長い作家生活でドストエフスキーは晩年の三作で初めて父親というキャラを描いたが、いずれも道化風味である。ドストエフスキーの実際の父親が道化的であったかどうかは分からない。
そもそも、父親役を晩年まで描かなかったところにポイントがあるようだ。
悪霊のステパンと未成年のヴェルシーロフは教養人として、ヨーロッパ放浪者、養育義務放棄者として、カラマーゾフの兄弟では肉欲、金銭欲の人として。いずれも道化の化粧を施している。
カラマーゾフ家でもっとも「カラマーゾフ」的な長男ドーミトリーもまた、ドストエフスキーが道化的描写をしている。
ドストエフスキーの評伝などによると実際の父は道化的ではなかったらしい。暴君であったようだ。ということは小説の中の父たちのモデルは実際の父ではなくてモデルが別にあったのか。あるいはまったくのフィクションか。
私の推測ではいずれでもない。実父の影を克服しようとして道化にしたのではないかと考えられる。それでドストエフスキーは父の重圧を克服したのか。したかもしれないが、カラマーゾフの兄弟を書いた彼は力尽きたように死んだ。実父との戦いのなかで。