突然、下駄顔が言を発した。「そういえばこの間、変な本を読みましたぜ」
三日ひげの伸びた顔面を下顎から上のほうに撫で上げながらつぶやいた。
「何という本ですか」
「えーと、世界はない、とか言いましたね」
「どんな本でした」
「だから世界はないというきちがいじみた内容さ。いや、なぜ思い出したかと言うとこの本は宣伝文句によると、新しい実在論だというのだな。今皆さんが思弁的実在論だとか話していたでしょう。それで『新しい実在論』もその親戚かと思ってね」
作者の名前は、と立花が聞いた。
「えーと、マックス・ガブリエルとかいったな」
それはマルクス・ガブリエルでしょう、と立花が確認するように訂正した。
「そうだったかも知れない」と下駄顔は譲歩した。
「『なぜ世界は存在しないか』でしょう。そういう題の邦訳がありましたよ」
「あなたは読んだんですか」
「いや、読んでいないが」
「どんな内容ですか。よく哲学の本は読んでいるのですか」と第九は土方の監督のような下駄顔を不審げに眺めた。
「そういうわけじゃない。タイトルがあまりに突飛でしょう。彼女じゃないが、題名に釣られて買ってしまった」と恥じ入ったように苦笑したのである。
「論証の粗雑な本でしたな。最初のほうしか読んでいないが。あなたはもちろん読んでいるのでしょう」と立花に聞いた。
「いや、読んでいません」
「そうですか、題名の突飛なことと、選書で二千円弱と人文書に多い値段の高い本ではないからでしょうね。発売してから二年足らずのあいだに17刷も出ている。そんなに売れていればきっと面白い本だろうと思ったね」
「面白かったですか」と彼は間の抜けた質問をした。
「いや、読んでいてバカバカしくなったな」