親殺しはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の主要かつ唯一のテーマではない。それは落語でいうところの「オチ」である。あるいはプロット推進エンジンの一つにすぎない。
ゲーテの「ファウスト」第一部の子殺し、すなわちファウストに棄てられたグレートヒェンの子殺し、堕胎のように。
子殺しのテーマのほうが文学としてははるかに扱いにくい。そして人間にとっては親殺しよりもはるかに根源的なテーマである。子殺しをあつかうには高度のテクニックを必要とする。これがドストエフスキーが子殺しを正面から扱わなかった理由であろう。
もっとも、彼の父子三大長編(悪霊、未成年、カラマーゾフの兄弟)で子殺しのテーマが扱われていないわけではない。
子殺しが薄められた形で三大長編すべてで扱われている。すなわち、育児放棄である。薄められた子殺しである。ロシアの貴族富裕層では育児放棄が子殺しにいたらない。テテ親はヨーロッパ放浪に逃避する。資金力があるから、子供の養育を他人に託することが出きる。
これが現代日本では育児を他に頼む場所もなく、施設もなく、昔のように祖父母同居で彼らに面倒を見てもらうわけにはいかないから、幼児虐待、子殺しになる。
狭いマンションに押し込められる。昼は金稼ぎに働く。幼児は連れていけない。夜は幼児がセックスの邪魔になる。必然的に幼児虐待、子殺しが増える。
霊長類では子殺しが見られる、それは父親が母親を発情させるためである。幼児にかまけているメスは発情しない。あせって怒ったオスには子猿を殺すことが見られる。そうすると雌サルはめでたく発情するようになる。
霊長類の子孫たる現代の若者の遺伝子に同様のスイッチがあることは疑いをいれない。
つづく