3月の3PICKS
今夜は
Bright Eyesの新作 The People's Key
リリース年月日:2011-02-15
シンガーソングライターConor Oberstのブライト・アイズ名義(ソロプロジェクト)のアルバム
新世代のアーティストで最も期待されているアーティストの一人と言っても良いと思います。それは例えば彼を指してネクスト・ボブディランなんて呼ばれていることからもわかります。あれは2007年の頃だったと思います。アメリカ大統領選挙の頃でした。対外的にかなり好戦的な姿勢をとっていた それまでのジョージ・ブッシュ政権を倒そうという運動にミュージシャン達が全米で『Vote For Change』というコンサートツアーを行いました。そこにはブルース・スプリングスティーン、ジャクソン・ブラウン、そしてR・E・Mといったアーティスト達が参加していましたが、その中でこのConor Oberstも若い世代を代表して参加していました。結果そのときにはブッシュ政権は再選されましたけども、このConor Oberstは直後にブッシュ政権を批判する曲を書いてダウンロード販売をしたということです。
Bright Eyesとしては4年ぶりの新作となりました。アルバムタイトルは 「The People's Key」
今夜はこのアルバムから2曲聴いてみたいと思います。
1曲目の曲ではこんなことが歌われています。
気取った偽善者になんかなるなよ。連中は君が挫けずに何度でもやり直すのが気に入らないんだ。
初心者の心でもって、さあ流されないようにしっかり掴まって行こう。
1 Beginner's Mind / Bright Eyes
2 Jejune Stars / Bright Eyes
今年三月 「ロングバケーション」30周年アニバーサリー盤とナイアガラCDブック1を出した大瀧詠一さんをゲストに迎えて楽しい話を伺いたいとおもいます。
佐野:
僕ら録音してて、楽器の録音はともかく気を使うのはボーカルのダビングですよね。大瀧さんもロングバケーションの時に、大瀧さんどんな風にボーカルダビングしたのかを人から聞いたんだけれども、
大瀧:
見たことは無いよね
佐野:
はい。見たことは無いです。
大瀧:
だから見た人はいないんだよ、今んところ。
佐野:
話によると、スタジオにこもって一人でパンチ、パンチアウトしながら
大瀧:
しますよ。結局福生スタジオ(福生45スタジオ)の5年間があってね。自分でレコーディングエンジニアしてた、だって一人しかいないからね当然。その時に全部やってましたから、もうロングバケーションの時はミキシング暦5年目か6年目ぐらいだったか7年目ぐらいです。お手なもんです。
佐野:
僕らだと例えばディレクターだとか第三者がいて、そして歌を聴いてもらいつつダビングしていくというやり方なんだけれども、大瀧さんが一人でダビングをするという理由はやはり完全に曲のアレンジからトーンまで完全に全部知り尽くしているから自分しか適切なボーカルダビングが出来ないという自信からなんですか
大瀧:
3つくらい理由があるんですよ。それは勿論あるんだけれども、人がいるとやっぱ嫌なんだよ。
佐野:
あはははは、はい。
大瀧:
それとね、どうぞ とか言われるのも嫌なんだよ。
佐野:
あっ、歌ってくださいとか。
大瀧:
うーん、いいねぇ。とか。お願いしますっていうのもね。(笑)で、自分でお金を出して自分でミュージシャン集めて、スタジオ代払ってだよ、自分でやってんだから、どうして僕はお願いされなきゃいけないのかとか、色んなことを考えながらやっていると
佐野:
わかりますよ。
大瀧:
それから、今はうまくいかないから元に戻してとか。どこまで戻すとか、そういうことをやっている間が嫌なんだ。あそこでテンションが落ちるの、たいてい。
佐野:
あ。
大瀧:
だから自分だったら直ぐに戻せるし、まあ1曲だけパンチング間違えてオケ消したことあるけどね。
佐野:
あー(笑)それは悲劇でしたね。
大瀧:
だよね。トムサムカーボーイっていう最後のところで、あのーあって思ったね。まあ、直ぐにとめて、あのーまあ編集しましたけれど
佐野:
あーそうですか。はい。
大瀧:
でー一つは人がいるのが嫌だという。人がいるとどうやら自分の実力が出ない。人見知りが一つ。それから人に命令されるのが嫌だという我儘
佐野:
大瀧さんらしいです。わかります。
大瀧:
(笑)後は自分がエンジニアっていうか自分がアシスタントっていうか。自分以上に自分にうーん、自分の申請に合ったエンジニアリングとか助手のやり方は僕以上に上手くやる人は絶対にいませんという。その三つくらいですかね。
佐野:
うん、うん。特にボーカルダビングということで思い出すのが、80年初期でしたけれども、大瀧さんのプロデュースのナイアガラ・トライアングルVO.2に参加しました。あの時、「彼女はデリケート」って曲があって、自分で完璧だな、これはきっと気に入って貰えると思って持っていったら、「うーん佐野君もう一回やり直してみようか」ってスタジオにほうり込まれて、それで歌ったんですね。その時に大瀧さんが僕がどういう風に歌ったら良いか考えあぐねて、トークバックで「佐野君、エディ・コクラン(Edward Ray Cochran)だよ」という一言を頂いて、うーん。エディ・コクランかって、で素で歌って、テイク1かテイク2で大瀧さんからOKが出たんですよね。で、それは自分にとっては、どちらかといえば不本意というか、持ってったものは、もう2時間も3時間もかけてピッチもコントロールしてダブルボーカルにして持っていったのに、大瀧さんがOKを出したのは何か、その辺でちゃらっと歌ったようなね、テイクをOKと言われたもんですから、これで良いのかなって思ったんですけどね。
3 彼女はデリケート 佐野元春
大瀧:
うーん、ものすごくね、カッチリしたヴァージョンだんですよね最初ね
佐野:
そうだったんです。
大瀧:
最初に貰った時に。で、色んなことを瞬間的に考えて、今にして思えばっていうこともあるんだけれども。えーと、あのテンポでカッチリ歌ったあの彼女っていうものに年齢層が凄く高く感じたの。
佐野:
あー(感嘆)
大瀧:
で、丸の内のOLのような気分でした。
佐野:
確かに「彼女はデリケート」自分がソングライティングした訳ですけども、対象はOLじゃなかったです。やっぱりガールに話しかけるっていう詩でしたね。
大瀧:
日本の歌謡史上、女性を男の子がね、女性を歌った場合にあんまり丸の内にいる女性を歌ったってケースは少ないんですよ。
佐野:
もう少し年齢は下ですよ、ガールですよ対象は。
大瀧:
はい。レイディじゃなくて
佐野:
はい
大瀧:
そんなもんだから、ちょっとレイディっぽい女性のように思えたので、やっぱりガールにした方が
佐野:
あー
大瀧:
良いと思ったと思います。で、エディ・コクランを出した。
佐野:
はい。はい。
大瀧:
それとエディ・コクランのアン時、行くんだよって言うと、もう佐野君がシェイク仕出して
佐野:
フェへへ!
大瀧:
でやったんだけども。「サムシング・エルス」って曲がエディ・コクランの曲が好きで
佐野:
ええ
大瀧:
「サムシング・エルス」って曲は本国ではヒットしてないんです。
佐野:
そうだったんですか。
大瀧:
イギリスのチャートだけでヒットしてて、イギリス人が選んだ。あのエディ・コクラン。当然日本では勿論ヒットしてないですし、日本では「バルコニーに座って」とか、ああゆう感じのものがエディ・コクラン「サマー・タイム・ブルース」などがヒットしてるんだけど「サムシング・エルス」っていうのは、あのレコーディングの前だったか後だったか覚えてないんだけれども、ポールマッカートニーとエリック・クラプトンが出てきて、何をやろうかっつた時にね、「サムシング・エルス」を歌った。
佐野:
あーそうですかー。
大瀧:
イギリスだけで大ヒットしただけのことはあるなって思って。イギリス人が好むようなロックンロールな感じがした瞬間的にアメリカンロックというよりもイギリスのロックを佐野君に感じたわけ。
佐野:
あ。
大瀧:
だからアン時にエディ・コクランの中でも「サムシング・エルス」っていう曲のつもりだったんだよ。
佐野:
なるほど。
4 Somethin' Else Eddie Cochran
大瀧:
ハイハッドをジャジャジャンってやるのが、この時はものすぐく斬新な。このドラマーはリトル・リチャードのバックをやっていたアル・パーマーって人なんです。それでリトル・リチャードのようなサウンドが欲しいっていうのでエディ・コクランは「サムタイム・ブルース」も「カモン・エブリバディ」もアル・パーマーのこのドラムでやっている。で何故か佐野君はマルクヘア?デイジーボーイ?で、デイジーガールズ?で何か共通点をこれを聴いた時それを感じて、これはエディ・コクランでやった方が良い。今に聴いて分かる通り、こういう歌は一 二回で歌った方が良い。
佐野:
ダビングで重ねるよりも、もう一発気分で歌っちゃった方が結果が良いということですよね。
大瀧:
そういうことになるのよ。
佐野:
大瀧さんの作られたレコードを聴いてみると、やっぱり色んなこう、何て言うかな、手塚治虫さんの漫画で言うと、ひょうたんづき みたいな。
大瀧:
突然ひょうたんつぎ みたいな
佐野:
突然何か、わけのわからないものが ピュッと出てくる瞬間とかってあるじゃないですか。
あの僕これ聞きたかったんですけれども、初期のはっぴいえんど時期の曲で、これ大瀧さんが作詞作曲している曲ですけれど、「颱風」これ一番最後はバンドがぐぁーと盛り上がって行くんですけれど、
大瀧:
ええ、ほんとはあれもっと長いんですよ。すごい長い。12分くらいあったかな。
佐野:
そうだったんですか。
大瀧:
うん。うちにスルーのあれがありますけれど(笑)。けっこうね縮めたんですよ、あんまり長いから。
佐野:
実際レコードになっているフェイド・アウト際に、多分大瀧さんだと思うんですけども
「何 風速40M」 って
あれは何かのパロディーか何か?
大瀧:
うん。そうっかそうか、佐野君はあのジェネレーションじゃないんだ。あーそうだよね。石原裕次郎の風速40Mという映画があって、唄もあるんです。「・・・・何 風速40M」って言ってるんですよ。
佐野:
颱風の歌にかけて、最後盛り上がって、風夜よ吹けよ、雨よ降れで、そして大瀧さんが「何 風速40M」と、こう言ったわけなんですね。
大瀧:
これがねー日活マニアの渡辺武信さんに受けてね。渡辺武信さんて詩人の人なんだね。それで好きでNHKの「わかいこだま」に渡辺武則さんを呼んだんです。色んなことを言ってたんだけど、まあ「颱風」をたまたま聴いて、放送には乗ってなかったんですけど、終わってから「あの颱風ってのは面白いね」って「何 風速 40Mってところが面白いよね」って言ったら、凄い日活の研究家の人でもあったんですね。
佐野:
そうでしたか。当時のレコーディング機材について聞きたいんですけど。タクは何チャンネルだったんですか?
大瀧:
あれは16です。
佐野:
確かエンジニアは吉野金次さん。
大瀧:
吉野金次さんに教わって、僕もあそこで、エンジニアリングの面白味を味わうことが出来て
佐野:
やっぱり当時は二元ストリームの歌謡曲という音がね、で大瀧さんたちが作ろうとしていたオルタ・ネイティブな音がある。でその音の違いは何かって言った時に、それはやっぱり録音にあるんだってことに気づいた最初の世代だと思うんですよね。大瀧さんも。吉田保(吉田美奈子の姉。教授の親友 生田朗の義理兄)さん、そして吉野金次さん。この二人が後のロック、ポップのね、レコーディングの礎を作ったノウハウを持った唯一の二人でしたよね。当時レコーディングでソロを作られた時に吉野さんというエンジニアに求めるものは何でした?大瀧さんは
大瀧:
吉野さんは兎に角、自分の音とドラムなんかは自分でチューンしてて、それからリミッターなんかも自分でポータブル型のものを持ってきて、その音作り、マイクのトーンとかマイクの種類とか、ってなことを色々と研究してた人だったので、我々とは本当に凄くあって
佐野:
仲間っていう感じがしてた。
大瀧:
そういや「指きり」って曲があるんですよ。ソロアルバムのね。
佐野:
ああ、良い曲ですね。
大瀧:
あれね、一回歌ったきりなんですよ、あれ。リハーサルの曲なのよ。あれからチャンと出す、これがガイドの歌ですよってつもりで一回やったら、吉野さんは「これは良い」って言うのよ。今のはガイドブックなんだけどって言ったんだけど、いやだ、これをOKにしてくんなきゃ降りるって。
佐野:
ああ、わかります。大瀧さんは御自信でエンジニアリングをされることが良く知られていますけれども、そのサウンドメイキングっていうか、実際レコーディング自体に興味を持ったキッカケっていうのは何だったんですか?
大瀧:
ラジオだと思いますね。我々の世代の鉱石ラジオを自分で作ったり、大きなスーパーとか小さなスーパーとかを自分達で組み立てたりゆうようなあれで、ラジオでその音楽が流れて来てっていうようなところからだと思いますよ。小学校2年でテープレコーダーを買ったので、そん時も録音が楽しみだったよね。
佐野:
そしてナイアガラレーベルを設立する。このレーベルでもプロデューサーとしてもやられたんですけれど、エンジニアリングも同時にやれてた
大瀧:
全部一人しかいなかったからね、全部一人でやる。掃除する人もいないからね。掃き掃除から始まる、出前とったりね。それからですよ、皆が来て、譜面を渡してエンジニアの箱に入って行ったり来たりしてね。
佐野:
その時代はプロデューサー・エンジニアっていう。プロデューサーも出来るし、エンジニアリングも出来る。レーベルを作って、スターを育てて、でレコードをヒットさせて、後には時代がやってきますよね。そのさきがけだったと思うんですけど、ナイアガラ・レーベルで一番最初にレコーディングしたことって覚えてます?
大瀧:
覚えてますよ。はっぴいえんど から、つい最近の2003年のレコーディングまで、細かく覚えているんです。どのレコーディングがどのように行われたかっていうのは。はい。自分でやってますからね、結局。ナイアガラレーベルは山下君がいたシュガーベイブっていうグループの「SONGS」っていうアルバムだったんだけど。あれも全部付き合ってますからね。いっつもサインも自分でやってますから、彼らにもこの前言ったんですけど、回数では僕の方が聴いているだろうって。
佐野:
ああ、プロデューサーですものね。
大瀧:
エンジニアだったのが大きかったんじゃないですか、繰り返して聴いてミックスしなきゃいけない
佐野:
そうですね
5 DOWN TOWN シュガーベイブ
佐野:
今更聞くのも何なんですけれど、シュガーベイブ、「SONGS」レコーディングにおいて、大瀧さんの立場は先ずプロデューサーですね。でありエンジニアであり。
大瀧:
そうですね。74年にもう前史があるんです。74年にレコーディングする前に。練習したりライブをやったり、結果は残ってないんですけど、74年に随分歴史があるんですね。そこで大体出来上がっていたので、レコーディングは楽でしたね。最後の方。
佐野:
編曲面で大瀧さんのアイディアっていうのは何か入っているんですか?
大瀧:
いやあ殆ど無いって言って良いと思いますよ。
佐野:
これはやっぱり達郎さんのアイディアが
大瀧:
うん、全部山下君があのバンドは全部仕切ってますね。
佐野:
「SONGS」の中では山下さん特有のしろたまのハーモニーが多くは言ってますけれども、あのハーモニーのレコーディングの方向は大瀧さんが提供した
大瀧:
まあ、そこは全員ぐるっと回るみたいなことはとってました。それは、その前に彼らのCMのコーラスで最初に入っているんですね僕の74年に、(三菱ラジオジーガム)その時に、あの手法で、シュガーベイブとシンガーズ・スリーと7人。一本のマイクを持つようにして7人いるんですけど、それでぐるっと全員で囲んでっていう録り方をその時にしていて、山下君だけ大きいんです。要するに一歩後ろ、二歩後ろ、三歩後ろみたいな、そういうようなことをやりながらやってました。
佐野:
大瀧さんが一番最初にポップソングを聴いたというのは何歳くらいなんですか。意識的にポップソングに目覚めたのは何歳くらい?
大瀧:
それは62年ですね。中学二年ですね、意識的なのは。
佐野:
やはりラジオですか
大瀧:
うん、ラジオです。その前からラジオも聴いてましたが、自分にとっては62年になりますね。
エルビスがリバイバルヒットしたんです。「ブルーハワイ」って映画が日本で大当たりして、それで昔の曲を再プレスしたらベストテンに入っちゃった。それが「ハウンド・ドック」と「冷たくしないで」(Don't Be Cruel)ってカップリング曲。その時に初めて聴いたんです。
佐野:
エルビス・プレスリーは確か1956年デビューですから。
大瀧:
「ハートブレーク・ホテル」はね。
佐野:
ええ。62年というとかなりエルビスはスターとしてかなりオーストライドされていて、大瀧さんにとってエルビスっていうのは、どれくらいの存在だったんですか?
大瀧:
「ブルーハワイ」で流行っている人っていう感じですかね。ああゆう、「I NEED YOU♪」っていうビング・クロスビーの持ち歌を自分のものにしちゃったんだからね
佐野:
そうですね。
大瀧:
考えてみれば凄い話ですね。自分の持ち歌をあややが全部取ったみたいなものですからね。そういう意味では凄い話ですよ。ちょっと例えが思い浮かばなかったんで何なんだけど。そういうようなことだったんだけれども、「ハウンド・ドック」と「Don't Be Cruel」のカップリングを聴いた時にちょっと凄いと思いましたね。
佐野:
なるほど。その頃、大瀧さんは楽器は弾かれてたんですか?
大瀧:
いや全く無いです。僕は楽器は はっぴいえんど になってから やったに等しいです。だから本当にもう素人も良いところで、どれもだめです。
佐野:
62年。まあ出会いがあり、その後どんな音楽に興味を示したんですか。
大瀧:
62年デビューがフォーシーズンズとビーチボーイズなんですよ。僕は本当にリアルタイムで彼らが出てきた第1曲目から「シェリー」と日本では「サーフィンUSA」とですけども、ここから出るものずっと追いかけるみたいな、これ以降の人達、62年以降のデビューのものは、全部ずーと67年まで追いかけましたね。
佐野:
つまりそうするとその頃ビートルズは64年に発奮しますけども、ビートルズ以前、ビートルズ以後というのをリアルタイムで経験している世代。
大瀧:
エルビスのリバイバルヒット、エルビスのタイムライン的には遅いんですけどね。エルビスの方がメインだったわけですよ。ビートルズが出てきた時にはそのビートルズのなにそれものっていう感覚もあるんですよ。一方ではね、とは言いながらもビートルズの魅力も抗し難いのでイギリス勢の方に入っていくっていうのと、アン時にエルビスを友達に任した。64年以降は友達が買ったんですよエルビスは。でー友達が買ってきて、それを聴くというのに任して、後はビートルズ以降のイギリス勢を聴きました。
佐野:
なるほど。その後実際に楽器を持ったり自分で曲を作ってみようと思ったのは何歳くらい?
大瀧:
高校3年の時にたまたまドラムを持っている人がいて買わないかって言われて、買う前にどんなものかっていうので借りて、田舎だったもんですから、友達の田んぼの真ん中にある一軒家の所に行って、柱の所にバスドラをとめて、そこでドラムを叩いたのが最初の僕の、最初はドラマーなんですね。最初に叩いたドラムの音ですけれど、録音があるんです。初めてのビートの下手ですけど、ドン・スタターン・ドーンの。あのー叩いてました。
佐野:
ああ、そうですかー。それは勿論、オープンリールのテープレコーダー
大瀧:
61年くらいからカセットの第1号みたいなのが出てきていて、それで二人持っていたんで、あの頃ダビングみたいなこともやってました。
佐野:
大瀧さんはじゃあリズムから始まったんですね。ドラムから始まったんですね。興味深いですね。
大瀧:
僕はドラマーだと自分では思っています。時々だからドラムのフレーズなんかはほとんど自分で考えているものが多いと思っています。
佐野:
その頃、大瀧詠一さん、ソロの色んな楽曲に見られるリズムアレンジは色んなバリエーションがあるんですけど、これ大瀧さん一番最初にドラムだから
大瀧:
やっぱりドラムが気になるんですよ。さっきの「サムシング・エルス」でもアル・パーマーの方に耳がいってしまうんですけどね。
佐野:
非常に興味深い。はい。その後今度、自分で曲を作ったり詩を書いたりするんですけど、同時に多重録音というものにも興味を持ち始めるんですよね。
大瀧:
そのカセットと二台あったら多重録音が出来るんだってことを高3くらいの時に、まあ誰でもね、あの頃買ってた人はみんなやっている訳ですけれど、まあ、あれを一人でやったら面白いんじゃないかってことで、それでソロアルバム、さっきの吉野金次さんと一緒にやったソロアルバムの中で随分多重録音、自分ひとりで。そのあとB面の「五月雨」っていうのがあるんですけど、あれはベース以外は全部自分でやってるんですけどね。それは僕じゃない以外は全部やってますね。一人多重録音みたいなものにこったのは72年か73年くらいかその辺。
6 五月雨(シングル・バージョン) 大瀧詠一
佐野:
自分、NHKでソングライターズっていう番組をやっているんですけど
大瀧:
いやあ佐野君からね出演依頼が来ましてね、いやあ本当に僕はあれだったんですけど、今日はまあその「ソングライターズ」のラジオ版ってことで一つお許しいただければと。
佐野:
有難うございます。嬉しいです。はい。69年といえば、ウッドストックがあったりとか。当時のロックジャーナリズムはニューロックてな言葉で色んな新しいバンドが出てきた本当にもう激動の時だったんじゃないかなって思うんですが、はっぴいえんどで とりあえずやりたかったことは何だったんですか?
大瀧:
何だったんですかね。日本語のロックっていうのは細野さんが考えたキャッチですから。えーっと思ったんですね。あの頃にもよく聞かれたんですけども、日本のロックを日本語で歌ってどうでしたかって よく聞かれたんですが、まず第一感はのりが悪いですって。こんなもん格好悪い。これが第一感です。やってる側の。自慢じゃないですけど。どうやったらこれらしく聞こえるようになるんだろう。ということの戦いだったですね。3年間ね。
佐野:
僕らの世代で聴いていて思ったことは、はっぴいえんど の詩 それは、例えば大瀧さんが書かれた「颱風」って曲で、英語の音韻を日本語の音韻に置き換えて歌うというか詩を書くというか、それをやって初めての世代かなって僕は思っているんですけれども、これも意識的にやってました?
大瀧:
意識的にやってました。それ以前の人達のを聞いてみるとね、あの日本語で歌ってるんです。日本語でって言うより漢字で歌っているんです。
佐野:
分かりますよその言葉は。
大瀧:
松本のは漢字が多いでしょう。字図らはね。でおそらく自分の歌でのりが悪かったのは漢字で歌ってたからだった。だから全部 音に分解したんです。でね、僕の歌詞カードは全部ローマ字になってるってよく言われたんです。
佐野:
みなさん、大瀧さんのこの証言はとっても大事なことを言われてますね。僕はあの「颱風」の歌詞が手元にあるんですけども読んで見たいんですよ。
「四辺は俄かにかき曇り 窓の簾をつめたい風が ぐらぐらゆさぶる」こういう情景から始まる
大瀧:
それはフォークソングだと「あたりはにわかに かきくもりー」とか「まどのすだれを つめたいかぜがー」ってこうなるんですよ。
佐野:
当時のフォークシンガーなら必ずそうなる
大瀧:
必ずそうなるんですよ。こうなって何が面白いかって。それは誰かがやってるし、誰もやらないことはないかって考えたわけですよ。それで文節切るっていうくだらないアイディアを思いついた。
佐野:
まるでその日本語を英語に聞こえるように
大瀧:
英語に聞こえるようにっていうかね、たぶんね音に分解して文節切るってこと
だから 辺りは俄かに ではなくて あたりはに で止めた。
佐野:
はい。
大瀧:
で次が わかにか で止めてね、バカだよね(笑)
佐野:
あのバカじゃなくて、これとっても大事なことなので僕、復唱したいんですけど
辺りは俄かにかき曇り って普通のシンガーなら歌うんですけど、大瀧さん、はっぴいえんど がやったのは、
あたりはに わかにか きくもり(二人で笑いながら復唱)
何だろうなって思いますよね。
大瀧:
その時に文節を切るというのは、後で思ったんだけども、英語で全部あるわけじゃなくて、プレスリーにね、「ア・フール・サッチ・アズ・アイ」ってのがあって、♪(歌詞を歌っている)ってのがあるんだ。僕ね日本のロックを始めた時に いぬは いとぬ で切れるけれども、DOGはどとぐ で切れるわけではないというのを そういう日本語の根源のはしょうがないからね。好きでやったんじゃないんだよ。その根源の日本語や英語を考えざるを得なかったわけだよね。その時に、日本語の いとぬは 切れるけれど、あるいは 猫は ねとこ で切れるけれど、CATはキャッとトで切れる訳ではないという 色んな話から考えた時に DON’T BE ANGRY MEってオリジナルは歌っているだけど、エルビスはさ、ドンビ・アンって切ってんだよ。(笑)それはない。でもエルビスの新しさはそこにあったんですよ。
7 (Now and Then There's) A Fool Such As I / Elvis Presley
8 我が心のピンボール 大瀧詠一
来週も引き続いて大瀧詠一がゲスト
今夜は
Bright Eyesの新作 The People's Key
リリース年月日:2011-02-15
シンガーソングライターConor Oberstのブライト・アイズ名義(ソロプロジェクト)のアルバム
新世代のアーティストで最も期待されているアーティストの一人と言っても良いと思います。それは例えば彼を指してネクスト・ボブディランなんて呼ばれていることからもわかります。あれは2007年の頃だったと思います。アメリカ大統領選挙の頃でした。対外的にかなり好戦的な姿勢をとっていた それまでのジョージ・ブッシュ政権を倒そうという運動にミュージシャン達が全米で『Vote For Change』というコンサートツアーを行いました。そこにはブルース・スプリングスティーン、ジャクソン・ブラウン、そしてR・E・Mといったアーティスト達が参加していましたが、その中でこのConor Oberstも若い世代を代表して参加していました。結果そのときにはブッシュ政権は再選されましたけども、このConor Oberstは直後にブッシュ政権を批判する曲を書いてダウンロード販売をしたということです。
Bright Eyesとしては4年ぶりの新作となりました。アルバムタイトルは 「The People's Key」
今夜はこのアルバムから2曲聴いてみたいと思います。
1曲目の曲ではこんなことが歌われています。
気取った偽善者になんかなるなよ。連中は君が挫けずに何度でもやり直すのが気に入らないんだ。
初心者の心でもって、さあ流されないようにしっかり掴まって行こう。
1 Beginner's Mind / Bright Eyes
2 Jejune Stars / Bright Eyes
今年三月 「ロングバケーション」30周年アニバーサリー盤とナイアガラCDブック1を出した大瀧詠一さんをゲストに迎えて楽しい話を伺いたいとおもいます。
佐野:
僕ら録音してて、楽器の録音はともかく気を使うのはボーカルのダビングですよね。大瀧さんもロングバケーションの時に、大瀧さんどんな風にボーカルダビングしたのかを人から聞いたんだけれども、
大瀧:
見たことは無いよね
佐野:
はい。見たことは無いです。
大瀧:
だから見た人はいないんだよ、今んところ。
佐野:
話によると、スタジオにこもって一人でパンチ、パンチアウトしながら
大瀧:
しますよ。結局福生スタジオ(福生45スタジオ)の5年間があってね。自分でレコーディングエンジニアしてた、だって一人しかいないからね当然。その時に全部やってましたから、もうロングバケーションの時はミキシング暦5年目か6年目ぐらいだったか7年目ぐらいです。お手なもんです。
佐野:
僕らだと例えばディレクターだとか第三者がいて、そして歌を聴いてもらいつつダビングしていくというやり方なんだけれども、大瀧さんが一人でダビングをするという理由はやはり完全に曲のアレンジからトーンまで完全に全部知り尽くしているから自分しか適切なボーカルダビングが出来ないという自信からなんですか
大瀧:
3つくらい理由があるんですよ。それは勿論あるんだけれども、人がいるとやっぱ嫌なんだよ。
佐野:
あはははは、はい。
大瀧:
それとね、どうぞ とか言われるのも嫌なんだよ。
佐野:
あっ、歌ってくださいとか。
大瀧:
うーん、いいねぇ。とか。お願いしますっていうのもね。(笑)で、自分でお金を出して自分でミュージシャン集めて、スタジオ代払ってだよ、自分でやってんだから、どうして僕はお願いされなきゃいけないのかとか、色んなことを考えながらやっていると
佐野:
わかりますよ。
大瀧:
それから、今はうまくいかないから元に戻してとか。どこまで戻すとか、そういうことをやっている間が嫌なんだ。あそこでテンションが落ちるの、たいてい。
佐野:
あ。
大瀧:
だから自分だったら直ぐに戻せるし、まあ1曲だけパンチング間違えてオケ消したことあるけどね。
佐野:
あー(笑)それは悲劇でしたね。
大瀧:
だよね。トムサムカーボーイっていう最後のところで、あのーあって思ったね。まあ、直ぐにとめて、あのーまあ編集しましたけれど
佐野:
あーそうですか。はい。
大瀧:
でー一つは人がいるのが嫌だという。人がいるとどうやら自分の実力が出ない。人見知りが一つ。それから人に命令されるのが嫌だという我儘
佐野:
大瀧さんらしいです。わかります。
大瀧:
(笑)後は自分がエンジニアっていうか自分がアシスタントっていうか。自分以上に自分にうーん、自分の申請に合ったエンジニアリングとか助手のやり方は僕以上に上手くやる人は絶対にいませんという。その三つくらいですかね。
佐野:
うん、うん。特にボーカルダビングということで思い出すのが、80年初期でしたけれども、大瀧さんのプロデュースのナイアガラ・トライアングルVO.2に参加しました。あの時、「彼女はデリケート」って曲があって、自分で完璧だな、これはきっと気に入って貰えると思って持っていったら、「うーん佐野君もう一回やり直してみようか」ってスタジオにほうり込まれて、それで歌ったんですね。その時に大瀧さんが僕がどういう風に歌ったら良いか考えあぐねて、トークバックで「佐野君、エディ・コクラン(Edward Ray Cochran)だよ」という一言を頂いて、うーん。エディ・コクランかって、で素で歌って、テイク1かテイク2で大瀧さんからOKが出たんですよね。で、それは自分にとっては、どちらかといえば不本意というか、持ってったものは、もう2時間も3時間もかけてピッチもコントロールしてダブルボーカルにして持っていったのに、大瀧さんがOKを出したのは何か、その辺でちゃらっと歌ったようなね、テイクをOKと言われたもんですから、これで良いのかなって思ったんですけどね。
3 彼女はデリケート 佐野元春
大瀧:
うーん、ものすごくね、カッチリしたヴァージョンだんですよね最初ね
佐野:
そうだったんです。
大瀧:
最初に貰った時に。で、色んなことを瞬間的に考えて、今にして思えばっていうこともあるんだけれども。えーと、あのテンポでカッチリ歌ったあの彼女っていうものに年齢層が凄く高く感じたの。
佐野:
あー(感嘆)
大瀧:
で、丸の内のOLのような気分でした。
佐野:
確かに「彼女はデリケート」自分がソングライティングした訳ですけども、対象はOLじゃなかったです。やっぱりガールに話しかけるっていう詩でしたね。
大瀧:
日本の歌謡史上、女性を男の子がね、女性を歌った場合にあんまり丸の内にいる女性を歌ったってケースは少ないんですよ。
佐野:
もう少し年齢は下ですよ、ガールですよ対象は。
大瀧:
はい。レイディじゃなくて
佐野:
はい
大瀧:
そんなもんだから、ちょっとレイディっぽい女性のように思えたので、やっぱりガールにした方が
佐野:
あー
大瀧:
良いと思ったと思います。で、エディ・コクランを出した。
佐野:
はい。はい。
大瀧:
それとエディ・コクランのアン時、行くんだよって言うと、もう佐野君がシェイク仕出して
佐野:
フェへへ!
大瀧:
でやったんだけども。「サムシング・エルス」って曲がエディ・コクランの曲が好きで
佐野:
ええ
大瀧:
「サムシング・エルス」って曲は本国ではヒットしてないんです。
佐野:
そうだったんですか。
大瀧:
イギリスのチャートだけでヒットしてて、イギリス人が選んだ。あのエディ・コクラン。当然日本では勿論ヒットしてないですし、日本では「バルコニーに座って」とか、ああゆう感じのものがエディ・コクラン「サマー・タイム・ブルース」などがヒットしてるんだけど「サムシング・エルス」っていうのは、あのレコーディングの前だったか後だったか覚えてないんだけれども、ポールマッカートニーとエリック・クラプトンが出てきて、何をやろうかっつた時にね、「サムシング・エルス」を歌った。
佐野:
あーそうですかー。
大瀧:
イギリスだけで大ヒットしただけのことはあるなって思って。イギリス人が好むようなロックンロールな感じがした瞬間的にアメリカンロックというよりもイギリスのロックを佐野君に感じたわけ。
佐野:
あ。
大瀧:
だからアン時にエディ・コクランの中でも「サムシング・エルス」っていう曲のつもりだったんだよ。
佐野:
なるほど。
4 Somethin' Else Eddie Cochran
大瀧:
ハイハッドをジャジャジャンってやるのが、この時はものすぐく斬新な。このドラマーはリトル・リチャードのバックをやっていたアル・パーマーって人なんです。それでリトル・リチャードのようなサウンドが欲しいっていうのでエディ・コクランは「サムタイム・ブルース」も「カモン・エブリバディ」もアル・パーマーのこのドラムでやっている。で何故か佐野君はマルクヘア?デイジーボーイ?で、デイジーガールズ?で何か共通点をこれを聴いた時それを感じて、これはエディ・コクランでやった方が良い。今に聴いて分かる通り、こういう歌は一 二回で歌った方が良い。
佐野:
ダビングで重ねるよりも、もう一発気分で歌っちゃった方が結果が良いということですよね。
大瀧:
そういうことになるのよ。
佐野:
大瀧さんの作られたレコードを聴いてみると、やっぱり色んなこう、何て言うかな、手塚治虫さんの漫画で言うと、ひょうたんづき みたいな。
大瀧:
突然ひょうたんつぎ みたいな
佐野:
突然何か、わけのわからないものが ピュッと出てくる瞬間とかってあるじゃないですか。
あの僕これ聞きたかったんですけれども、初期のはっぴいえんど時期の曲で、これ大瀧さんが作詞作曲している曲ですけれど、「颱風」これ一番最後はバンドがぐぁーと盛り上がって行くんですけれど、
大瀧:
ええ、ほんとはあれもっと長いんですよ。すごい長い。12分くらいあったかな。
佐野:
そうだったんですか。
大瀧:
うん。うちにスルーのあれがありますけれど(笑)。けっこうね縮めたんですよ、あんまり長いから。
佐野:
実際レコードになっているフェイド・アウト際に、多分大瀧さんだと思うんですけども
「何 風速40M」 って
あれは何かのパロディーか何か?
大瀧:
うん。そうっかそうか、佐野君はあのジェネレーションじゃないんだ。あーそうだよね。石原裕次郎の風速40Mという映画があって、唄もあるんです。「・・・・何 風速40M」って言ってるんですよ。
佐野:
颱風の歌にかけて、最後盛り上がって、風夜よ吹けよ、雨よ降れで、そして大瀧さんが「何 風速40M」と、こう言ったわけなんですね。
大瀧:
これがねー日活マニアの渡辺武信さんに受けてね。渡辺武信さんて詩人の人なんだね。それで好きでNHKの「わかいこだま」に渡辺武則さんを呼んだんです。色んなことを言ってたんだけど、まあ「颱風」をたまたま聴いて、放送には乗ってなかったんですけど、終わってから「あの颱風ってのは面白いね」って「何 風速 40Mってところが面白いよね」って言ったら、凄い日活の研究家の人でもあったんですね。
佐野:
そうでしたか。当時のレコーディング機材について聞きたいんですけど。タクは何チャンネルだったんですか?
大瀧:
あれは16です。
佐野:
確かエンジニアは吉野金次さん。
大瀧:
吉野金次さんに教わって、僕もあそこで、エンジニアリングの面白味を味わうことが出来て
佐野:
やっぱり当時は二元ストリームの歌謡曲という音がね、で大瀧さんたちが作ろうとしていたオルタ・ネイティブな音がある。でその音の違いは何かって言った時に、それはやっぱり録音にあるんだってことに気づいた最初の世代だと思うんですよね。大瀧さんも。吉田保(吉田美奈子の姉。教授の親友 生田朗の義理兄)さん、そして吉野金次さん。この二人が後のロック、ポップのね、レコーディングの礎を作ったノウハウを持った唯一の二人でしたよね。当時レコーディングでソロを作られた時に吉野さんというエンジニアに求めるものは何でした?大瀧さんは
大瀧:
吉野さんは兎に角、自分の音とドラムなんかは自分でチューンしてて、それからリミッターなんかも自分でポータブル型のものを持ってきて、その音作り、マイクのトーンとかマイクの種類とか、ってなことを色々と研究してた人だったので、我々とは本当に凄くあって
佐野:
仲間っていう感じがしてた。
大瀧:
そういや「指きり」って曲があるんですよ。ソロアルバムのね。
佐野:
ああ、良い曲ですね。
大瀧:
あれね、一回歌ったきりなんですよ、あれ。リハーサルの曲なのよ。あれからチャンと出す、これがガイドの歌ですよってつもりで一回やったら、吉野さんは「これは良い」って言うのよ。今のはガイドブックなんだけどって言ったんだけど、いやだ、これをOKにしてくんなきゃ降りるって。
佐野:
ああ、わかります。大瀧さんは御自信でエンジニアリングをされることが良く知られていますけれども、そのサウンドメイキングっていうか、実際レコーディング自体に興味を持ったキッカケっていうのは何だったんですか?
大瀧:
ラジオだと思いますね。我々の世代の鉱石ラジオを自分で作ったり、大きなスーパーとか小さなスーパーとかを自分達で組み立てたりゆうようなあれで、ラジオでその音楽が流れて来てっていうようなところからだと思いますよ。小学校2年でテープレコーダーを買ったので、そん時も録音が楽しみだったよね。
佐野:
そしてナイアガラレーベルを設立する。このレーベルでもプロデューサーとしてもやられたんですけれど、エンジニアリングも同時にやれてた
大瀧:
全部一人しかいなかったからね、全部一人でやる。掃除する人もいないからね。掃き掃除から始まる、出前とったりね。それからですよ、皆が来て、譜面を渡してエンジニアの箱に入って行ったり来たりしてね。
佐野:
その時代はプロデューサー・エンジニアっていう。プロデューサーも出来るし、エンジニアリングも出来る。レーベルを作って、スターを育てて、でレコードをヒットさせて、後には時代がやってきますよね。そのさきがけだったと思うんですけど、ナイアガラ・レーベルで一番最初にレコーディングしたことって覚えてます?
大瀧:
覚えてますよ。はっぴいえんど から、つい最近の2003年のレコーディングまで、細かく覚えているんです。どのレコーディングがどのように行われたかっていうのは。はい。自分でやってますからね、結局。ナイアガラレーベルは山下君がいたシュガーベイブっていうグループの「SONGS」っていうアルバムだったんだけど。あれも全部付き合ってますからね。いっつもサインも自分でやってますから、彼らにもこの前言ったんですけど、回数では僕の方が聴いているだろうって。
佐野:
ああ、プロデューサーですものね。
大瀧:
エンジニアだったのが大きかったんじゃないですか、繰り返して聴いてミックスしなきゃいけない
佐野:
そうですね
5 DOWN TOWN シュガーベイブ
佐野:
今更聞くのも何なんですけれど、シュガーベイブ、「SONGS」レコーディングにおいて、大瀧さんの立場は先ずプロデューサーですね。でありエンジニアであり。
大瀧:
そうですね。74年にもう前史があるんです。74年にレコーディングする前に。練習したりライブをやったり、結果は残ってないんですけど、74年に随分歴史があるんですね。そこで大体出来上がっていたので、レコーディングは楽でしたね。最後の方。
佐野:
編曲面で大瀧さんのアイディアっていうのは何か入っているんですか?
大瀧:
いやあ殆ど無いって言って良いと思いますよ。
佐野:
これはやっぱり達郎さんのアイディアが
大瀧:
うん、全部山下君があのバンドは全部仕切ってますね。
佐野:
「SONGS」の中では山下さん特有のしろたまのハーモニーが多くは言ってますけれども、あのハーモニーのレコーディングの方向は大瀧さんが提供した
大瀧:
まあ、そこは全員ぐるっと回るみたいなことはとってました。それは、その前に彼らのCMのコーラスで最初に入っているんですね僕の74年に、(三菱ラジオジーガム)その時に、あの手法で、シュガーベイブとシンガーズ・スリーと7人。一本のマイクを持つようにして7人いるんですけど、それでぐるっと全員で囲んでっていう録り方をその時にしていて、山下君だけ大きいんです。要するに一歩後ろ、二歩後ろ、三歩後ろみたいな、そういうようなことをやりながらやってました。
佐野:
大瀧さんが一番最初にポップソングを聴いたというのは何歳くらいなんですか。意識的にポップソングに目覚めたのは何歳くらい?
大瀧:
それは62年ですね。中学二年ですね、意識的なのは。
佐野:
やはりラジオですか
大瀧:
うん、ラジオです。その前からラジオも聴いてましたが、自分にとっては62年になりますね。
エルビスがリバイバルヒットしたんです。「ブルーハワイ」って映画が日本で大当たりして、それで昔の曲を再プレスしたらベストテンに入っちゃった。それが「ハウンド・ドック」と「冷たくしないで」(Don't Be Cruel)ってカップリング曲。その時に初めて聴いたんです。
佐野:
エルビス・プレスリーは確か1956年デビューですから。
大瀧:
「ハートブレーク・ホテル」はね。
佐野:
ええ。62年というとかなりエルビスはスターとしてかなりオーストライドされていて、大瀧さんにとってエルビスっていうのは、どれくらいの存在だったんですか?
大瀧:
「ブルーハワイ」で流行っている人っていう感じですかね。ああゆう、「I NEED YOU♪」っていうビング・クロスビーの持ち歌を自分のものにしちゃったんだからね
佐野:
そうですね。
大瀧:
考えてみれば凄い話ですね。自分の持ち歌をあややが全部取ったみたいなものですからね。そういう意味では凄い話ですよ。ちょっと例えが思い浮かばなかったんで何なんだけど。そういうようなことだったんだけれども、「ハウンド・ドック」と「Don't Be Cruel」のカップリングを聴いた時にちょっと凄いと思いましたね。
佐野:
なるほど。その頃、大瀧さんは楽器は弾かれてたんですか?
大瀧:
いや全く無いです。僕は楽器は はっぴいえんど になってから やったに等しいです。だから本当にもう素人も良いところで、どれもだめです。
佐野:
62年。まあ出会いがあり、その後どんな音楽に興味を示したんですか。
大瀧:
62年デビューがフォーシーズンズとビーチボーイズなんですよ。僕は本当にリアルタイムで彼らが出てきた第1曲目から「シェリー」と日本では「サーフィンUSA」とですけども、ここから出るものずっと追いかけるみたいな、これ以降の人達、62年以降のデビューのものは、全部ずーと67年まで追いかけましたね。
佐野:
つまりそうするとその頃ビートルズは64年に発奮しますけども、ビートルズ以前、ビートルズ以後というのをリアルタイムで経験している世代。
大瀧:
エルビスのリバイバルヒット、エルビスのタイムライン的には遅いんですけどね。エルビスの方がメインだったわけですよ。ビートルズが出てきた時にはそのビートルズのなにそれものっていう感覚もあるんですよ。一方ではね、とは言いながらもビートルズの魅力も抗し難いのでイギリス勢の方に入っていくっていうのと、アン時にエルビスを友達に任した。64年以降は友達が買ったんですよエルビスは。でー友達が買ってきて、それを聴くというのに任して、後はビートルズ以降のイギリス勢を聴きました。
佐野:
なるほど。その後実際に楽器を持ったり自分で曲を作ってみようと思ったのは何歳くらい?
大瀧:
高校3年の時にたまたまドラムを持っている人がいて買わないかって言われて、買う前にどんなものかっていうので借りて、田舎だったもんですから、友達の田んぼの真ん中にある一軒家の所に行って、柱の所にバスドラをとめて、そこでドラムを叩いたのが最初の僕の、最初はドラマーなんですね。最初に叩いたドラムの音ですけれど、録音があるんです。初めてのビートの下手ですけど、ドン・スタターン・ドーンの。あのー叩いてました。
佐野:
ああ、そうですかー。それは勿論、オープンリールのテープレコーダー
大瀧:
61年くらいからカセットの第1号みたいなのが出てきていて、それで二人持っていたんで、あの頃ダビングみたいなこともやってました。
佐野:
大瀧さんはじゃあリズムから始まったんですね。ドラムから始まったんですね。興味深いですね。
大瀧:
僕はドラマーだと自分では思っています。時々だからドラムのフレーズなんかはほとんど自分で考えているものが多いと思っています。
佐野:
その頃、大瀧詠一さん、ソロの色んな楽曲に見られるリズムアレンジは色んなバリエーションがあるんですけど、これ大瀧さん一番最初にドラムだから
大瀧:
やっぱりドラムが気になるんですよ。さっきの「サムシング・エルス」でもアル・パーマーの方に耳がいってしまうんですけどね。
佐野:
非常に興味深い。はい。その後今度、自分で曲を作ったり詩を書いたりするんですけど、同時に多重録音というものにも興味を持ち始めるんですよね。
大瀧:
そのカセットと二台あったら多重録音が出来るんだってことを高3くらいの時に、まあ誰でもね、あの頃買ってた人はみんなやっている訳ですけれど、まあ、あれを一人でやったら面白いんじゃないかってことで、それでソロアルバム、さっきの吉野金次さんと一緒にやったソロアルバムの中で随分多重録音、自分ひとりで。そのあとB面の「五月雨」っていうのがあるんですけど、あれはベース以外は全部自分でやってるんですけどね。それは僕じゃない以外は全部やってますね。一人多重録音みたいなものにこったのは72年か73年くらいかその辺。
6 五月雨(シングル・バージョン) 大瀧詠一
佐野:
自分、NHKでソングライターズっていう番組をやっているんですけど
大瀧:
いやあ佐野君からね出演依頼が来ましてね、いやあ本当に僕はあれだったんですけど、今日はまあその「ソングライターズ」のラジオ版ってことで一つお許しいただければと。
佐野:
有難うございます。嬉しいです。はい。69年といえば、ウッドストックがあったりとか。当時のロックジャーナリズムはニューロックてな言葉で色んな新しいバンドが出てきた本当にもう激動の時だったんじゃないかなって思うんですが、はっぴいえんどで とりあえずやりたかったことは何だったんですか?
大瀧:
何だったんですかね。日本語のロックっていうのは細野さんが考えたキャッチですから。えーっと思ったんですね。あの頃にもよく聞かれたんですけども、日本のロックを日本語で歌ってどうでしたかって よく聞かれたんですが、まず第一感はのりが悪いですって。こんなもん格好悪い。これが第一感です。やってる側の。自慢じゃないですけど。どうやったらこれらしく聞こえるようになるんだろう。ということの戦いだったですね。3年間ね。
佐野:
僕らの世代で聴いていて思ったことは、はっぴいえんど の詩 それは、例えば大瀧さんが書かれた「颱風」って曲で、英語の音韻を日本語の音韻に置き換えて歌うというか詩を書くというか、それをやって初めての世代かなって僕は思っているんですけれども、これも意識的にやってました?
大瀧:
意識的にやってました。それ以前の人達のを聞いてみるとね、あの日本語で歌ってるんです。日本語でって言うより漢字で歌っているんです。
佐野:
分かりますよその言葉は。
大瀧:
松本のは漢字が多いでしょう。字図らはね。でおそらく自分の歌でのりが悪かったのは漢字で歌ってたからだった。だから全部 音に分解したんです。でね、僕の歌詞カードは全部ローマ字になってるってよく言われたんです。
佐野:
みなさん、大瀧さんのこの証言はとっても大事なことを言われてますね。僕はあの「颱風」の歌詞が手元にあるんですけども読んで見たいんですよ。
「四辺は俄かにかき曇り 窓の簾をつめたい風が ぐらぐらゆさぶる」こういう情景から始まる
大瀧:
それはフォークソングだと「あたりはにわかに かきくもりー」とか「まどのすだれを つめたいかぜがー」ってこうなるんですよ。
佐野:
当時のフォークシンガーなら必ずそうなる
大瀧:
必ずそうなるんですよ。こうなって何が面白いかって。それは誰かがやってるし、誰もやらないことはないかって考えたわけですよ。それで文節切るっていうくだらないアイディアを思いついた。
佐野:
まるでその日本語を英語に聞こえるように
大瀧:
英語に聞こえるようにっていうかね、たぶんね音に分解して文節切るってこと
だから 辺りは俄かに ではなくて あたりはに で止めた。
佐野:
はい。
大瀧:
で次が わかにか で止めてね、バカだよね(笑)
佐野:
あのバカじゃなくて、これとっても大事なことなので僕、復唱したいんですけど
辺りは俄かにかき曇り って普通のシンガーなら歌うんですけど、大瀧さん、はっぴいえんど がやったのは、
あたりはに わかにか きくもり(二人で笑いながら復唱)
何だろうなって思いますよね。
大瀧:
その時に文節を切るというのは、後で思ったんだけども、英語で全部あるわけじゃなくて、プレスリーにね、「ア・フール・サッチ・アズ・アイ」ってのがあって、♪(歌詞を歌っている)ってのがあるんだ。僕ね日本のロックを始めた時に いぬは いとぬ で切れるけれども、DOGはどとぐ で切れるわけではないというのを そういう日本語の根源のはしょうがないからね。好きでやったんじゃないんだよ。その根源の日本語や英語を考えざるを得なかったわけだよね。その時に、日本語の いとぬは 切れるけれど、あるいは 猫は ねとこ で切れるけれど、CATはキャッとトで切れる訳ではないという 色んな話から考えた時に DON’T BE ANGRY MEってオリジナルは歌っているだけど、エルビスはさ、ドンビ・アンって切ってんだよ。(笑)それはない。でもエルビスの新しさはそこにあったんですよ。
7 (Now and Then There's) A Fool Such As I / Elvis Presley
8 我が心のピンボール 大瀧詠一
来週も引き続いて大瀧詠一がゲスト