穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

めんどりとしての作家 

2022-05-08 08:35:42 | 書評

 久しぶりにオースターを読んだ。「ブルックリンフォーリーズ」。この本は現在は文庫になっているが、文庫化の前に単行本で買ったがどうも読む気がしなくて放置してあった。奥付を見ると2012年の第二刷である。十年以上放置してあった。帯を見て興味が失せたせいもある。
 最近徒然に耐え兼ねて、ふと手に取ってぼちぼち読み始めて昨日読了した。オースターの後期の作品ではいいほうかもしれない。彼の本は翻訳市販されていて新刊書店で容易に手に入る本は大体読んだが、良いのはいわゆる紐育三部作と「鍵のかかる部屋」までだね。
 彼の翻訳は他にも大分あるようだが、絶版なのか新刊書店で手に入らないものも結構あるようだ。だから正確な評価は出来ないが、作家として売り出した後は書店との二人三脚で作っているのか、パンチが無くなっている。長くはなっているけどね。
 日本でも事情は同じだと思うが、一応名前が通るようになると、作家は量産体制に入る。大体長くなるが、処女作時代の熱はなくなる。作家も生業となると、つまり小説を書く以外に収入の道がなくなると、一定の規模で量産体制に入るということだろう。一方出版社のほうも、一応名前だけである程度売れるようになると、作家と二人三脚でせっせと作家にタマゴを産ませ続けるようになる。出版社と作家の産学体制だ。出版社は養鶏農家になるわけだ。
 この製造ラインに乗ると作品の質は落ちる。落ちた分はページ数と通俗化で乗り切るわけだ。勿論作家によってそうでない場合もある。たとえば、オースターもかなり関心を持っているカフカの場合は作品に経年劣化は認められない。これは彼が生前職業作家として世に出ていないことが主要な要素と思われる。官吏としての安定した収入もあったし、生家はまずまずの商家であったらしい。少なくともカフカは住宅費の心配はしなくてもよかったわけだ。したがって通俗化したり作品の質を落として商業化路線をとる必要も無かった。



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