新入りの橘氏がしゃべくりまくるので、一座では爆笑の連続であった。この静かなスタッグ・カフェでは異例なことである。他の客もびっくりして何事だろうとこちらを見ている。自分の話が受けたのに気をよくした橘氏はますます話に熱が入って、もともとの赤ら顔が興奮で高潮して暗紅色に変わっている。両手を振り回しながら熱弁をふるっている。
とうとう女主人まで来て「面白そうな話ね。私も聞かしてもらえますか」と言った。
「ちょっときわどい話もあって危ないかな」と銀色のクルーケースの男がいったら、橘氏が新しい聴講者を得て張り切ったのか「いや危ないところはさっきで終わりですから、つまらない話ですがお暇だったら聞いてください」と答えた。
それで、どうして哲学を選んだんですか、と第九が誘導質問をした。
「それがね、理由なんてありゃしません。大体が飽きっぽいたちでね、医者も嫌になったし、全然関係のない正反対のことをしたいと思ったのです。それで哲学を思いついたんですね」
「哲学もとんだ人に見込まれましたな」と下駄顔が半畳を入れた。
「まったく、そうかもしれません」というと橘氏は喉が渇いていたのだろう、テーブルの上にあるグラスからお冷を一気に飲み込んだ。あまりに顔面に血が上がっているので脳溢血にでもならなければいいが、と第九は思った。
橘氏は猫が絞殺されたような変な音をだして苦しそうに水を飲みこむとしばらく目を白黒させて息もできないようだった。ようやく落ち着くと、「哲学科に入ってようやくほっとしたんでしょうね。しばらくは授業にも出ず、まったくぶらぶらしていましたね」
「それじゃ哲学もやめて退学したんですか」と女主人が先回りして心配そうに聞いた。
「そうですね、やめようかとも思ったんですけどね。一応卒論だけは書いておこうかと思いました」
「テーマは何だったんですか」
「先生が与えてくれたのはプラトンとアリストテレスの自然哲学という題でしてね」
「それで書けたんですか」と禿頭が心配そうに失礼な質問をした。
「一応どうにかね」
「よかったですね」と女主人は自分のことのように安心したように言った。
「それがね、バカに先生の気に入ったようなんですよ。どこがどう評価されたのかわかりませんがね。それで大学院に残らないか、と打診されたんです」
彼はウェイトレスが継ぎ足したコップの水をまた一気に飲み干した。唇の残った水を右手の甲で拭うと
「ところがね、すべて順調にいかないのが私の人生でしてね。しばらく前から同棲していた女性が妊娠しましてね。どうしても生むというんですよ。そうなるといろいろ生活費もかさむし大学院の学費なんかも払えるわけがない」
「そりゃあ大変だ」と言ったのは病院から検査サンプルを集めて回る若い男である。
「そりゃあ面白そうだ」と無遠慮に言ったのは下駄顔である。「でどう始末をつけました」
「先生には悪かったけど大学院に行くのは断りました。彼女がいうにはしばらくは彼女が勤務を続けて生活を支えるから、もう一度医者の勉強をして医者になってくれというのです。それまでは彼女が働くというのです」
「しかし妊娠しているのでしょう」
「彼女は結構いい会社に勤めていましてね。産休もあるし、出産後も務められるというのです。私が医者の免許を取るまでは働くというのです」
「泣かせるね」とこれは禿頭老人。