しかし、橘さんは最初はお医者さん志望だったんでしょう?と第九は聞いた。
「私の希望ではないのです。親父が産婦人科の開業医でしてね。私に病院を継がせようとしたんです。命令でしたね。それにね、私もスケベエだったから産婦人科なら面白そうだと考えたんです。女性の性器を毎日見られるんですからね」
「それがどうして精神科に変更したんですか。お父さんもがっかりしたでしょうに」と禿頭が呟いた。
「最初は産婦人科志望だったんですよ。ところがインターンに行ってショックを受けましてね。きれいなビーナスのような性器が毎日見られると思っていたのが大間違いでした。当たり前の話ですよ。患者なんですから、きれいだなんてことは無い。これはどの部位の病気にも言えることだが、病人の体というのは汚物ですよ。だから医者の所に来る。
医者というのは汚物処理係です。金になるから医者になるだけの話です。もっとも中には高潔な人もいますがね。私の親戚にもそういう人がいましたね。彼は治りそうもない難病を直した時に喜びは最高だと言っていましたね」
「彼は開業医だったんですか」
「いやいや」と橘さんは手を振って否定した。「難しい患者がくると、町医者は医療事故を恐れて大学病院に回します。その親戚も卒業以来ずーっと大学勤務でね。とうとう医学部長にまでなりましたがね」
「どうして産婦人科のインターンで嫌気がさしたんですか」
「嫌気をさしたくらいならいいんですがね」と橘さんは言った。「患者の前で吐いてしまったんですよ」
「誰がですか」
「私がですよ。患者の腹部に水か体液がたまっていたんですね。それが噴出してきてもろに頭からかぶってしまいました。むっとこみ上げてきて、げろってしまいましてね。それでね、君は医者には向いていないと先生に引導を渡されました」
「そりゃあ」と下駄顔が言ったが何といっていいか分からない。まさかそれはとんだ災難でしたね、ともいえまい。その当時のことを思い出したのか、橘氏は黙り込んでしまった。
それでどうしました、と第九がうながすようにたずねると、親父には無断で転部しましたと答えた。
「どの科にいっても程度の差はあれ私には患者は扱えないとおもいましてね」というと彼は興味津々に自分を見つめている聞き手の顔を見回した。
「どこへ転部したんです」
「文学部に転籍したんです」
「それはまた思い切ったことをしましたね。法学部とか経済学部ならまだつぶしが聞くが文学部ではね。それで何を専攻したんですか」
彼は恥ずかしそうに小さな声で言った。西洋哲学です、と。
「それはずいぶん思い切ったことを。お父さんはご機嫌が悪かったでしょう」
「激怒しましてね。家を追い出されました」
「それでまた医者になったんでしょう。その辺も面白い事情がありそうだ」と銀色のクルーケースを持った客が割り込んできた。「精神科というと汚物である患部を見なくていいからですか。考え方によれば精神科の患者のほうがもっと怖いような気もするな」