹部にとりつける木製の採尿器には、こんなものがあるのかと驚いた。
⑤「ナディール・ディヴァンベキ・メドレセ」
大臣「ナディール・ディヴァンベキ」が1622年に建てた神学校である。
正面入り口の色タイルの模様が目を引く。2羽の鳳凰が白い鹿をつかんで、太陽に向かって飛ぶ姿だ。偶像崇拝を否定するイスラムの教義に反する絵が、珍しい。
中庭に入ると回りにある学生用の部屋は、現在はみやげ物店になっていて、夜は食事つきのショウやコンサートが行われている。
私達は夕方、再び訪れて、ここで食事をしながら民族衣装のファッションショウを見た。
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