ドストエフスキー作品に現れたパーソナリティ障害についての若干の観察:
これは彼の作品の特徴のようにもてはやされるポリフォニーとは違う。ポリフォニーなんて小説では当たり前だと思うのだがドストエフスキーの場合だけもてはやされるのはどういうわけだろう。あの時代では独創的というのか、特徴的ということか。バプチンの説明がよほど説得力があったのか。
パーソナリティ障害という言葉は心理学、精神病理学でやたらに多い新語の一つであって、原因からではなくて、いわゆる外面的な症状からクラスター化した「シンドローム、症候群」であり、言葉にうるさい下拙が使いたくない言葉なのだが。
ま、長いものには巻かれろというか、流行には乗り遅れるな、というのか小生も使用してみたわけである。
閑話休題:
ドストエフスキーの場合、比較的初期の作品からパーソナリティ障害的人物が出てくる。その名もずばり「分身(二重人格)」なんてのもある。罪と罰のラスコリニコフはまさに境界性ではなくて本物のパーソナリティ障害だ。
地下室の手記しかり。見方によっては「死の家の記録」もそうだ。流刑地における極悪犯罪人のうちにも聖性を見るドストエフスキーの観察はパーソナリティ障害の事例集とも言える。
さて、晩年の父子三大長編についてみると、悪霊は比較的キャラクターが単純パターン化しているほうだ。テロリストたちはあくまでテロリストだし、お人好しで感傷的な父親はあくまで感傷的だ。人格の不明瞭さという点ではスタヴローギンくらいのものか。
未成年ではパーソナリティ障害を見せるのは父親のヴェルシーロフだろう。息子のアルカージーもそうだが、これは人格の固まらない未成年時代の揺れにすぎないと見ることが出来る。
父子で関心を寄せるカテリーナはパーソナリティ障害の万華鏡である。この作品に限らずドストエフスキーの作品に出てくる女性はほとんどがパーソナリティ障害(境界性)である。これはパーソナリティ障害なのか、たんなる女性特有の性質をカリカチュアしているだけなのか、両方の見方があるだろう。
最後のカラマーゾフの兄弟では境界性パーソナリティ障害のオンパレードである。もっとも、陽性(明るいというのではなくて明確)なのはドミートリー。イワンしかり、カテリーナしかり。ドストで大体同じ役割をする女性にはカテリーナという名前がおおい。グルーシェニカとくにしかり。