ところで、と第九が口を開いた。「また医者に戻ったというのは分かるんですよ。生活のためというわかりやすい理由だから。彼女や子供にも食わせないといけないのは分かるのですが、どうして精神科を選んだかが知りたい。患者の体に触らなくてもいいからですか」
橘氏は意地悪な質問をする人だなと困ったような顔をした。返事のしようがないというような表情を見せた。「私はね、人生の節目で理屈をつけて選択するなんてことはなかったですね」とまず煙幕を張った。「動機無き殺人、おっと間違えた。危ない危ない。動機無き選択かな」と答えた。
「神様みたいですね」と若き女性哲学徒の長南さんが要約した。橘氏は眼をすぼめて端整な透き通るような象牙色の肌をした彼女の顔を見た。「そうなんですね、充足理由率の第何律だったかな」
「ライプニッツですね。人間のやることにはすべて動機があるという」
「そうそう、自然現象には先行する原因があるみたいにね。しかし、人間の行動には動機がある
と充足理由率を拡張したのはショウペンハウアーでしたね」
「それがまったくないんですか」と長南さんが切り口上で浴びせかけた。
橘さんはおちょぼ口のわりには分厚い唇を舌を出して舐めた。「あなたの厳しい糾弾に窮してお答えするとですな、多少は勉強した哲学と学際的な関係にあるのは精神医学なんですな。無意識にそういうところを考えたのかもしれない。与しやすしと思ったんでしょう」
第九が質問した。「学際的というのはどういうことですか」
「いや、一言答えをひねり出すと新しい糾弾が飛んできますね」と彼は頭をかいた。
「哲学は諸学の母という言葉がありますよね」
「聞いたことがないな」
「そうですか、最近はあまり言わないのでしょうね。私もね、何時頃できた表現だろうと思ってインターネットで調べたことがあります。ところが分からないんですね」
「大体どこの『ことわざ』なんだろう。案外日本あたりじゃないのかな」
「なるほど」と橘さんは膝を叩いた。「そうかもしれません。そうすると明治以降だね。昔は哲学なんて言葉はなかったから」
「ところで、そのことわざのココロは何なんです」
「昔は学問と言うと今でいう自然科学も社会科学も全部哲学者が請け負っていたわけですよ」
「そうらしいですね」
「それが近代になると分野ごとに新しい学問として独立していった。データ収集とか実験とか検証とか新しい手法でね」
「それでいろいろな学問をひりだしたというので諸学の母というんですね」
「ところが母子関係が問題でしてね」
「というと」
「捨て子じゃなくて捨て母なんですよ。母親なんてうざいと言って子供たちは母親を捨てて出て行った」
「へえ、面白いね」と下駄顔が感嘆したように言った。
長南さんはちょっと不安そうな顔になった。無理もない。
「ところがですよ」というと橘氏はみんなの顔を見回した。「例外があるんですね」
そこで橘氏は熟練した噺家が高座で気を持たせるように二秒間沈黙した。
「なんだい」とじれたように禿頭が催促した。
「それがわが精神医学なんですよ。諸学と違って自分のほうから哲学にすり寄っていった」