太平記の一節に新内節とか清元のような色っぽい小唄的表現が紛れ込んだらどう訳すか。原文が意図的に破調をねらったもので、それが決まっているなら翻訳も工夫しなければならない。
そうではなくて、それがその作家の文章修行の過程でかぶれた、こった美文調が思わず露出したもので、前後と調和も無く、あえて意図的に破調を狙った者でなければ平凡に意訳するのもありかもしれない。
マルタの鷹第10章冒頭に
Beginning day had reduced night to a thin smokiness when Spade sat up.
(Vintage Crime)
とある。
こういう表現にはじめて出会った。わたしにはどうも典拠のある表現の様におもわれたのだが、あまり英米の小説をよんだことがないので普通の表現かも知れない。reduceにはたしかに何々になる、という意味も有るが。あまり見かけない。詩的というかひねった文章の様に感じた。ハメットのマルタの鷹の前後の文章からまったく浮き上がっている。英米文学の専門家なら典拠があるのか、ないのか分かるであろう。
第9章のおわりで夜も遅く、スペードのアパートでブリジッドとスペードが簡易ベッドのうえでギッタンバッコをした訳である。9章の記述から読むと、二人は謎のような、禅問答のような腹の探り合いをああでもない、こうでもないと延々とやっていたのだから床入りはもう早暁と言ってもいい頃であろう。
霧のサンフランシスコでこの時期*何時ころ夜が明けるのか知らないが職業的探偵意識が彼の目をさましたのである。おそらく1時間か2時間しか寝ていないであろう。新内ならカラスの鳴き声に目を覚まされた、とやるところであろうが、霧のサンフランシスコではthin smokinessとなるのである。
* この小説で季節についてはなにも書いてなかった様に記憶するが読落しているのかな。
参考に創元文庫と早川文庫の訳を示しておく。いずれも平板に説明的に訳しているが創元文庫の方がやや雰囲気を出している。
そこで、諏訪部氏が「マルタの鷹講義」でなにか触れているかなと思ったのだが全然言及がなかった。
創元文庫142頁
スペードが起き上がってみると、夜はすでに白みそめて、薄い朝靄がかかっていた。
早川文庫150頁
スペードが上体を起こすと、夜の闇は明け方の煙った薄明かりに変わっていた。
情事のあとの短夜を恨む表現は、泥棒の様にブリジッドのホテルの部屋に忍びこん家捜しするスペードの行動の表現としては原文でも浮き上がっているが。