穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

#3、 ハイパーカオスに到達

2020-09-27 07:22:14 | 読まずに書評しよう

 お話しなければいけないことは二つある。メイヤスーが結論にどういうふうにして到達したか。ついでそれはどういう結論であるか。普通はこの順序で記述するものだが、ここでは逆にした。というのはどうして頂上に到達したか、という登山法は、別の言葉でいえば論証法は、こなれが悪い食べ物のようなのだ。もっと率直にいえば「屁理屈」としか思えない。

 それにたいして、山の頂上からの眺めはちとオツな、オッと言わせるものがある。ジャーナリスト出身の小筆としては頂上の眺めを紹介してから下山法を述べたい。うまくいくかどうかはわからない。

 物自体というか、即自というか、相関主義的円環の外にあるものと言おうか、それは驚いてはいけません、ハイパーカオスなのである。必然的なのは偶然性なのである。分かりやすくいえば、すべて偶然である。それはいわば気ままな神である。

 ここの所を論証(思弁)していたかどうかは読み逃したが、「大いなる外部」は相関主義的円環の内部にも影響を及ぼすらしい。近代、現代科学は多くの自然法則を発見したが、これは即自の「大いなる外部」の気が変われば、自然法則など破壊してしまう。そのあとには全然ことなる自然法則が出来る。とにかく、ニュートンの引力法則もアインシュタインの相対性理論も現代の原子核物理学の法則もなくなっていしまう。物理学、自然科学には無数の定数がある。光の速度とか。こんなものは目が覚めれば変わってしまうかもしれないのだ。

 しかし、自然科学の法則は数えきれないほどの回数の実証実験で確認されているではないか。どうして、どうして、そうした自然現象の法則性が証明されたと考えるのは浅はかである。それは一時的に安定しているにすぎない。物自体がものぐさから手をつけずに放置しているだけで令和二年九月28日午前零時に破壊してしまうかもしれないのだ。

 一時的安定期間は150億年かもしれない。物自体(神様)の御心次第なのである。

比喩的に説明すると、メイヤスーの神はキリスト教の神ではない。ギリシャ神話の気まま横暴なゼウスのようなものだ。ユダヤ教の神、旧約の神の性格もメイヤスーにちかい。日本ではこういう神を「荒ぶる神」という。仏教でも、ヒンズー教の神を習合したものにこの種の神がある。