穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

浅井リョウ「何者」

2015-12-12 07:35:23 | 直木賞と本屋大賞

文庫で300頁でいま200頁。これ芥川賞だろう、とカバーを確認。やはり直木賞。芥川賞で技能賞という感じなんだけどね。就活学園物語だが、これ、エンタメなのかな。そう早くは読めない。現在の芥川賞のレベルでいえば、芥川賞でもおかしくない。

暫定評価60点、最後まで行くと(行けそうだが)すこし変動するかも知れない。直木賞で文庫になったのでは最新の受賞作じゃないかな。

「なにもの」と云われるような実のある(実績のある、世に出た)人間になろうとする若者の欲望を描いたものかな。

振り返ると(そのくらい昔になるが)私の学生時代当時の希望(ネガティブなもので)は「何者にもなりたくなかった」若者であった。「何者」になるということは自分をはっきりと限定してしまうことで、それが当時の私には一番の恐怖であった。

だから定義不能、何者にもならなくて済みそうな哲学を消去法で選んだ。

さて、この小説、ツイッターを多用している。この方面に不案内な小生がインターネットであさると、このようにツイッターを取り込んだ小説は初めてだそうだ。それなら技能賞ものじゃないかな。

普通の小説のモノローグというものをツイッターで表している。そして主人公だけではなく、登場人物全員のモノローグで構成している。三人称多視点のモノローグというのは珍しいんじゃないかな。従来型の小説ではこう言う時には

1:手紙を援用 2:立ち聞きという手を使う 3:伝聞、噂

を使う手があるが、せいぜい一人の視点のみだ。

 

ツイッターはやらないが、登場人物の一人の言葉だが、ツイッターというのは最大140文字で自分を表現しなければならないから、なんだったかな、自分をもっとも強く表現するだったかな、なにかそんな制約だか、メリットがあるとか云う。それもいいが、四六時中ツイッターでこんなことをするのは健康に悪いね。

云ってみれば、お湯を沸かす時に10秒ごとに一番熱くなっている表面を掬って放り投げているようなもので、永遠に対流は起こらない、すなわちお湯は全体として沸騰しない。料理だってそうだろう、土鍋に蓋をして一時間じっくりと煮る。

ツイッター世代には精神的構造物を完成する能力はないのではないかな。

続く(予定)