穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

大江健三郎の「万延元年のフットボール」を読む

2022-02-05 06:53:57 | 書評

 さきに大江の「芽むしり仔撃ち」の感想をあげた。「ホウホウホウ」と村上春樹のような嘆声をあげたのである。二十二歳の作である。その後多数の作品を発表しているからどんなに大化けしていることか、と興味を持った。
 小筆はこれまで大江健三郎の小説は読んだことが無い。「芽むしり」が初めてであった。私の持っている印象はもっぱらマスコミで折に触れて報道されている断片的な情報だけである。主として彼の社会的な発言である。どうして「芽むしり」の作者が安っぽい「戦後民主主義」のトーチ・ランナーに祭り上げられたのか?
 どうして文士的センスの欠片もない言葉「戦後民主主義」の旗をふるようになったのか。それで評論家たちが言う、彼の前期と後期を分けるという作品「万延元年のフットボール」を手に取った。
 およそ150ページあたりまで目を通した。全体で450ページほどの著作である。ここで途中書評第一回をあげる。全部読み通せるかどうか分からないのでとりあえず途中書評をあげる。
 スタイルというか構成が変わっている。第一章はシュールと言うか観念詩というか、褒めて言えばそういうことになるのだが、解説の加藤典洋によると「難解」だったか。この作品は講談社文芸文庫と言うあまり売れそうもない作品が収録されている文庫にある。たしかに第一章にびっくりして普通の読者は敬遠するだろう。作品は講談社の群像と言う雑誌に連載されたので講談社が文芸文庫に収録したのだろう。
 第二章以下はがらりと平板になる。そして冗長である。加藤の解説を読んで変だと思ったのは作品は五部仕立てというが文庫には十三章あるが、部分けはしていない。これでは丁寧な解説とはいえない。
 作品の舞台は四国の山村である。大江健三郎の出生地である愛媛県丸子町(現)をそのまま描いたものではないだろうが、出生地が色濃く反映されていると思われる。「芽むしり」にも出てくるが、この作品でも「朝鮮人部落」が一つの舞台となっている。愛媛県の統計を見ると、いつの物か分からないが丸子町には朝鮮人居住者は一人となっている。勿論小説の舞台は終戦後の話であるから、それから減ってはいるのだろうが。朝鮮人部落にどういう意味を持たせているのかがよく分からない。
 以後読み続けられればアップを続けたい。