ようするに、彼らはカメラを信用しない馬鹿なんですかね、と第九が思いついたように発言した。
「なんだって」
「だって、認識というか思考なんて写真を写すようなものでしょう。それを昔のフィルム時代ならその時代の技術で加工する。今のデジカメの時代なら加工の範囲はぐっと広くなっている。それが思考であり、概念であり、思想であり、哲学なんじゃありませんか」
「なるほど・・・」
「それを対象の裏側か、向こうに何かあるなんて考えても始まらない。というかそんなことを考えること自体が精神病的だと思うんだがな」
「そうだねえ」とCCが言った。
立花はショルダーバッグから洗顔シートを取り出すと、また噴き出した顔の汗を丁寧に拭いた。「中世はね、向こう岸に神様がいると思っていたんですよ。それで神様はどういう方だとか、本当に居るだろうかという事柄を議論していたわけですね、千年以上」
「そうだねえ、ボンサンなんか他にすることもないやね」
「実在論は問題ない。正しいも正しくないもない。実在論を確信しない人間は統合失調症といってもいい。当たり前なことだ。しかし、じゃあ実在は赤いおべべを着ているか、とかあんみつが好きかなんて議論は気がふれている」
誰がが言った。「そうすると、哲学は自分のすることが無くなったから中世の習慣に戻ったということか」
「うむ」というと立花はひざを叩いた。「思弁的実在主義者の議論の仕方はスコラ哲学そのものだね、どうも妙だと読んでいて違和感があったのだが、それだったんだ」
「そういうことなんだ」と確認するように立花はひとりで頷いた。そういう議論は中世、あるいは近世をとおして脈々綿々として続いてきたから、お手本はいくらでも哲学史のなかにいる。そうか、どうもこの四人組は二つのグループに分かれると思っていたが、そうなんだ。彼らの文章にはやたらと古い哲学者の引用が多いんですよ。単なる引用というよりも彼らに依拠している。たとえばハーマンはフッサールとハイデガーに拝跪している。グラントはシェリングに」
「あとの二人は」
「ああ、彼らは哲学以外のものに全幅の信頼を置く。たとえば、ブラシエは自然科学信者だし、メイヤスーは数学が実在を記述する言語として一番いいなんて言っているのだ。その様子は中世のスコラ学者が神学のハシタ女と言われたのに似ている。特にブラシエは完全に自然科学の端た女だね」