「カラマーゾフの兄弟」のなかで中盤の山場というか、人口に膾炙するというか、一般受けがいいというか、大審問官のくだりでイワンがロシアの家庭での幼児虐待の事例集を集めているとアリョーシャに話すところがある(ちょうどその頃、ロシアでも新聞が普及してきたのでね)。
大詰め第四部の終わり、父殺し裁判の最終パートでモスクワから来た弁護士が満場の傍聴人を圧倒する最終弁論がある。注目すべきはロシア現代(当時)の家庭論である。子供がしかるべき注意を払われず正当に扱われていないと弾劾する。
もちろんポリフォニー小説(小生も都合よく何度でも使っちゃうが)だからさまざまなテーマはある。大衆お好みは大審問官の部分でしかも「神がいなければ何でも許される」というイワンの無神論であることは説明するまでもない。
しかし、ドストエフスキーの主たるテーマは父殺しではなくて、ロシアの家庭における父子関係である。だからドミートリーは父殺しの冤罪を受けたことになっている。父殺しというテーマはアイキャッチングだし、犯罪小説家ドストエフスキーが意図的に作品に付け加えたお化粧であろう。
もちろん冤罪無罪にさせないのが作者の眼目だから弁護人の大演説も論理的なぬけをちりばめる。おそらく意図的にドストエフスキーが加減したものだろう。弁護士が勝って無罪釈放、大団円では風味がなくなるし、後が続かなくなる。
いずれ別稿で述べるつもりだが、ロシアと日本の状況は似ているところがある。ドストエフスキーの「悪霊」、「未成年」および「カラマーゾフの兄弟」は徹頭徹尾、父子問題が中心であり、日本の現代の家庭にそのパラレル・ワールドをみる。
すなわち、「悪霊」のステパンと「未成年」のヴェルシーロフは全共闘世代であり、子供は自由放任、またの言い方ではほったらかし、で大学紛争、東大安田講堂戦争やパリの五月革命解放区をじいさん、ばあさんになっても懐かしく回顧する。
「カラマーゾフの兄弟」の父親フョードルはもう少し時代が下って、今はやりのドメステイック・バイオレンス・パパである。
エピローグ最終章を飾るのは感動的なスネギリョフ一家と息子の物語である。そこには理想的な家庭がある、父子関係においては。しかし、その家庭は貧困、悲惨、病魔の地獄である。こういう環境の中にしかドストエフスキーが理想の父子関係を描けなかったのは一個のアイロニーである。
次回はオイデプ物語と「カラマーゾフの兄弟」の驚くべき構造的一致について