第4回(最終回)のテーマ「30YEARS」
1 C’mon
Q佐野さんにとってのロック観はこの30年で変化はありましたか?
佐野:
多感な頃にロック・ポップを聴いて、これはいいなあって思い、そして、もし自分に曲を作る才能があるんだったら、作ってみたいと思い楽器を買い、そして演奏を身につけ、ディランとか、そうした欧米のソングライター達のように自分で詩や曲を書いてみたいなってことでソングライティングを始めましたね。それ以来、音楽に向かい合う自分の姿勢というのは変わってないんじゃないかなって思います。
Qではこの30年でターニングポイントだったなって感じるのはいつですか?
佐野
まあ何をターニングポイントと考えるのか、それによって違うと思いますけれど、創作の場を東京からNYに変えた。その後、ロンドンに行っても長く住んで、ロンドンでもソングライティングをしました。そう言えば海外でクリエイティヴな作業をしたことというのが一つのターニングポイントになったんじゃないのかなって思います。
Q沢山の作品を作り続ける佐野さんですが、感性のアンテナはどんな風に張っているんですか?
佐野
よくどうやって詞とか書くのかって言われるんですけれど、ソングライターである自分というのは作家と同じですから、常に歌の題材を探していますし、日常の生活の中でも色んなことをしながら詞を考えたり、メロディーを思い浮かべたりとかしてます。ま、それが当たり前の生活になってます。それがやがて曲や詞にまとまっていくってことですね。
2 ガラスのジェネレーション
これは僕のキャリアの中でもかなり初期の頃の曲ですね。確かアンジェリーナに続くシングル・カットナンバーだったと思います。まあよく僕が子供の頃思っていたのはね、親とか兄弟とかいわゆる大人たちから叱られた時に子供である僕は言葉を持っていませんでしたから、言われっぱなしで悔しいなと。何か大人たちをぎゃふんと言わせるような何か気のきいた言葉、台詞っていうかね、そういう一発かましてやりたいなって常に思っていたんで、このガラスのジェネレーションっていう曲の中でね、曲の最後に「つまらない大人にはなりたくない」って嘆いてるんだけれど、こういう言葉が、こういうラインが大人たちに一撃を食らわせるんじゃないかなって、そんなことを思いながら書いた思いがあります。
Q1980年衝撃的デビューを果たした佐野さん、当時歌謡曲全盛時代に佐野元春作品はどのように育っていたと実感していますか?
佐野
自分はキャリアをスタートさせたのが1980年。当時、自分の音楽はさておき、流行っていた音楽ですよね。アイドル歌手の音楽であったり、演歌の曲であったり、それからフォークの曲であったり、まああまり僕にとっては馴染みが薄いというか、聴いてもあまりピーンとこない曲がヒットチャートを埋めていたんですよね。それで自分がキャリアを始めて一番不安になったのは、僕が作り曲を誰が聴いてくれるんだろう?ってことですね。いつかこのチャートに僕の曲が上がってくるようなことがあるんだろうか?そういう不安がいつもありましたね。ただ仲間達を見ていると、僕と同じ音楽を作っている人たちが多かったですし、まあやがて時代は変わっていくんだろうなって、そういうことを思ってましたよね。それまでになかった新しい言葉、それまでになかった歌い方、それまでになかったメロディー、ビート、とにかく新しいことに好奇心を持ってクリエイティヴな作業をしてましたから、おそらく80年代の僕というのは、そうしたことの連続だったし、周りの人たちもそういうアーティストなんだなって見ていてくれたんじゃないかなって思っています。まあ80年代に起こったことで新しいことは、それまでは作詞家がいて作曲家が居て、編曲家がいて、そういう共同作業で、それでまたそこにシンガーが居て、共同作業で作られていたものが、僕のように自分で詩も書き曲も書き、バンドを集めて編曲も自分でして、自分でレコードも作っちゃう、そういう流れの一番最初のあたりに僕が居たのかなって思います。で、やがて僕のようなスタイルをする人たちが沢山出てきて、それが人つながりになった。そしてそれは大きな力になりましたよね、一つの流れになったことが80年代に起こった顕著なことだったんじゃないかなって思います。
3 約束の橋
80年代後半、僕はロンドンに半年間ぐらい住んで、アパート借りて、そこに住みながらレコーディングスタジオに通い、作ったアルバム「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」のアルバムに収録した曲ですね。リビングルームに寝転びながら、この約束の橋の詩を書いたのを覚えていますね。
Q80年代後半からレコードからCD、録音もアナログからデジタルに変化し始めましたが、それらが佐野さんの作品に与えた影響はありますか?
佐野
確かに、80年代それまでのアナログなレコーディングからそろそろデジタルなレコーディングに変わっていこう、というそういう変化はありましたね。ただレコードを作る時に一番大事なことはミュージシャン達の良い音をキチンと良い音で録り、そしてソングライターとして僕は良い誌を書き、良い曲を書き、楽しく歌う。その曲にピッタリあった歌い方で歌う。でー聴いてくれる人にご機嫌な気持ちになってもらう。これが基本的な作業ですから、レコーディングのやり方は確かに大きくこの30年で変わってきましたけれども、レコーディングに対する姿勢みたいなものは何も変わってないと思います。
Qでは自分の作品がレコードからCDに変わってしまうということへの抵抗というのはありましたか?
佐野
僕はアナログ・レコードで育ってきた世代なので、80年代の中盤ぐらい、自分の作ってきたレコードがCDサイズにちょっと小さくなった時には、残念だなぁって思いましたね。というのは多感な頃の僕は、そこに収録されているのは音楽だけではなく、それを包んでいるパッケージですね、もいわゆるアートと考えていましたから、レコードというのは総合的な表現である、音だけではなく、音とかアート、言葉、それらをまとめて見せていく、トータルアートだって考えていたんですよね。そうCDですとグラフィックの表現エリアがかなり狭まりますから、音とアートとの関連で表現できることがかなり狭められてしまう、そういう点でガッカリしてしまいました。
4 ジャスミンガール
自分より先輩のシンガーソングライターの大瀧詠一さんは「バチェラー・ガール」を作ってた、山下達郎さんも「高気圧ガール」を作っていた。僕も何とかガールで曲を書きたいなって思って書いた曲がこの「ジャスミンガール」です。
Qこの30年間、テクノポップやオルタネイティブサウンドやありましたが、佐野さんにとって刺激的なものは何でしたか?
佐野
刺激と言って良いかどうかわかりませんけれども、80年代においてはテクノロジーが生み出した音楽ですよね。所謂コンピュータを使った音楽あるはテクノ・ロック、テクノサウンド、それは今までのロックポップ音楽のヒストリーではなかったトーン、サウンドでしたから、これは新鮮に感じました。しかし、自分がやろうとは思いませんでした。90年代は時に新しいものは感じなかったです。まあ、既に僕は最初っからオルタネイティブなサウンドでしたし、最初からミクスチャーロックですから、そうしたミクスチャーロック、オルタネイティブロック聴いてもあまり新しさは感じなかったですよね。
5 君の魂、大事な魂
僕は新しいレーベルを作りました。DAISY MUSICレーベル。そのレーベルからの第一弾アルバムが「THE SUN」、そのアルバムからのリーディングシングルとなったのが「君の魂、大事な魂」まあ言ってみればロッカバラードって感じですけれど、まあ朗々とした愛の歌を歌ってみたい。世の中、世知がないですからね、朗々とした愛の歌を僕のレパートリーに曲を加えたいなって思って書いたのがこの曲です。
Qセルフカバーアルバム「月と専制君主」を30年目に作ろうと思ったのは何故ですか?
佐野
ナンと言っても僕のアニバーサリー何ていうことよりも、30年間僕の音楽を支持してきてくれたファンにとっての楽しいアニバーサリーイヤーであって欲しいなというそんな気持ちがあったんですよね。それで僕もベストアルバムを出したり、ライブコンサートもいつもと違った形態のものをやったり、ファンに喜んでもらおうという強い気持ちがありますね。その中の一環の一つとして思いついたのがこのカバーアルバムでした。
6 クエスチョン
Q昨年から3つの違ったスタイルでコンサートツアーを展開してきた佐野さん、佐野さんにとってこのツアーはどんなものでしたか?
佐野
僕はレコード製作を大事として捉えていますが、それよりもっと大事に捉えているのがこのライブパフォーマンスですよね。レコードを作っただけでは作品は完成しない。これはやっぱりツアー、コンサートで披露して、バンドで披露して自分の声で歌って自分の体を使って演奏して歌い、それをファンに届けて、それで初めて曲というのは完成するんじゃないかなって思うんですけど。僕は30周年アニバーサリーっていうことで僕のライブ表現も多様になってきているんですけれども、パート1、2、3と分けて、それぞれ3つの違うバンドと3つの違うパフォーマンス、これが実現できたことは本当に楽しかったし、嬉しかったです。
Q次のライブは3月6日のファイナルですが、大阪というのは佐野さんにとってはどんな思い出がありますか?
佐野
大阪という街でのライブ、デビュー以来、幾度となく、この街でライブをしてきました。一番最初にこの街で演奏したのはバーボンハウスというライブハウス。3日間連続で演奏しました。一日目二日目は殆ど客はいませんでしたけれども、3日目に満杯になってホッとしたというね。何だか大阪の人たちに受け入れられたようなそんな気持ちになって、その次に大阪の厚生年金とか幾つか経験を踏み、やがて大阪フェスティバルホールでコンサートが出来るようになった。毎回多くのファンの皆さんが集まってくれて、そして僕たちの音楽に熱狂してくれる。僕は東京生まれ東京育ちなんで大阪のことは全然わかってないですけれども、文化の違う彼らにね、本当に熱狂的に受け入れられたってことは、僕にとっては本当に嬉しい。まあそういうこともあって毎回大阪のコンサートというのは僕も楽しみにしているんですけれども、キャリアの中で何回か大阪城ホールでのライブもありました。今回も30周年ということで僕の曲を多感な頃に聴いてくれた方たちから、また最近になって僕の音楽に興味を持ってくれた新しい世代がね、皆一同に集まって僕も心を込めてこれまで皆さんが愛してくれた曲をガンガン演奏していく、そういうオールタイムヒッツ的なライブになっていく、大阪城という箱を借りて目いっぱい僕たち演奏を楽しみたいと思うのでね、集まってきてくれた広い世代の人たちも目いっぱい楽しんでもらいたいな。そんな風に思っています。
7 TONIGHT
ゲスト 堂島孝平 からのコメント
佐野さん元気でしょうか?佐野さんがこれを聴いていると思うと、ちゃんとしたことを喋らないといけないと今、心を引き締めておりますが、とにかく僕にとっては佐野さんは初めて日本の音楽ってカッコイイなって思わせてくれた方で、小学校4年生くらいの時でしたか「ワイルド・ハーツ」という曲を聴いて、そう思ってね、それ以来中学生の時からずっと聴いて初めて自分がコンサートを見たアーティストも佐野さんです。これはずっと前から佐野さんにお伝えしていることなので、佐野さんもよくわかっていらっしゃると思ってますが、僕の日本のアイドル、ヒーローでありまして、自分のツアーにも一緒に回ってもらったこともあって、その時、一緒にステージに立ったことにメチャクチャ感動したんですけど、今度は佐野さんのライブに自分を呼んでもらえるってことで、又違った興奮とスリルとそして何かこう緊張感が湧いております。でも何か自分にとっては光栄なことで佐野さんの曲を歌わせてもらうのも嬉しいし、先日佐野さんのライブは見に行っているんですけれども、スタンドのライブでホーボーキングとはまた違った形のライブでしたので、今度はホーボーキングの皆さんと一緒にやれるってことも、とても楽しみにしております。僕は正直、こんなに親類や家族に出たいと思うライブは初めてです。3月6日本当に楽しみにしております。堂島孝平でした。
佐野:堂島孝平君も出てくれるってことで僕も楽しみにしています。
8 レインガール
Qこれからも佐野元春さんを応援して行きたいと思います。
佐野
4週にわたって聴いてくれて、どうも有難うございました。佐野元春でした。
9 ダウンタウンボーイ
1 C’mon
Q佐野さんにとってのロック観はこの30年で変化はありましたか?
佐野:
多感な頃にロック・ポップを聴いて、これはいいなあって思い、そして、もし自分に曲を作る才能があるんだったら、作ってみたいと思い楽器を買い、そして演奏を身につけ、ディランとか、そうした欧米のソングライター達のように自分で詩や曲を書いてみたいなってことでソングライティングを始めましたね。それ以来、音楽に向かい合う自分の姿勢というのは変わってないんじゃないかなって思います。
Qではこの30年でターニングポイントだったなって感じるのはいつですか?
佐野
まあ何をターニングポイントと考えるのか、それによって違うと思いますけれど、創作の場を東京からNYに変えた。その後、ロンドンに行っても長く住んで、ロンドンでもソングライティングをしました。そう言えば海外でクリエイティヴな作業をしたことというのが一つのターニングポイントになったんじゃないのかなって思います。
Q沢山の作品を作り続ける佐野さんですが、感性のアンテナはどんな風に張っているんですか?
佐野
よくどうやって詞とか書くのかって言われるんですけれど、ソングライターである自分というのは作家と同じですから、常に歌の題材を探していますし、日常の生活の中でも色んなことをしながら詞を考えたり、メロディーを思い浮かべたりとかしてます。ま、それが当たり前の生活になってます。それがやがて曲や詞にまとまっていくってことですね。
2 ガラスのジェネレーション
これは僕のキャリアの中でもかなり初期の頃の曲ですね。確かアンジェリーナに続くシングル・カットナンバーだったと思います。まあよく僕が子供の頃思っていたのはね、親とか兄弟とかいわゆる大人たちから叱られた時に子供である僕は言葉を持っていませんでしたから、言われっぱなしで悔しいなと。何か大人たちをぎゃふんと言わせるような何か気のきいた言葉、台詞っていうかね、そういう一発かましてやりたいなって常に思っていたんで、このガラスのジェネレーションっていう曲の中でね、曲の最後に「つまらない大人にはなりたくない」って嘆いてるんだけれど、こういう言葉が、こういうラインが大人たちに一撃を食らわせるんじゃないかなって、そんなことを思いながら書いた思いがあります。
Q1980年衝撃的デビューを果たした佐野さん、当時歌謡曲全盛時代に佐野元春作品はどのように育っていたと実感していますか?
佐野
自分はキャリアをスタートさせたのが1980年。当時、自分の音楽はさておき、流行っていた音楽ですよね。アイドル歌手の音楽であったり、演歌の曲であったり、それからフォークの曲であったり、まああまり僕にとっては馴染みが薄いというか、聴いてもあまりピーンとこない曲がヒットチャートを埋めていたんですよね。それで自分がキャリアを始めて一番不安になったのは、僕が作り曲を誰が聴いてくれるんだろう?ってことですね。いつかこのチャートに僕の曲が上がってくるようなことがあるんだろうか?そういう不安がいつもありましたね。ただ仲間達を見ていると、僕と同じ音楽を作っている人たちが多かったですし、まあやがて時代は変わっていくんだろうなって、そういうことを思ってましたよね。それまでになかった新しい言葉、それまでになかった歌い方、それまでになかったメロディー、ビート、とにかく新しいことに好奇心を持ってクリエイティヴな作業をしてましたから、おそらく80年代の僕というのは、そうしたことの連続だったし、周りの人たちもそういうアーティストなんだなって見ていてくれたんじゃないかなって思っています。まあ80年代に起こったことで新しいことは、それまでは作詞家がいて作曲家が居て、編曲家がいて、そういう共同作業で、それでまたそこにシンガーが居て、共同作業で作られていたものが、僕のように自分で詩も書き曲も書き、バンドを集めて編曲も自分でして、自分でレコードも作っちゃう、そういう流れの一番最初のあたりに僕が居たのかなって思います。で、やがて僕のようなスタイルをする人たちが沢山出てきて、それが人つながりになった。そしてそれは大きな力になりましたよね、一つの流れになったことが80年代に起こった顕著なことだったんじゃないかなって思います。
3 約束の橋
80年代後半、僕はロンドンに半年間ぐらい住んで、アパート借りて、そこに住みながらレコーディングスタジオに通い、作ったアルバム「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」のアルバムに収録した曲ですね。リビングルームに寝転びながら、この約束の橋の詩を書いたのを覚えていますね。
Q80年代後半からレコードからCD、録音もアナログからデジタルに変化し始めましたが、それらが佐野さんの作品に与えた影響はありますか?
佐野
確かに、80年代それまでのアナログなレコーディングからそろそろデジタルなレコーディングに変わっていこう、というそういう変化はありましたね。ただレコードを作る時に一番大事なことはミュージシャン達の良い音をキチンと良い音で録り、そしてソングライターとして僕は良い誌を書き、良い曲を書き、楽しく歌う。その曲にピッタリあった歌い方で歌う。でー聴いてくれる人にご機嫌な気持ちになってもらう。これが基本的な作業ですから、レコーディングのやり方は確かに大きくこの30年で変わってきましたけれども、レコーディングに対する姿勢みたいなものは何も変わってないと思います。
Qでは自分の作品がレコードからCDに変わってしまうということへの抵抗というのはありましたか?
佐野
僕はアナログ・レコードで育ってきた世代なので、80年代の中盤ぐらい、自分の作ってきたレコードがCDサイズにちょっと小さくなった時には、残念だなぁって思いましたね。というのは多感な頃の僕は、そこに収録されているのは音楽だけではなく、それを包んでいるパッケージですね、もいわゆるアートと考えていましたから、レコードというのは総合的な表現である、音だけではなく、音とかアート、言葉、それらをまとめて見せていく、トータルアートだって考えていたんですよね。そうCDですとグラフィックの表現エリアがかなり狭まりますから、音とアートとの関連で表現できることがかなり狭められてしまう、そういう点でガッカリしてしまいました。
4 ジャスミンガール
自分より先輩のシンガーソングライターの大瀧詠一さんは「バチェラー・ガール」を作ってた、山下達郎さんも「高気圧ガール」を作っていた。僕も何とかガールで曲を書きたいなって思って書いた曲がこの「ジャスミンガール」です。
Qこの30年間、テクノポップやオルタネイティブサウンドやありましたが、佐野さんにとって刺激的なものは何でしたか?
佐野
刺激と言って良いかどうかわかりませんけれども、80年代においてはテクノロジーが生み出した音楽ですよね。所謂コンピュータを使った音楽あるはテクノ・ロック、テクノサウンド、それは今までのロックポップ音楽のヒストリーではなかったトーン、サウンドでしたから、これは新鮮に感じました。しかし、自分がやろうとは思いませんでした。90年代は時に新しいものは感じなかったです。まあ、既に僕は最初っからオルタネイティブなサウンドでしたし、最初からミクスチャーロックですから、そうしたミクスチャーロック、オルタネイティブロック聴いてもあまり新しさは感じなかったですよね。
5 君の魂、大事な魂
僕は新しいレーベルを作りました。DAISY MUSICレーベル。そのレーベルからの第一弾アルバムが「THE SUN」、そのアルバムからのリーディングシングルとなったのが「君の魂、大事な魂」まあ言ってみればロッカバラードって感じですけれど、まあ朗々とした愛の歌を歌ってみたい。世の中、世知がないですからね、朗々とした愛の歌を僕のレパートリーに曲を加えたいなって思って書いたのがこの曲です。
Qセルフカバーアルバム「月と専制君主」を30年目に作ろうと思ったのは何故ですか?
佐野
ナンと言っても僕のアニバーサリー何ていうことよりも、30年間僕の音楽を支持してきてくれたファンにとっての楽しいアニバーサリーイヤーであって欲しいなというそんな気持ちがあったんですよね。それで僕もベストアルバムを出したり、ライブコンサートもいつもと違った形態のものをやったり、ファンに喜んでもらおうという強い気持ちがありますね。その中の一環の一つとして思いついたのがこのカバーアルバムでした。
6 クエスチョン
Q昨年から3つの違ったスタイルでコンサートツアーを展開してきた佐野さん、佐野さんにとってこのツアーはどんなものでしたか?
佐野
僕はレコード製作を大事として捉えていますが、それよりもっと大事に捉えているのがこのライブパフォーマンスですよね。レコードを作っただけでは作品は完成しない。これはやっぱりツアー、コンサートで披露して、バンドで披露して自分の声で歌って自分の体を使って演奏して歌い、それをファンに届けて、それで初めて曲というのは完成するんじゃないかなって思うんですけど。僕は30周年アニバーサリーっていうことで僕のライブ表現も多様になってきているんですけれども、パート1、2、3と分けて、それぞれ3つの違うバンドと3つの違うパフォーマンス、これが実現できたことは本当に楽しかったし、嬉しかったです。
Q次のライブは3月6日のファイナルですが、大阪というのは佐野さんにとってはどんな思い出がありますか?
佐野
大阪という街でのライブ、デビュー以来、幾度となく、この街でライブをしてきました。一番最初にこの街で演奏したのはバーボンハウスというライブハウス。3日間連続で演奏しました。一日目二日目は殆ど客はいませんでしたけれども、3日目に満杯になってホッとしたというね。何だか大阪の人たちに受け入れられたようなそんな気持ちになって、その次に大阪の厚生年金とか幾つか経験を踏み、やがて大阪フェスティバルホールでコンサートが出来るようになった。毎回多くのファンの皆さんが集まってくれて、そして僕たちの音楽に熱狂してくれる。僕は東京生まれ東京育ちなんで大阪のことは全然わかってないですけれども、文化の違う彼らにね、本当に熱狂的に受け入れられたってことは、僕にとっては本当に嬉しい。まあそういうこともあって毎回大阪のコンサートというのは僕も楽しみにしているんですけれども、キャリアの中で何回か大阪城ホールでのライブもありました。今回も30周年ということで僕の曲を多感な頃に聴いてくれた方たちから、また最近になって僕の音楽に興味を持ってくれた新しい世代がね、皆一同に集まって僕も心を込めてこれまで皆さんが愛してくれた曲をガンガン演奏していく、そういうオールタイムヒッツ的なライブになっていく、大阪城という箱を借りて目いっぱい僕たち演奏を楽しみたいと思うのでね、集まってきてくれた広い世代の人たちも目いっぱい楽しんでもらいたいな。そんな風に思っています。
7 TONIGHT
ゲスト 堂島孝平 からのコメント
佐野さん元気でしょうか?佐野さんがこれを聴いていると思うと、ちゃんとしたことを喋らないといけないと今、心を引き締めておりますが、とにかく僕にとっては佐野さんは初めて日本の音楽ってカッコイイなって思わせてくれた方で、小学校4年生くらいの時でしたか「ワイルド・ハーツ」という曲を聴いて、そう思ってね、それ以来中学生の時からずっと聴いて初めて自分がコンサートを見たアーティストも佐野さんです。これはずっと前から佐野さんにお伝えしていることなので、佐野さんもよくわかっていらっしゃると思ってますが、僕の日本のアイドル、ヒーローでありまして、自分のツアーにも一緒に回ってもらったこともあって、その時、一緒にステージに立ったことにメチャクチャ感動したんですけど、今度は佐野さんのライブに自分を呼んでもらえるってことで、又違った興奮とスリルとそして何かこう緊張感が湧いております。でも何か自分にとっては光栄なことで佐野さんの曲を歌わせてもらうのも嬉しいし、先日佐野さんのライブは見に行っているんですけれども、スタンドのライブでホーボーキングとはまた違った形のライブでしたので、今度はホーボーキングの皆さんと一緒にやれるってことも、とても楽しみにしております。僕は正直、こんなに親類や家族に出たいと思うライブは初めてです。3月6日本当に楽しみにしております。堂島孝平でした。
佐野:堂島孝平君も出てくれるってことで僕も楽しみにしています。
8 レインガール
Qこれからも佐野元春さんを応援して行きたいと思います。
佐野
4週にわたって聴いてくれて、どうも有難うございました。佐野元春でした。
9 ダウンタウンボーイ
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